花と鬼の子

白米おいしい

碧と翠、どちらがあおい?

 天気予報では、今年の梅雨は雨の日が少ないといわれていた。靴は濡れるし傘で手がふさがるし、あまり雨が好きではないあおいはなんとなくほっとしながら学校へ向かっていた。

 今朝はまだ曇り空である。テレビを見たとき、夕方には降り始めるでしょうとアナウンサーのほがらかな声が伝えていたので、少年はしぶしぶかばんに折り畳み傘を入れることにした。帰るまでなんとかもちこたえてほしい。灰色の空に願い事をする。


 登校途中に犬の散歩とすれ違いながら、碧は小さな公園の中を横切った。植え込みの紫陽花あじさいがだいぶ色づいている。つぶつぶとした黄緑色の小さなつぼみの周りに飾り花が開き、少しずつ青く染まっていく様子を毎日眺めるのが楽しみのひとつだった。


 芝生をよけて小石が散りばめられた土の上をザクザク踏み歩いていくと、咲きかけの紫陽花の前でぽつんとたたずんでいる少年が目に入った。衣替えをした白の半袖シャツに紺の学生ズボン、たぶん碧と同じ学校の生徒だと思われるのだけれど、彼は鞄を持っていなかった。背中で両手を組んで、のんびりと花の見物をしているようだ。荷物はどこかのベンチに置いてあるのだろうか。花の盛りはまだ先だというのに熱心な奴がいるものだと、碧は深く考えずに足早に通りすぎようとした。


 少年はときおり首を伸ばして、奥に隠れた花をのぞいたりしていた。碧がその後ろに近づいた時、足音で気がついたのかわずかに顔をこちらに向けて声をかけてきた。


「おはよう」

「あ……おはよう」


 不意打ちだった。完全に他人だと思っていたので挨拶をしてくるとは考えていなかった。碧と同じ年頃の少年は声変わりが終わって落ち着いた様子ののどをしていた。


 少年の顔を見てやろうと思って碧は歩きながら振り返ったのだけれど、もう彼は碧なんて興味もないかのように、あちらへ一歩遠ざかっていく後頭部しか見えなかった。あのやわらかい黒髪の少年は学校では見たことがない。


 もしかして転校生かしらん、と碧はふしぎな存在に名前をつけた。それで一応心が晴れたので確認のつもりでもう一度後ろを振り返った。少年はいなかった。碧は公園の出口ではたと立ち止まり、ぐるりを見渡してみた。自分の他に学生の姿はない。

 空は灰色、緑の葉に包まれた青い花がぽつぽつと遠目に映る。湿った土の匂いが風に乗って流れてきた。鞄に入れた御守りが役に立つかもしれない。



 結局その日は転校生のての字もなく、学校は無事に終わり、碧は朝の少年のことを友達に話す機会なく校門を出ることになった。少しばかり風が涼しい。雲はさらに重たくなっている。さよならと見送ってくれる教師が降らないうちに早く帰れと追いたてた。


 今日のハイライトと称して、面白かった教師のセリフを友達と口をそろえて真似をしながらの帰り道。四つ角で皆と別れて、碧は一人で例の公園へ入っていった。

 まあいないだろうと思っていたけれど、やはり目がきょろきょろと「彼」を探してしまう。気にはなるが今日かぎりだろう。一晩眠ればさっぱり忘れているはずだ。


 碧は朝と同じ姿の紫陽花の前で止まった。あの少年にとって花の観察は大切な趣味なのかもしれないが、碧にはただの世界の背景にしか映らない。「アジサイ」と聞いたら、写真で見るような色とりどりの完成された花の姿だけを思い浮かべる。

 彼はつまらなくなってため息をついた。


「俺にはわからないや」

「そう? きれいだと思わない?」


 えっ。すぐ後ろで声がした。あの少年だと悟って碧は振り向いた。いつの間にいたのか、足音もなくほんの十歩離れた場所に立っていた。ざっと全身が目に入る。彼は制服に素足であった。靴はどうした、歩いて痛くないのか、そんな疑問が碧の頭の中で素早く駆け巡り、声に出す前にさらに別の驚きでかき消された。


 口の端を上げてすましている少年のおでこには、前髪のすきまから小さなつのが見えたのだ。物語の挿絵に描いてあるような、鬼と呼ばれる角が、二本。そして、

 はじめて見たその顔は、どこかで見たことがある。というより、碧そのものだった。朝はわからなかった。意識していなかった、靴も顔も。今ふたりで向き合って、鏡をチェックするようによくよく調べることができる。


「君は……」

「僕? 僕はアオイ。翡翠ひすいの翠と書いてアオイ。ほら、アオリンゴだって緑色をしていても青っていうだろう」


 わけがわからない。アオとミドリの違いについて述べられても、碧はすぐに理解することができなかった。初対面で情報量が多い。口をぱくぱくさせたのち、ようやく自分の名を告げた。


「俺も……アオイなんだけど」

「そうなんだ? じゃあ僕はミドリでいいよ」


 あっさり名前を変更する。ニックネームなのかもしれなかった。しゃれた名付けなのに特にこだわる様子もなく、みどりは碧の隣を歩いて紫陽花の前で一緒に並んだ。

 碧はおそるおそる少年の横顔を見てみたのだけれど、どの角度から見ても碧少年その人だった。前髪にほとんど隠れてしまう二本の角をちらりと盗み見る。


「何?」


 翠がたずねてきた。碧のとまどいを知ってか知らずか、静かな声だった。勇気を出して聞いてみる。


「……あの、失礼なこときくけど、君の顔って、俺に似てるんじゃないかと思って……」

「生き別れの双子かな」

「違うと思う」


 さすがに即答してしまった。反応がおもしろかったのか、くっくっと翠は喉の奥で笑う。ひとしきり肩を震わせてから、二の句を継げない碧の前で片手で前髪をかき上げてみせた。角があらわになる。


「そう、ちょっと君の顔を貸してもらったよ。なかなか巧いだろう?」

「……翠は、鬼なのか?」

「君がいうなら、そういうことにしておこうか」

「ちょっと、さわってもいいかな」

「うん? あいたた! なんだよ、なんで僕の耳を引っ張るんだ。ふつう、自分のいたたたた」

「夢じゃない……」

「ひどいな……」


 翠のひょうひょうとした態度のおかげで、緊張がほぐれた碧はつい手を出してしまった。どうやら幻覚ではないらしい。


「翠、君はいったい何者なんだ」


 本の読みすぎでは……と自分でも思うようなセリフを口にしている。ふつうに生活していたらめったに使わないフレーズだったろう。

 でも、目の前にいる鬼の子は、ふつうではない。

 翠は角を見せたまま、にやと笑う。つやのある笑みだ。


「僕はアオイ」

「それはさっき聞いた」


 へにょ、と妙に気が抜けてしまう。碧は翠に関わったことを後悔した。


 かたわらの紫陽花の青い花に露が乗る。やがてぽつりぽつりと葉を揺らす。



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