溝とやる気スイッチ

平たい台の上を滑る、ガラス玉のような人生だ。

両手で傾けて落ちないようにバランスを取る。


始めの内は落ちないようにだけ。

中心から離れないように、右へ左へ。

徐々にコツをつかんで、ピタリと止めることが出来る。


余裕が出てきたので周りを見渡してみると、まるでバイオリンを弾くように

美しく転がす隣の子。

表情も自信にあふれていて、玉も見せつけるようにカーブを描く。


真似てみるけれども、危うく落としそうになる。

危ない危ない。


隣でぱりん、と音がする。

砕けた玉と、崩れ落ちる男。

挫折を見た。


ああにはなるまいと、冒険を止める。

天高く飛ぶ飛行船からは警告のアナウンスが響き渡る。

「リスク」の三文字が物理法則を限定するように、いつしか僕の玉は慎重なメトロノームのように同じふり幅を繰り返す。


親や友人は、それを「安心」と呼んで価値を付ける。

獣に繋がれた鎖のように固く、天使の羽のように暖かな箱庭が居場所になった。


すっかりと社会が求める溝を僕が投影し終わるころには、無個性が鰯のように隊列を組んでいた。

「好き」には動詞が無く、「あこがれ」は影しか映らず、「幸福」はファンタジーであった。


TVやネットからは、宙を舞ったガラス玉がキラキラと映し出される。

みなその輝きに目がくらみ、光が生み出す影を私のものだと勘違いする。

それに熱はなく、網膜に張り付いた記憶の残滓に過ぎなかった。


絶対に落とすことはないと、確信は出来ないものの、落とすことはないだろうと、みなが、私が、妄信できるほどには幸福で。

でも何かが違っていると、葛藤している。


思い通りなのだ。けど思い通りではない。

答えはわかっているけれども、書くことが出来ない漢字ドリルの宿題。


インクはリスクに吸い取られ、惰性の溝が心にすっかり刻まれてしまったのならば。

一度しゃがんで、静かに板を置こう。

両手で大切にガラス玉を地面において、板をひっくり返してしまうのだ。


好きは「すること」、思いどおりは「繰り返すこと」。

自分だけの滑らかな、気持ちの良いカーブが心に浮かんだら、ペンを取り出して線を書こう。

あとはスマートフォンを置いて、両手で丁寧に線をなぞる。

試しに転がしてみて、気持ちよければそれでいい。

途中嫌なチリや雪が積もるのならばめんどくさがらずにすぐに取るべきだ、と思う。


元から動力などガラス玉についてはいない。

溝を転がすワクワクを増やすには、やはり思い通りにするための準備が必要なのだ。

つまるところ、やる気スイッチなんてどこにもない。

あるのは、ただの溝だけだ。

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