我が信仰の終わりと炎花 -犬生きのメモ-

信仰が力を持っているのではない。


継続が力を持つのだ。

死を意識するために神が作られ、生きている限り死を実感して生きるために宗教があり、信仰が生まれた。


信じることを忘れた現代人が悩むのは、絶対的な存在を失ったから。

つまり、継続と神が切り離されてしまったのだ。


ならば、何を神として生きればいいか。

それは、毎日意識することだ。

食べて、寝て、性交することに困らなくなった人類は、不満を失うとともに、ハリを失った。

ハリを失った人類は同時に、信じる継続性を失った。

それはつまり、何を依り代に生きればいいのか分からなくなっているのだ。


神を失った時代に、信じるべきものは自分自身だと、とある哲学者は唱えた。

自分を意識する継続性は、根本的なものをベースとするといい。

それは、劣等感や欲求不満、つまり、自分との葛藤だ。

絶対感を得るためにぶち当たっている壁、これにぶつかって打ちのめされるダメージ、跳ね返りが、生きる快感なのではないだろうか。


生きることに臆病になってしまった私は、満足に自分を試せなくなっている。

目標や計画を立てる事、それが失敗に終わることを恐れ、立ち尽くしている。

周りが素早く流れる中で、自分だけが停滞している。

それでいいんだ。


流されていても泳げればいい。

手足で泳いでいる限り、摩擦が生まれ、憤りが産まれてくる。

その摩擦と葛藤を加えて生きない限りは楽しく生きることはできない。

内的な痛みになれることで、外的な痛みに強くなることが出来ると私は信じている。


だからこそ、自分を試し、挫折を繰り返す。

高速で痛めつけ、高速で回復し、高速で立ち直るしたたかさを私は持ちたい。

我が闘争は、内を焼き続けるチリチリとした痛みと成功の連続であり、比較ではなく、自身に対する痛みのみで発芽する炎の花なのだ。

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