他律的良心について2 『美人かイケメン以外、不機嫌になってはいけない。』
齋藤孝の著書「上機嫌の作法」のなかで気に入ったフレーズがある。
『美人かイケメン以外、不機嫌になってはいけない。』
コミュニケーションをとるうえで、相手に何かを与える姿勢でいなければならないという。
不機嫌とは相手から機嫌を奪う行為であって、けっして与える行為ではない。
しかしながらイケメンや美女の憂いの表情は、人々に感動を与えるものである。
故に、美人かイケメン以外不機嫌になってはいけないのだ。
といった具合の主張なのだが、この考えは他律的良心にも大いに当てはまる。
役割分担の上に、他律的良心が生まれた。
この背景には「そのほうが多くを与えられるから」といった前提が存在する。
不得手なものをやらせるよりも、得手をやらせたほうが集団に与える幸の量が多いからだ。
人と人との関わりや協力において、一緒にその空間を楽しくしていこう、善くしていこうという関係は常識のレベルだ。
しかしながら、その環境に行くことで楽しくしてもらおう、だとか自分が良くなろうとしている輩が存在することも確かだ。
その集団に入る準備もせずに、ぶすっとした表情で入場し、ワタシには何の力もないことを表明するかのように無関心を貫く。そのくせ関心が向かないとこの場は私にとってふさわしくないとしてさらに不機嫌になる。
職場ではまれだが、家庭においては散見される事例だ。
共同生活を送るうえで、部屋を片付けたり、ささやかなプレゼントをしたり
、家事を積極的に行うことはお互いに空間を楽しく過ごすために必要なことだ。
これは、能力に左右されないささやかなことで、ある程度の人なら誰にだってできる心がけのようなものだ。
これが明文化されないとしないレベルになってくるとストレスを感じやすい環境になる。
「そんなことは言われるまでもないことを強制される」からだ。
元気な挨拶をしましょう。なんて小学生で習うことだ。
小学校で初めて社会教育を受けて覚えたことでさえ、張り紙で書かれる会社だってある。
あたりまえが一番難しいというが、当たり前が難しいことはあたりまえなのだ。
難しいことをみんなでやるから価値がある。ルールが効力になる。
やがて、それが当たり前になり、明文化を無くし、自律的良心に根付いて初めて教育は完成するのだから。
明るく、元気な挨拶をすること。その場を気持ちの良いものにすること。
そのために準備をすること。
いつも機嫌がよい人はこれを無意識レベルで行っている。
それは他律的良心から実行を重ねて、自律的良心まで根付いているからなのだと思う。
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