他律的良心について1 『村人Aは技を覚えない』

社会集団において共同生活を送るうえで欠かせないことがルールだ。

明文化されたルールを最低限守らなければそこで一人で生きていくことはできない。

まれに、明文化されていないルールも存在するが、これを読み取る力も他律的良心にあたる。

他律的良心は集団での生きやすさに直結する力である。


人は一人では生きてはいけない。

人ひとりが持つ力はわずかなものであるし、大きなコトを成そうとするときは協力するほうが勝手が良い。

家を建てる、狩猟をする、家族を守る。

そうして社会が構成された。


同時に分業も行われた。

男女の差でも、能力の差でも適材適所が行われ、その場所で、その役割を果たすことで、社会の機能が効率化していった。

しかし、人間は機械ではない。与えられた仕事にストレスを感じる。納得がいかない。そういったとき、パフォーマンスが大きく下がる。

個の正しさと社会の正しさがぶつかったとき、それを滑らかに嚙合わせる力が生まれた。それが他律的良心だ。


他律とは文字通り外から与えられたルールだ。

一つの良心だけではぶつかってしまうから、ペンキの上塗りのように他律的良心を身に着けた。

言い換えれば、他律的良心とは強い理性だ。

自律的良心は情動であり、心が受けるストレスをうまく緩和する目的で他律的良心が存在する。

俗に、空気が読める、世渡り上手といわれている人は、受けるストレスが少ない。

心が傷つく要因を理性的に考えて、回避する術が長けているのだ。

その淡い、最低限のルールが法律であり、最も濃厚な部分が空気が読めるといった微妙で絶妙なコミュニケーション。

つまり、自らの心を守るためには頭を使ってストレス要因を回避しようと賢く考える力が他律的良心だ。


時にこの話をすると、人に合わせることが疲れるだとか、本当の自分をありのままに表現することがストレスのない生き方だ、とか意見する人もいる。

確かに、ストレスを回避するためにストレスを受けることは一見矛盾しているように感じる。

思うに、同じストレスでも賢くストレスと付き合う人と短絡的なストレス対処を行う人がいるのではないだろうか。

RPGのゲームで考えてみる。主人公は敵を倒しながら目的のゲームクリアを目指す。敵を倒すごとにレベルが上がり、新しい技を覚える。これはとても楽しいことだ。

では、もしもゲームの主人公が村人Aで、村から一生出ずに、畑を荒らしにくる敵に、同じ手段で戦い続けるといったものだったらどうだろう。

同じ「敵を倒す」といったストレス対応でも、受けるストレスレベルと得るものが大きく違う。

つまり、短期的なストレス対処として「人と合わせる」をしているのと、このストレスから得られるものをは何かとか、これを乗り越えたことで何に近づくのかを得られるのかを意識した上で「人と合わせる」のでは、経験値の付き方と受けるダメージ量が違うということである。

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