汽水遊郭


今日も島風は穏やかだ。

初夏の湿気を含んだ風は、頬を通り過ぎて湖へと駆けていく。


私の住む部屋は二階。

廊下の窓を開ければ海が見える。

部屋の窓を開ければ湖が見える。


海へも、湖へも歩いて三分もかからない。

三畳にも満たない私の部屋を、お客さんは「かわいそうだ」という。

もとから物は多くないし、あまり欲しいとも思わない。

得る事よりも、得てから失うことの方がよっぽど悲しいから。


私が水揚げを迎えた日、紅葉は「よかったじゃない」とほほ笑んだ。

きっとここには、失ったものしかいられない。

失うことへの感覚が鈍くなければ耐えられない。

だからこそ、あまり得たいとも思わないのだろう。


階段を下りて、湖へつながる中庭に出る。

途中門番の左之助が猫とじゃれているのが見えた。

ここの監視は厳しくない。

狭い島で、船の往来も頻繁ではない集落だ。

逃げようとすれば足がつくし、人の手を借りねば出られない。

そもそも、この遊郭から出たいと思う女郎はどのくらいいるのだろうか。

そんな考え事をしながら中庭の安楽椅子を揺らす。

湖を眺めながら、ゆっくりとした時間を過ごせる絶好の場所だ。

大旦那は晩まで帰らないらしいから、使っていても問題ない。


ふと視線を感じて振り返ると、二階の窓から紅葉が見ていた。

こちらが気が付いたことに合わせて、ちょいちょいと手招きをして部屋に消えていった。

紅葉は私の先輩だ。

物心つくころから一緒にいてくれた姉のような存在。

隣の部屋に住み、たまに夜抜け出してたくさんの事を話した。

私の一歩先を経験し、話す紅葉の顔はいつもきまって得意げだ。

窓から私を招く顔にも、そんな香りを感じだ。


「これはみずだこだよ、菜摘。」

ちいさなテーブルには醤油の乗った小鉢と二膳の箸、雑だが愛情を感じる盛り付けの蛸の刺身があった。


「ほら、漁師のテツがさ、気まぐれに持ってきたんだ。」

「あいつぶっきらぼうでデカいことばかり言うやつだけど、かわいいところもあるよな。見ろよ、たんぽぽなんて飾り付けてる。」


「姉さん、言葉が。」


「固いこと言うなよ菜摘。客の前ではちゃんとしているからいいだろ。」


大旦那にいつも男勝りな口調をたしなめられているが、一向に直す気配がない。

器用なもので、客の前ではおしとやかで艶めかしい廓詞を使いこなす。


「それより早いとこ食べちまおうぜ。変なことで僻まれても困るしさ。」


「姉さんがたこ好きだなんて初めて知った。」


一応いただきますをして、一口運ぶ。

なぜ紅葉がしたり顔なのかは腑に落ちなかったが、続けて箸を伸ばした。

みずみずしい舌触りと、ほどよい歯ごたえがおいしい。

切り方はお世辞にも褒められたものではなく、鉈刺身であったが、新鮮なものであることは間違いない。


「おいしいね。初めて食べたけど、好きかも。」

自然と二口、三口と進む。


「うんうん。それはよかった、よかった。」

「昨日、テツが寝る前に面白いこと教えてくれたんよ。」

「みずだこってのは、カニとかの外敵が来ると、子供を守るために自分の足を差し出すんだってさ。」

「素潜りしてる時に見たらしいんだけど、まるでこれで勘弁してくださいって言ってるみたいだったそうだ。」


にやにやしながら刺身をほおばる。


「私には想像できないね。いくら子供が大事だって言っても、一番大事なのは自分だろ。生き残るためならまだしも、ちょっとなぁ。」


「だね。子供ができたりしたら、そういう気持ちになってくるのかな。」


たこを咀嚼ながら、沈黙が流れる。

あたりまえのように先に進み、楽しげに話す紅葉でも未知の経験は怖いのだろうか。

思えば、私と話すときの紅葉はいつも笑顔で、前向きなことしか言わなかった。

私の存在がそうさせているのか、あるいはそう生きようと心掛けているのか、紅葉の表情からはくみ取れなかった。


「私は、私以上に大事なものが出来たら怖いからなぁ。」

ぽつんと、そういって最後の一切れを箸でつまんだ。



紅葉の双子が産まれた三日後に、遺体が湖から上がった。

テツはその一日後に海へ消えた。

その頃から左之助が険しい顔つきをするようになった。

大旦那は子供を遊郭で育てることに決めた。



私は、両方の手に小さな命をつなぎながら、街に架かる橋を渡る。

夕焼けの映る湖に、ふと紅葉の面影を感じた。

ふと、橋の下を覗くと、白い腕のような何かが、海へと泳ぎ去った。


風が湖から海へと駆けていく。


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