第六幕: 菊の花束 - その3/3


 徒歩で妻の元へ向かう。

寺町通りに入り、きれいに整備された幅の広い歩道を歩く。

 郊外に向かって歩くと、遅めに通勤してくるサラリーマンたちとすれ違う。彼らは俺のことをどう思っているだろうか。

 朝っぱらから散歩なんて、暇なじいさんだと思っているだろうか。

 いや、どうとも思っていないだろう。みんな自分の人生を生きるので精一杯だ。

 そんなことを考えながら石の敷居をまたぐと、妻のいる場所に着いた。


「ただいま、亜希子」


 結婚してから久しく読んでいなかった妻の名前を読んだ。

墓石に向かって、話しかけた。


「今日、変なヤツにあったよ。トイレの神様とかって自分のことを言いやがってよ。一緒に楽しく公園で話してたんだが、よく見るとそいつ、下半身丸出しでよぉ」

 …。

「でも、誰にも言い出せなかったことを聞いてくれてよ、二回り以上年の差があるのに、じじいの話に付き合って会わせてやってるみたいなイヤな感じとかなくてさ」

 …。

「男同士、人生について語り合ったんだよ。俺ら気が合ってさ。お互い人生とは仕事だって。俺の昔の話をしたわけよ。おまえにたくさん迷惑かけちまってたときの話よ」

 …。

「そんで、よ。俺は後悔してるって話をしたんだ。結華ゆかに愛想を尽かされちまったりした原因は、自分勝手な俺にあったって話をよ。与えるべき愛をおまえや結華ゆかに与えてこなかったことをよ。だから、俺な、まずはおまえと仲直りしたくて…ここに来たんだ」

 …。


 冷たい墓石から返事は帰ってこなかった。

 妻が死んでしばらく経つ。

娘は二十歳はたちより前で、俺はまだ仕事をしていた。

心筋梗塞で、急にあの世に行ってしまった。いつまでもいてくれると半ば安心していた妻は、いつの間にかいなくなってしまった。

妻の死を受け入れられなかったのか、単に忙しすぎたのか、当時のことは良く覚えていないが、簡単な葬式を済ませたあとはいつものように仕事をした。

娘と妻の死について話し合うこともせず、好き勝手に働いていた。

大好きな母親を亡くした子どもの心のケアを俺はすべきだった。

高校を卒業すると娘は出て行った。

追いかけることも、探すこともしなかった。愛していないわけでは無い。俺には引き留める資格なんて無いのだ。すべてを妻に任せきりにしていたから、娘と言う存在が未知なものになりすぎていた。

会話するのが恐ろしかった。

妻を亡くし、娘に愛想を尽かされた俺が失ったものの痛みに気がつくのは、大好きな仕事も失ったあとになる。身勝手な話で、仕事も失って暇にならなければほんとうに大切なもののことさえ考えない。

考えれば考えるほど後悔が押し寄せてきた。

 失ってきたものの重大さに押しつぶされそうになった。

 墓参りにいけなかったのは、自分を許すことができなかったからだ。

 墓を建てたその日以来、はじめてここに来る。


「なあ、許してくれるか?」

 …。

「愛想を尽かしていたならそれでいいんだ。なんで、死んじまった? おまえがいてくれるだけで、それでいいんだよ。おまえがどんなふうに思っていたのか聞こうともせず、その答えを永遠に手放しちまった」


 知らず、目尻から涙がこぼれ落ちた。

 会話が足りていなかった。ふれあいも足りていなかった。

 今やそれらを得るにはどうしようも無いが、胸が焼け付くほどに失った時間を惜しく思う。


「俺の話を聞いて欲しい…。おまえの話を聞きたいよ」

 心からの慟哭であった。


「お父さん?」


 突然の呼びかけに声のする方を振り向くと、若い夫婦と赤ん坊がいた。

 俺を父と呼んだ女は結華であった。

 最後に見たときは金髪で耳にピアスも開いていたが、目の前の彼女は黒髪で耳にピアスは無かった。

 俺のことを見る目も、昔は鋭く突き放したような目線だったのに比べてずいぶん柔らかくなっていた。きっと、後ろで恐縮している男のおかげだろう。


「あ、ああ。じゃあな」


 俺は目を伏せ、足早にその場をあとにしようとする。


「まって」


 足を止めるが振り返らない。ただ、自信が無いからだ。

 仲直りの決心を固めたが、恐ろしくて足がすくむ。


「お墓参り、来るんだ」

「今日が初めてだ」

「花、お供えしないの?」


 朝買った花束を、未だに握りしめていることに気がついた。

 供えるような立派な分量は無い。両脇の花瓶に三~四本ずつしか供えられない。それでは、あまりにも貧相でみすぼらしいと気がつく。


 今日もどうせ捨てるだろうからと、少なめに買ってしまっていたのがあだとなった。

 俺はこの場から消えていなくなりたいと心から思った。


「私たちも買ってきたから、一緒にお供えしよう」

「いや、俺は」

「あのね、お父さん。私たちを見て」

 娘がいっそう力強く放った言葉に、のらりくらりと向き直る。

端から見れば中学生が親に怒られているようにも見られかねないほど、俺は目線が合わずしょぼくれていると思う。

「この人は政弥さん。須藤政弥さん。 今の私の旦那さん。職場で会って、去年結婚したの」

結華は結婚していた。


 何の連絡も無かったのは俺を許していないためか、それともいってもしょうが無いと思われていたからだろうか。

 紹介された男は「どうも…」と短く言った。百八十センチメートルはある身長を少し縮めて、緊張していた。

無理は無い。妻の男親と会うのに緊張しない男はなかなかいない。


「この子はタケル。私の息子で、お父さんの孫」


 その赤ん坊は太陽の光がまぶしいのか、眉間に皺を寄せて俺のことを見た。

 目つきの悪さが、母親似だなと思った。


「なにか、言うこと無いの?」


 結華は俺に語りかけた。

 聞きたいことはいろいろある。

 おまえの夫はどんなやつだとか。子どもはずいぶん大きいが、まさかデキ婚かとか。

 でも、それを聞く権利は俺には無い。

 それでも、言っておかなければならないことがあった。


「立派になったな」

「え?」


 娘が期待していた言葉では無かったのだと思う。

 それでも、今俺が一番に感じた正直な気持ちを口にする。


「すごく立派になった。妻であり、母親の顔をしている。俺はおまえに何もしてやれなかった。俺がしてたのはおまえに住むところを提供して、母さんに食費を渡しておまえを育てさせただけだ。父親らしいことはほとんどしてやれなかったと思う。母さんが育てたおまえが、見ないうちに立派になっていて、正直驚いてる」


 娘とまともに会話するのはいつぶりであろうか。

 少なくとも俺は緊張している。

 一方、娘はこんな状況でも堂々としていた。

 その姿を見ただけでも、俺が知らない彼女の人生でどれだけのことを学んできたのかが推し量れる。


「それじゃ、俺はこれで。花はここに置いておくから、生けてくれ」


 結華の横を通り過ぎて、俺は逃げ帰る。

 これが俺にできる精一杯の祝福だ。

 やはり、今更仲直りしようとなんて思うのはやめることにする。

 返事が返ってこない墓に独り言を言う分にはどうにか胸のうちを吐露することはできるが、長らく会っていない娘に面と向かって謝るなど、意気地の無い俺にはできない。

 結華だって、今更関係の悪い父親がしゃしゃり出てきてもうれしく無いだろう。家族に迷惑がかかってしまう。


「たまには、孫の顔も見に来なよ。私たち、上堂に住んでるから、これるでしょ?」

 俺の自宅からはかなり離れた隣の県の地名をさして、孫の顔を見に来いと言った。俺はなんと言っていいかわからず、背中でその言葉を受け止めた。

 堂々としていて、包容力がある。亜希子みたいだと思った。


「俺は…、家族を大切にできなかったと言う意味ではおまえに謝る価値も無いクズだ。だから、おまえが夫に選んだ人や人生の選択に四の五の言うつもりは無い。いまさら、情に訴えかけるようなことを言っても薄っぺらいだけだというのはわかっているから、弁解もしない。ただ、おまえが大きく立派に育ってくれてほんとうに安心した。…政弥さん。図々しいとは思うが、あんたにお願いがある。 娘を死ぬまでずっと幸せにしてやってくれ。俺が与えてやれなかった幸せを、あんたが結華にやってくれ」


 口をついて出たのは、情けない本心だった。

 娘に謝るわけでも無く、失った時間のことを悔いるわけでも無く、意味も無くかっこつけて、全部他人に丸投げする。

 もっと気の利いたことを言ってやりたいのだが、俺には無理だ。


「はい。必ず幸せにします」


 低めの声で、力強く言ってくれた。

 俺は失礼は承知の上で、振り返らずにその場を去る。

 帰ったら、トイレの掃除をする。

 明日から、トイレで新聞を読むのはやめる。


              ▼            ▼

 

「いいお父さんだね」


 父の背中を見送ってから、政弥さんが私に言った。

 私は正直に言って、煮え切らない気持ちを持っている。

 数年前、母が死に、私が深い絶望の淵に立たされたとき、私は自暴自棄になっていた。中学の頃に付き合っていた友人たちは軒並み半グレのようになっていて、どこから嗅ぎつけてくるのか心の弱っているときに限って優しく声をかけてくる。


 高校に上がるときにそういった付き合いとは距離を置いていた。

 中学二年のあたりで、友達のひとりが白い結晶のはいったパケを持ってきて見せびらかしていたのを見て、さすがにこのままではいけないと思ったからだ。

 関係はギクシャクしていたが、私は警察官の娘なのだという自負があった。

 なにより、このまま流されると母を悲しませることになると直感したからであった。

 悲しませる母もいなくなってしまい、良くない道に進もうとしていたとき、私の前にトイレの神様が現れた。


 あの経験は、今考えてもクスリで見た幻覚なんじゃ無いかと半信半疑なのだが、トイレの神様は私のいうことを親身になって聞いてくれて、正しい道をしめしてくれた。

 いや、彼曰く「僕は話を聞いていただけで、正しい道にあなた自身が気がついただけ」だったか。

 私は友達づきあいから逃げるように地元を離れて、家からも出て行った。

 そのとき父が、私にとって気軽に相談したり心の支えになってくれたら、一瞬でも危ない道に足を突っ込むことも無かったかも知れない。

 だが、当時の父は私に興味なんて無かった。

 父の役割をしてくれていなかったので、やはり私は父のことを少し恨んでいたのだと思う。

 しかし、墓の前で手も会わせずに泣いていた姿を見て、頭ごなしに父のことを否定するのはやめようと思った。


 政弥さんは『いいお父さん』といった。きっとそれは違う。

 何があったのかは知らないが、今後に『期待できる父』くらいにはなったのではないだろうか。


「そうね。父のことはきっと時間が解決してくれるでしょ。さあ、ブルーレット買って帰るわよ。あれ切らしてるとすぐに黒ずむからね」






                                 第四幕 了

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