第五幕: 菊の花束 - その2/3
男は自分の話をよくしてくれた。
初対面の人間にここまで自分の内側をさらけ出す勇気は見上げたものだ。相手に会わせて、俺も少し立ち入った話をしてやりたくなった。
「…じゃ、約束どおり。俺の人生の話だ。ひとことで言うと、今ではこう思ってる。
『愛』だとな」
「…愛ですか? 少々驚きました。初対面で申し訳ないですが、この数分の間の会話で、あなたはそんなこと言い出す人では無いと思いましたから」
「ん? フッフ、だろ? 何でそう思っているかって話をしていいか? 」
「ええ、お願いします」
「少し長くなってもいいか?」
「遅くなりすぎると会社にバレるので、できれば手短にお願いします。ただ、あなたの話には興味があるので、言いたいことを余すこと無く言ってくださると助かります。早口でハッキリと聞き取れるように言えば何の問題も無いと思います」
「んな、アナウンサーみたいなマネができると思うなよ…まあ、善処する」
『愛』の話をしようとする俺は、一呼吸おいて語り始める。
俺は誰かにこのくだらない話をしたかったのだ。
まさか、公園で会った見ず知らずのサラリーマンに言うことになるとは思わなかった。
「まず、俺も若い頃は仕事は人生そのものだと思ってた。俺が何をやっていたか言ってなかったよな?」
「はい」
「警察官だ。さっき定年を迎えた警察の話を聞いたときは、少しドキッとしたぜ。そのじいさんはどうだったか知らないが、俺は仕事が好きだった。捜査のための聞き込みや張り込みも、若い頃によくやってた交通整理や、年食ってからもやらなきゃならん資料整理・作成。全部がやりがいだった。立場上、いろいろな人から感謝されることが多かったが、俺もあんちゃんと同じで、誰かに感謝されたいからやってたんじゃない。ただ、この仕事が好きだったんだ。何がって言われると、悩むんだけどよ。天職だった」
「僕にも、同じ職場の中でも好きな仕事と嫌いな仕事があります。あなたの好きだった仕事はなんですか? たとえば、僕は商社で営業をしていますが、外回りや商談、報告書の作成なんかは好きです。でも、メールや電話の受け答えはあまり好きでは無いです」
その質問に俺は在りし日を思い出して、胸を張った。
「全部だ。全部が好きだった」
男は不思議な顔をする。
どうも俺の言っていることが信じられないらしい。
「糸口の無い、時効まで時間も無い事件の捜査も、路上で騒いでるやんちゃなガキを補導するのも、神社の賽銭泥棒のために夏の蒸し暑い夜に張り込むのも、馬鹿な上司の尻拭いも、使えない新人の教育も、細かな資料作成や期末のこずるい取り締まりも全部好きだ」
言っていて胸が熱くなる。現場仕事のワクワク感が手の内に戻るようだ。
あんちゃんは何度か頷いて、俺の次の言葉を待った。
傾聴の姿勢に俺は饒舌になる。
「あまり、要領のいい方じゃ無かったが、それなりに偉くなったよ。好きな仕事で得た結果で上り詰めていくのは悪い気分じゃ無い。泥まみれになるような現場が好きで、ずっと現場に張り付いていた。偉くなるのはいいが、なりすぎると逆に自由じゃ無くなっちまうから、昇進はそこそこに現場を走り回った。 なんなら、俺に初めてついたポンコツ新人が、俺が定年する頃には職位が上だったが、俺はずっとやりたいことが出来た」
「うらやましいですね。すこしあぶなっかしさもありますが」
「おうよ。汗水垂らして、くたくたになってよ。それが最高の生きがいだったんだ」
「…」
男は閉口していた。
自分でもわかっている。俺の人生は仕事だと胸を張っていえるが、極端さもある。
俺は言い終わってすっきりしたあと、最後にこう付け加えた。
「頑張っている自分が好きだった」
賑やかな日々を懐かしむ。
今あるのは、祭りが終わったあとのような寂寥感だ。信じたくは無かったが、この国ではどんなに現場仕事を頑張ろうと定年が来ればお払い箱になる。少し働く期間を延長できる制度もあるが、その中でも頑張ろうとすると若いのに遠慮される。
「あんちゃんも人生は仕事だと言ってくれた。厳密には意味は違っても、大筋では同じように思ってくれていてうれしかった。だがな、俺はあんちゃんみたいに上手に立ち回ることは出来ねぇんだ。若い頃から、馬鹿みてぇにまっすぐ進むことしか知らなかったし、そういう生き方が好きだった。でも、若さって言うのは一瞬の煌めきで、年を取るとある瞬間にそれに気がついてしまう。俺は自分で作った忙しさで視野が狭まっていて定年直前まで気がつかなかったんだが、気がついたときには無用者になっているんだ」
「多かれ少なかれ、年を取れば表舞台に居づらくなるのは想像できます。僕だって、うまくやっていこうとは思っていますが、体力や老いた自分のことを見る他人の目までは制御することができません。仕方の無いことなんだと思います」
「そうだな、そうなんだ。これは重力みたいな、世の中の原理原則だ。そして俺は準備してこなかったから、今更どうしようもねぇんだ。 俺が人生そのものだと思っていた仕事は、とっくの昔に終わってた。気がつかないふりをしていただけで、きっと定年になるずっと前から終わっていたんだ。今から何かを新たらしく始める能もない」
後悔なんてない。
仕事に誇りを持とうが持つまいが、世の社会人のおおよそがたどる道だ。四十年近く好き勝手できたのだから、よほどましな人生なハズだ。しかし、仕事という軸では俺にはすでに生きる価値などない。
「それがなぜ、愛の話につながるのか、教えていただけますか」
「ああ。家族の話をしてなかったな。俺には妻と娘がいる。あんちゃんにはいるか?」
「ええ、妻と子どもがふたり」
「そうか、そうか。大事にしてやれよ。子どもって言うのは生意気でうるさいが、すぐに大きくなって、どっかにいなくなっちまう。手元からいなくなって見れば、なんだか一気に静かになっちまって、調子が狂う。一番かわいくて面白い時期って言うのは、今その瞬間だ。一瞬たりとも見逃してしまってはいけないのさ。失敗して、後悔している俺が言うんだから間違いない」
うんうんとおどけた調子で頷いて見せて、失敗談を努めて明るく言う。男は申し訳なさそうに訪ねてくる。
「何かあったんですか?」
「失敗したんだ。娘に愛想を尽かされて、今じゃ絶縁状態だ。どうしてこんなことになったと思う? 当ててみてくれ」
男は苦笑いのパフォーマンスをして、ヤレヤレといったふうに言った。
「仕事を頑張りすぎたんですね?」
「ああ、そうだ。娘が生まれて俺の元からいなくなるまで、まともにかまってやったことなんてほとんど無い。授業参観なんて行ったことないし、休日もあまり遊んでやった記憶は無い。警察官の娘だってのに、中学時代に良くない友達とつるんでたりしたのも知っていたが、当時の俺は意に介しちゃいなかった。仕事がたのしくて、娘のことを二の次、三の次にしちまってたんだな」
思い返せば恥ずかしくなる失態だ。
好きで結婚した相手の間に生まれた愛の結晶を大切にしてやれなかったのは後悔している。当時の俺は仕事に夢中で、それ以外がどうでも良く感じていた。今思えば、もっと娘のことを見てやりたかったと思う。子どもの成長は早い。自分の手元を離れるそのときまで、かわいさの旬はまさに今この瞬間だ。その旬をずっと逃し続け、そして与えるべき愛を十分に与えてこなかった。
「思春期に良くない友達と一緒にいたのは、もしかしたらお父さんの注意を引きたかったからかも知れませんね」
「ハハ、うれし恥ずかしだなコレは。そんなふうに思ってくれていたらうれしいが、同時に後悔も大きくなる」
「奥さんは、娘さんのことや仕事のことについて何か言われなかったんですか? 」
「ああ。妻は当時は何にも言わなかった。言いたいこともあったとおもう。俺のことを一番理解してくれたのは妻だった。でも、そんな妻に甘えすぎていたんだな。娘のことや家のことを全部任せきりにして、俺は仕事しかしていなかった。家族を顧みることをせずに今の今までやってきた」
いろいろなことを思い出し、大げさにため息をつく。
恥の多い人生だったと、じじいになって気がつくのは正直キツい。
今更、軌道修正不可能だからだ。
「もうしばらく前の話だが、妻にも愛想を尽かされて出てかれちまったよ。その…、熟年なんとやらってヤツだな」
「きっかけは何かあったんですか? 娘さんの独り立ちのタイミングだとか」
「娘が独り立ちするすこし前だな。何かしたわけじゃ無い。 聞いていてわかったと思うが、俺は仕事しかしてこなかった。浮気とか暴力とかそう言うのは断じてない。ただ、会話が無かっただけ。それだけだな…。そんなこんなで、急に…出て行っちまった」
男はただ頷いた。
仕事に情熱を燃やし、大切に思う気持ちを男は理解してくれているように思う。
直接肯定も否定もされないが、言葉なしでも通じ合えるシンパシーが伝わってくる。
俺は愛の話をする。
「俺の人生は愛だと言ったが、そのままの意味じゃ無い。ズバリ、 自分勝手に生きた結果、妻や娘のひたむきな愛に気がつけなかった人生だ。俺の人生は、俺だけの人生じゃ無かったはずだ。なのに、その大半を自分のためだけに使った。金を稼げば、妻は満足して子どもは勝手に育つもんだと思い込んでいた。でも、違うんだ。そんなことに、じじいになって、ひとりになって初めて最近気がついたんだ」
俺は誰かにこの女々しい話をきいて欲しかった。
誰に許されるわけでも無いが、懺悔したかったのだ。
少なくとも、妻や娘に謝りに行く前に。
「俺はさっき、悩んでいるといった。俺はこの花をもっていって、別れた妻と仲直りしに行くのをずっと悩んでいたんだ。これはスプレー
腰掛けた噴水の縁に置いていた小ぶりな花束を持ち上げて言う。花屋のポップに書いてあったところによると、花言葉は「あなたを愛す」だと言うから、仲直りにもぴったりだ。
「ずっと決心がつかずに、思い立っては奥さんのところに行くのをやめてを繰り返していたんですね。それが、朝に買った花をそのまま捨てる真相ですか」
「そうだ。だがな、ウジウジもしてられねぇよな。ずっと決心できずにいたんだがよ、あんちゃんに話を聞いてもらってスッキリしたし、男らしく行ってくることにするよ。ありがとよ」
俺は立ち上がり、あんちゃんに礼を言う。
「僕は興味があって話を聞かせてもらっただけです。感謝されることなんてしていませんよ。でも、あなたの助けになれたのなら、それはうれしいことです」
「ああ、じゃあそろそろ行くわ。モタモタしてたら、決心が揺らいじまうかも知れない。あんちゃんは俺みたいに何じゃねぇぞ」
「はい。反面教師にさせていただきます」
「っへ、いいやがる」
俺は公園の出口に向かうために、あんちゃんの座るベンチの方に歩いて行く。
視力が悪く、よく見えなかった顔を良く拝んでおこうと近づくと、俺は信じられないものを目にした。
あんちゃんはスーツ姿で、なぜかズボンとパンツを下げた状態で座っていた。そして、座っていたのは白磁の便器だった。
「お、おい…あんちゃんなんて格好してんだ。ここは外だぞ? パンツを上げろ、捕まっちまう。それに、その座ってるのはベンチじゃなくて便器じゃねぇか!」
あんちゃんは全く動揺していなかった。
落ち着き払った表情に余裕の笑みを見せ、泰然と座していた。その余裕が恐ろしい。見方によっては微笑みもサイコパスじみている。
「大丈夫です。今日は乾燥しているのでもうすぐ消えますよ」
「なぁに、訳のわからんこと言ってんだ…。一緒にいる俺までなんかヤバい趣味を持ったのヤツなのかと思われちまう」
「大丈夫です。ほんとうに消えますので。言っていなかったですが、僕はサラリーマンでは無くて、トイレの神様です。今日はあなたの話を聞きに来たんですよ」
「神様だぁ?」
ほんとうにヤバいヤツだった。
ぶっ飛びすぎていて、話の半分もはいってこない。
真面目に話を聞いてくれたからいいやつだと思っていたが、堂々と公然わいせつをしておきながら、自分は神様だと自称している。それももうすぐ消えるのだそうだ。
「最後に、トイレの神様としていっておきたいことがあります。公園やキャンプ場のトイレは半屋外になっていることも多く、汚く扱われがちですが、重要なライフラインの一つなのできれいに使ってくださいね」
先ほどと変わらない笑みで、俺にいい諭す。
コイツは公園にサボりに来た商社勤務のサラリーマンじゃ無いのか?
それらすべてが『そういう設定』の変態異常者なのか?
「いや、そんなことはいいから。こんな便器なんて公園に持ち込みやがって、手の込んでいやがる。警察呼ばれる前にさっさと…あ!?」
さらに驚くべきことが起きた。
あんちゃんが、便器ごと跡形も無く目の前からいなくなった。
便器は芝の上に乗っていたはずなのに、芝に押しつぶされたあとは無い。
はじめからそこに存在していなかったように、痕跡がすべて消え失せている。
ちょうど騒いでいるところを犬の散歩をしていて通りがかったおばさんに目撃され、俺が変な目で見られた。
「何なんだよ…」
コレは白昼夢か何かなんだ。朝早くて寝ぼけてるんだ。
俺はそう思うようにして、一切合切を胸のうちにしまい込んだ。
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