第五幕: 菊の花束 - その1/3

 円形の噴水の縁(ふち)に腰掛けている。

 雨が降っていない朝は、だいたいそうしている。


 俺は今日もくだらないことを悩んでいる。


 公園の小高い部分に位置しているが故に、平日の午前中の早いうちは人が来ることはまばらだ。公園のすぐ近所に駅はあるが、わざわざこんな場所に来るヤツはいない。通勤の時間帯ともなれば駅に吸い込まれていくサラリーマンたちの背中を少し高いところから見送ることができる。


 たまに鳩に餌をやったりしているが、誰にも注意されない穴場スポットだ。

 朝早くからやっている花屋でカラフルなスプレー菊を買って、ここで時間を潰して、せっかく買った花をゴミ箱に放るのが最近の日課だ。

 俺はほんとうにくだらないことで悩んでる。

 そんな自覚があるからこそ、自分が情けなくて、頭を抱えて足下に転がる小さな石を眺めている。


「すこし、お話いいですか?」


 目の前から声がした。

 初対面の人間に失礼かとは思ったが、頭を抱えて下を向いたまま眼鏡の内側から相手のことを見て伺った。老眼でよく見えなかったが、どうやら目の前のベンチに座っているようだ。色味からしてスーツを着ているサラリーマン風の男。声と落ち着いたしゃべり方からすると、おそらく二〇代後半から三〇代後半。


 少し顔を上げて相手を見やるが、目が悪く三メートル先の男すら眼鏡越しでもうまく焦点が定まらない。

 相手とは目を合わせるつもりもないので、特に見る努力もせず、声の聞こえた方に顔を向けた。

「何の用だい、あんちゃん。しょぼくれたじいさんをひっ捕まえて。金ならねぇぞ」


 俺みたいな六十過ぎのじいさんに急に話しかけてくるヤツは二種類いる。

 前者は哀れみや心配・同情なんかで話しかけてくるヤツ。この手の人間は苦手だ。伸ばしてもいない手を無理にでも掴もうとしてくる。とくに、勝手に喋りかけてきたあげく、ああした方がいいとか、こうした方がいいとか言うヤツは嫌いな部類に入る。まあ、あまり多くはないので良しとしよう。

 後者は、普通に柄の悪いやつ。ホームレスに石を投げるタイプの人間だが、こういうヤツの頭の中では弱いものいじめが正当化されている。 普通の老人は『弱い』部類に入るので、間々こういった輩の標的になる。俺は柔道と空手の有段者だから、体がまだ自由に動く六十代前半の今現在はあまり問題にならないのだが、絡まれるのは普通に面倒くさい。 


「偶然、通りかかったもので、お話を聞かせて欲しいんです」


 まさかとは思ったが、前者か。

 哀れみか何かの感情で、じいさんのお話を聞くボランティア気取りになるヤツ。そういうヤツの偽善に満ちあふれた目が嫌いだ。ほんとうに聞いているんだか聞いていないんだかわからない相づちも嫌いだ。大きな声で大げさにリアクション取る割に、瞳の奥に無関心が写っている。


 自分が体験したわけじゃ無いが、年を食うとやはり年寄りの扱いに目がいってしまう。対岸の火事だと思って外側から見るだけの存在だった彼らの領域に、今は自分が足を突っ込んでいる。偽善も弱いものいじめもヒト科のまっとうな欲求だとは思うが、当事者になるのはどうにもつらいものがある。年を一つ食うたび、行く道にああいう奴らが増えていくと思うとうんざりする。


「ああ、そういうの、足りてるよ。別に困っちゃいないんだ」

「あの、別にあなたがお年を召されているから高齢者福祉の観点で話しかけているのでは無くて、ただ興味があったので話しかけました」

「興味?」


 心が読めるのか、俺の考えているまんまを言い当てたあんちゃんは興味と言った。噴水に腰掛けるじいさんがそんなに珍しいのだろうか?


「何か悩まれているんじゃないですか?」

「…おう、悩んでるよ」


 別に隠し立てすることでもないので、正直に言う。


「最近よくお見かけしたんで、何をされているのかなと」

「噴水に腰掛けてたら悩みがあるっていうポーズになるのか? わかんなくはねぇが」


 興味は人それぞれだが、悪趣味なヤツだと思う。最近よく見るからという理由で絡んでくるコイツの目的は、おそらくただの人間観察だ。

 噂好きとか、ゴシップ好きとか、知って何になると言う話を娯楽の一部として楽しむ奴らがいる。いい印象は無いが、俺はそいつらの趣味にとやかく言うつもりは無い。

 ただし、目の前にいるコイツはアグレッシブすぎる。

 スーツ姿から推察するに、わざわざ通勤経路を遮ってまで公園まで来ているのだ。


「一部始終を見ていたわけではありませんが、行動が不可解だなと思いまして…。六時半頃に最寄り駅に着いて、花屋の開店までコンビニでコーヒーやあんパンを買って、花屋でカラフルで小ぶりな花を買ったあとにこの噴水に腰掛ける。その場でパンを食べ終えると、そのあと一時間くらい座ったままで、八時から九時の間に立ち去る。途中で公衆トイレの近くのダストシュートに買ったばかりの花を捨てて帰る」


「一部始終見てるじゃねぇか…。あんちゃん何者だよ。俺のストーカーか何かか? 」


 思ったよりヤバいヤツだった。最近の習慣が完全にトレースされている。

 背筋を冷たい者が走る。


「いいえ、ただのサラリーマンです」

「格好を見ればそんなことはだいたいわかるが、あんちゃんだって暇じゃあねんだろ。こんなとこで道草食ってないで、会社行けよ」

「ああ、実はもう出社は済ませていまして…。説明はむずかしいんですが、抜け出してきているところです」

「おいおい、こんな朝っぱらからサボりか?」


 どこに事務所があるのかは知らないが、出社してすぐ外に出て、公園の小高い場所にある噴水広場まで上るバイタリティはどこから湧いてくるのか。たとえ、俺が二十歳(はたち)でもそんなことは思いつかない。


「十分程度です。そのくらいの時間だけ抜け出すことができます。少し長めのようなものなんです。僕の都合のことはお気になさらないでください。それで、もしよろしければお話を聞かせてください。さっき言ったことに嘘はありません。ただ、あなたの悩みを聞きたいだけなんです」


 多少動機があやふやで不気味ではあるが、男の熱心な姿勢と柔らかな物腰にどこか安心感を覚えた。聞いてその先何をするわけでもない、ただの暇つぶしのような気軽さが、逆に心地よい。減るもんでもないし、話してやるかと言う気分になる。話したあとに、やたら高い健康食品やら鍋やら宗教の話が出てくることだってあるだろうが、そのときはそのときだ。俺も別段忙しいわけでは無いから時間はある。


「ああ、まあ、いいよ。そこまで言うなら…。俺ももしかしたら誰かに話したかったのかも知れない。この年になると相談相手がいなくなるんだ。年を取れば物理的に死んでく友達もいるし、年を食った分、人に弱みを見せづらくなる。誰かに他愛ない話を聞いてもらうのにも一苦労するワケだ。 …ただ、条件がある。俺の話にただ相づちを打つのはやめろ。たとえおまえにその気が無くても、『聞いてあげている』と言う感じが出て、すごく気分が悪い。俺とあんちゃんは楽しく会話するんだ。年の離れた友達みたいに。いいな?」

「わかりました。会話をしましょう」


 男はうれしそうに二回頷き、少し微笑んだように見えた。それがなぜなのかはわからないが、悪い気はしない。


「さっそくだが、あんちゃんよ。人生って何だと思う?」

「これは、唐突ですね。しかし、面白い問いかけです。そうですね…今は仕事しかしていないので、仕事ですかね」

「へへっ、あんちゃんの仕事って言うのは公園でじいさんをひっ捕まえてサボることかい?」

「それも仕事の楽しみ方です。少し寄り道するくらいが、きっと楽しいんですよ。寄り道のできない人生なんて窮屈です」


 男は俺の皮肉を余裕のある笑顔で、言って返す。


「ハハッ、言うね。…そうだな、仕事か。おれも、昔はそんなふうに思ってたなぁ」


 少し苦々しい思い出がフラッシュバックする。

 認められ、徐々に地位を確立し、のし上がる。

 やりがいに満ちあふれた充実感のある日々。

 そして、ないがしろにしてきたもの。


「今は違うんですか?」

「ん?…ああ、違うな。なんてったって、もうしばらく前に定年で仕事辞めてるしな」


 俺は鼻の頭をポリポリ掻きながら、足下を見た。しばらく前に、あの騒がしくもたのしい日々は終わったのだ。


「今は何かやられてるんですか?」

「いやぁ、なんも。バイトとかそう言うのだろ? なんだかかっこ悪くてやってないな。別に他人様がやっている分にはなんとも思わねぇんだが、自分がやるとなるとどうもな。年金も貯金も一応あるし、生きるのに困っちゃいないんだ」


 話の流れで言うと当たり前の質問だが、なんだか少し言いにくい内容だ。若い頃、暇を持て余した老人のことをあまり快くは思わなかった。なぜと問われるとむずかしいのだが、やはり「暇そうだから」だろう。当時仕事に誇りを持って取り組んでいた自分は、怠けて見える「暇」な人間を下に見ていた。それは、公園の同僚も老人も同じだ。自分はこんなに頑張っているのだから、何もしてないあいつらは全くしょうがないやつだと思っていた。そんな暇な老人に、今は自分がなっている。


「そうですね。体力も落ちてくるでしょうし、お金があるなら別に働かなくてもいいんでしょうね」

「っへ、じじい扱いしあがって。ま、自他共に認める高齢者だけどよ」

 いずれ通る道だから年齢のことは笑うなと、世では言うが実感しなければわからないこともある。この場合、「見ないようにしている」方が正しいのかも知れない。体力もそうだ、がいろいろなことが徐々に若い頃と比べてうまくいかなくなる。だが、地続きの人生で、毎秒少しずつ劣化していく己の体の変化に気がつくのは何かの節目があったときだけだ。


「うーん。では、あなたにとって人生とは何ですか?」

「ああ、…それを答える前に聞かせてくれ。あんちゃんは、仕事が人生だと言った。じゃあ、俺みたいにサラリーマンを定年になって、仕事を辞めたらどうするんだ?」

「おそらく、僕は仕事を辞めないと思います。定年になったらその会社にいられなくなるだけで、ずっと何かをし続けます。僕はきっと、死ぬまで誰かのためになっていたいんです。すごく偽善っぽく聞こえるでしょうが、僕にとっては僕の仕事が目に見える形で誰かを幸せにすることがとてもうれしいんですよ。 だから、旗振りやコンビニのバイトだとか、自分で無くていい仕事はしたくありません。僕は、僕にしかできないことで、誰かのためになっていたいんです。 僕は死ぬまで何らかの形で、世界に必要とされていたいんです」


 聖職者みたいな物言いで堂々と自分の夢を語る。

 やっぱりヤバいヤツじゃないか。


 「友達みたいに話せ」とは言ったが、公園に居座るじいさんに向かって本気で自分の人生の指針を語るヤツがどこにいる。

 でも、面白いヤツだと思った。少し度が過ぎているようには見えるが、正直うらやましかった。いっていることがキラキラしていてまぶしかった。


「具体的に何するんだ? あんちゃんが何やってるのかしらねぇけど、定年後すぐに始められる仕事なんてなかなかねぇんだぞ」

「今は仕事の仕方も多様化していますからね。本業のサラリーマンだけを仕事だと思わずに、いろいろなことに手を出してみています。実際に手を動かしながら、定年前までに余裕を持って決めていこうと思います」

「しってるぞ。ウェブライターとかyoutuverとかだろ」

「それも一つの選択肢です。全部うまくいかなかったら、公園で悩んでいるおじいさんのお話を聞くサービスでも仕事にしましょうかね」

「この、馬鹿にしやがって」


 男は軽口をたたき、俺は鼻で笑って返す。

 たしかに、老後の生き方を満を持して定年後から考える必要なんて無い。

 多様性は現代の仕事の仕方を語る上では欠かせない考え方だろう。

 昔とは違って、一つの仕事だけを定年まで全力でやり抜くのは必ずしも美徳にはならないのだ。遅くまで働き、残業代で高い家電や家を買い、子どもをいい学校に行かせてやるために貯金するような考え方は、今や古いステレオタイプになった。

 世界全体で見れば確実に暮らしは豊かになり、情報があふれ、若者の選択肢は大きく広がった。昔では考えられないような生き方を選べるようになった。

 ただ、少なくとも俺はそんな空気感について行けなかった。


「僕がまだ小さいころ、定年した警察官のおじいさんがいました。その人は、定年後も街の角に立ち続けて、平日は休まず子どもの登下校の見守りをしていました」

「へぇ、そうなのか」

「そのときはどうとも思いませんでした。その老人を尊敬する気持ちもありませんでした。ただ、今なら彼の気持ちがわかります。きっと、誰かに必要とされていたかったんです。見方を変えれば、ただの承認欲求なのかも知れませんが」

「あんちゃんのも、承認欲求なのかい?」

「わかりません、でも僕の言う『誰かのために』はどちらかというと自己満足な気がします。人に褒めてもらわなくてもいいんです。僕の動かした手で、誰かが前を向いて進んだり、幸せになってくれたらいい。感謝されたらうれしいし、尊敬されれば誇りに磨きがかかります。でも、必ずしも僕のしたことを顧みてくれなくてもいいんです。いずれ、会社から使命を与えられなくなったときのために、今は僕がなすべきことを探しています。僕の人生は仕事なんです」

「おいおい、立派だな。勤めてる会社では朝礼で聖書でも暗唱するのか?」

「うちの会社は商社ですが、その一日の重要な連絡のタイムリーな展開はチャットツールで事足りると言うことで、ずいぶん前に朝礼や昼礼は無くなりました」

「あそう…」


 人間くさいが、どこかロジカルで堂々としている。

 自分がこのくらいの年のときは、ただがむしゃらに働いていた。男のように寄り道をしながら人生を楽しむなんて考えもしなかった。男の生き方がなんだかうらやましくなるとともに、失ってきた時間を惜しく思う。


「僕の話はコレで終わりです。あなたの話を聞かせてください」




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