第四幕: 猟豹 - その3/3


 歩いているうちに開けた住宅地に入り、ややあって家に着いた。


 祖父が建て、父が過ごした家だ。この界隈では大きい部類の家で、築30年経つ今もどっしりとした風格を見せる鉄筋住宅だ。土台や骨組みは鉄筋だが木造の意匠が随所に見られ、日本伝統の住宅の雰囲気をしっかりと残した家になっている。


 これは祖父が大阪の実家をイメージして作らせた家なのだという。

 飛び出してきたとはいえ、古巣を懐かしむ気持ちは心の奥にあったのだろう。

 傘の水を払い、乾かすため玄関先に広げておいた。折りたたみ傘は水を払う動作が難しく、鉄のはりが複雑に絡んで壊れてしまいそうで慎重になる。

 スクールザックから鍵を出して、引き戸をあけた。


「ただいま」

 私の声は、玄関の奥に向かって暗くなるグラデーションの中に吸い込まれていった。

 淋しいとは思わない。なれてしまった。

 私は靴を脱ごうとして、やめた。濡れた靴下とローファーは摩擦で脱ぎづらく、めんどうくさくなってしまった。

 気持ち悪かったし、足がふやけてしまっているのも感じた。しかし、玄関の段差に腰掛けたまま、私は動作をやめてしまった。

 私は玄関に脚を放り出して、大の字になって寝転んだ。

 その空間はしんとしていて、屋根を叩く雨音が静寂を際立たせた。


 木目の入った眼前の天井はあまり高くない。誰もいない、いや私しかいない築三十年の家屋は歴史を感じさせつつも、全く古臭い印象を与えない。

 ブランドのバッグと似たような安物のバッグが十年後にどのように見えるかということを祖父に教えてもらったことがある。

 曰く、


「十年後、安物のバッグは壊れるか全体的に汚い印象になる。しかし、信用のできるしっかりとした作りのバッグは『いぶし銀』という言葉がお似合いな渋さが年々出てくる。いいワインは何年も寝かせるだろう? アンティークは歴史があるから高価なんだろう? そういうがでるんだよ」


 そういって、 祖父は四十年近く使っているルイ・ヴィトンの旅行カバンを見せてくれた。金具は鈍く輝いていた。革は浅黒く、しかし上品な光が反射した。

 驚くべきことは、縫い目のほつれや表面の剥がれが全くないことだ。

 祖父が大切に使ったこともあるのだろうが、中身も壊れている部分はない。

 細かい傷や革のシワ、色あせた表面は劣化ではなく歴史であった。その歴史は、アンティークとしての価値だけでなく、今すぐにでもこのバッグを持って旅行に行きたいと思わせるような魔力があった。

 祖父の建てたこの家もそういった部類のものなのだ。基礎や作りがしっかりとしているから、今でも美しい風格が現れているのだ。


 人はどうだろう。


 いくら老いても、その人の人生に満足し、心から楽しんで生きたならば顔には魅力的な風格が現れるという。それは、若かりし頃の美貌など関係はない。表面上の美貌は経年劣化するのは真理である。

 夢を追い続ける企業の社長と、老後を心配する凡庸な社員。

二つを比べると、目が違う、言葉の勢いが違う、言う言葉が違う。口角は上に、眼力は鷹のように強く、姿勢は地面に突き立つ剣のようで、美しい。

祖父の受け売りだが、私もそう思う。


 見栄えの良いのではなく、人間として美しいのだ。それがまとう風格となって、顔から溢れ出るのだ。

祖父と祖母の顔も、同年代の老人から見て美しい風格があったと思う。

 だから、すっかり病人の顔になってしまった祖父が悲しかった。

 顔はむくみ、顔色も黄色く、唇は腫れていた。

 覚めない夢にとらわれ、病床で死ぬまで劣化し続ける祖父の死を願ったのは、そんな祖父をいつまでも見たくなかったからもある。


 薄暗い家のなかの湿った空気をすうっと吸う。

 天井の木目をじっとみていると、その渦に心が沈んでいくようであった。

 私は目を瞑る。


「あの、今よろしいでしょうか?」

「誰?」


 誰もいないはずの家の奥から男性の声がした。

 知らない声だ。

 私は驚いて、飛び起きる。

 どうやら声は玄関からそれほど遠くないトイレの中から聞こえてくるようだ。


「あの、私は…。怪しいものではありません」

 他人の家に不法侵入してトイレにこもっている人間が、怪しくないわけが無い。

「泥棒?」

「いいえ、その、トイレをお借りしてまして…」

「玄関に鍵をかけてました。どこから入ったんですか? この家にはあなたと私しかいませんよ」


 気が沈んでおり騒ぐ元気の無い私は、そのおかげで比較的冷静であった。

トイレにこもった泥棒は、黙ってしまう。


「トイレを借りるために、わざわざ小さな小窓からはいったんですか? 確かに、トイレの窓は閉め忘れて家を出てしまったかも知れないわ」


 なぜだかわからないが、泥棒を堂々と挑発するようなことを言ってしまった。今まさにトイレから泥棒が出てきて私を襲ったら、逃げ切れるだろうか。玄関が近いので外に出ることはできるだろうが、追いかけられたら逃げ切れるだけの体力の自信は無い。

 泥棒の声と間抜けなセリフに対して、「この人はひどいことはしない」と無意識のうちに感じた。理由はわからない。故に直感だ。


「すみません。白状します。僕はトイレの神様です。あなたが悩んでそうだったので、悩みを聞きに来ました」

「ふふっ…」


 私は思わず笑ってしまった。泥棒がトイレの神様だなんて訳のわからないものを語っている。私が悩んでいそうだから、わざわざ話を聞きに来た??


 なぜ?

 神様はそんなに暇なのだろうか。顕界するには軽すぎる理由だ。

 トイレを借りに来たという方がまだましな理由である。


「アハハ、いいですよ。どうぞ、大きな声も出しませんので逃げてくださいな泥棒さん。私の家には取るものなんて何も無かったでしょう? 大きくて立派なこの古い家だけが財産といえるものです。それ以外はもう何もありません。もし金目のものを見つけましたなら、どうぞご自由にお持ちください。鑑定代代わりに差し上げますわ」

「ほんとうなんです。信じてくれなくてもいいです。ただ、私に話を聞かせてくれませんか?」


 家主に見つかった泥棒なんて言う極限の状態に陥ると、どうやら人はおかしくなるらしい。男はかたくなに。『トイレの神様』を演じ続けた。


「いやよ。第一、私に悩みなんて無いの。あるのはどうしようも無い状況だけ。どうしようも無いなら、悩む必要なんて無いわ。ただ、時間が状況を解決するまでずっと待ち続けるだけ。梅雨が明けないから、天気をかえてやろうなんて人は思わないでしょ? それとおんなじよ。それより、早く出て行ってくださるかしら」


 私の家族を取り巻くありきたりな状況は、自分で言っていて納得したが梅雨のようだ。不自由で、どうしようも無く、湿り気がある。日常を破壊しない程度に、鈍い圧力がかかり、人を神経質にさせる。


「いやです。あなたの話を聞かせてくれたら出て行きます」


 先ほど笑った私は、今度は驚いた。あまりにもかたくなだ。

私が玄関にいるので、出て行きづらいのだろうか。


「もし、顔を見られるのがイヤだったら、小窓から出てお行きなさいな」

「私はほんとうに神様なので、あなたの話を聞いたら音もなく消えます。トイレの鍵を開けておくので、開けて見張ってくれてもいいです」

「…泥棒さんが出て行ってくれるなら、大きな声は出さないと言ったけど、ヘンタイさんがトイレに居座るなら、警察を呼びますよ?」

「呼んでもいいですが、私は十分ほどで消えます。 警察がつく頃にはいなくなっています。十分していなくならなかったら、警察を呼んでください」

「…」


 嘘にしても、恐ろしい覚悟だ。

 神様ではないにしろ、何かしらの怪異なのでは無いかと疑うほどである。

 ほんとうに私と話しているのは人間だろうか?

 泥棒やヘンタイとは別の意味で少し怖くなってきた。


「わかりました。観念しました。あなたの話を信じるなら、十分したらあなたはいなくなるのね。いいわよ。何だって話してあげる。これがたとえあなたの茶番でも、悪趣味なドッキリでも、あなたがほんとうの神様でも。何が聞きたいの?」


 トイレのドア越しの男の声は少し間を置いた後、大事なことかのように言う。


「たぶんあなたは思い悩んでいます。神様だからわかります。その話をしてくれませんか?」

「先ほども申し上げましたとおり、私には悩みなんて無いのよ。だから、話すことなんてなにもない」

「どうしようも無い状況はあるとおっしゃいました。力になりたいと思っているわけではありません。ただ、あなたの話を聞きたいのです」


 私はあきれるような気持ちになる。聞いてどうなるというのか。

 何でも話すと言った手前、話してはやるつもりだが、この時間に生産性というものは全くない。さながら、糞便を便所に流すように、言葉をトイレに向かって吐き出すのだ。「王様の耳はロバの耳」といって茶化してやりたい。

 私は仕方が無く、真面目に答える。


「介護の話です。そのように、一言お聞きになれば、だいたいお察しがつくように、どうしようも無いことです。祖父が数年前から寝たきりになっていて、それで家族の関係もギクシャクしています」

「この家にはあなた以外誰もいないと言っていましたが、おじいさんはどこに?」

 ドア越しの声は、不法侵入者とは思えないほど優しかった。相手への本心からの興味が声にこもっているというのか、聞き手に慣れているような声色だった。

「病院です。家ではどうしようもない状況なので、病院にいます。だから、むしろ家族の不具合の直接的な要因は金銭です」


 私は淡々と答える。

 とくに頭を使うことは無い。どうしようも無いありのままの状況の話を口に出せばいいのだ。


「このお家はかなり立派ではないですか? 今、トイレにいますが、小窓から外に立派な塀が見えます。建物から塀までもだいぶ距離がある。奥に住宅が見えるから、住宅地の中でかなりの土地面積を有しているものと思います」


 外から入ってきたのに、まるでトイレの中と小窓の外しか知らないような口ぶりで話す。この家に金目のものがあると分だから入ってきたのでは無いのか?


「先ほども申し上げたとおり、この家だけが最期の財産です。これも祖父が残してくれました。逆にそれ以外はすべて売り払ってしまいました」

「そうなんですね。」


 男は「なぜ?」とあえて聞かなかったように思う。

 富裕家庭の凋落原因はきっと神様にとってはいい娯楽になると思ったのだが。


「あなたにとって、おじいさんはどのような人でしたか?」

「…むずかしい質問ね」


 私は少し悩む。

 ひとことでは言い表すことができない。祖父は私の良き理解者であり、友達であった。先生であり、忙しい両親の代わりでもあり、アイドルや映画俳優にも負けないカリスマを持ったスターでもあった。だから、なんと言っていいかわからない。


「…祖父は、祖父よ。良くしてくれたわ」 


 私は愛する人のことを融通の利かないつまらない言葉で説明した。


「あなたにとってはどうでしたの? トイレの神様に血縁がいるとしたらですが」

「僕にとってのおじいさんは、…確かにおじいさんでしたね。両親の祖父も孫を良くかわいがる普通のおじいさんでした。父方のおじいさんはパチンコが好きで、よく換金しなかった安っぽい景品を僕にくれました。あと、お年玉はたくさんくれましたし、成人してからは数回酒をおごってもらいました。すでに亡くなってはいますが、もう少し一緒に居酒屋とか行けばよかったなぁ」


 なんだ、その薄い思い出話は。

 普通の家庭はそういうものなのだろうか。正直、祖父との思い出をこんなものと同列に扱われたくは無い。


「あんまり、いっしょにいなかったの? ごめんなさい、その程度の思い出しか無いのは少し信じられなくて」

「近くには住んでいましたが、僕が自立する以前からも同棲はしていませんでしたし、普通だと思いますよ」

「そうなのね」


 改めて、私と祖父との関わり合いは強いものなのだと認識する。

考えてみれば当然だが、すべての家庭が祖父母と物理的に時間を共有するだけの状況にあるわけではない。

 両親の仕事の都合があるからと言って都合よく祖父母に子どもの面倒を見させられる家庭がどれくらいあるだろうか。うちでは祖父の立てたこの家で同棲していたが、昨今では祖父母と同棲している方が珍しいと聞く。

 それに、幼少期の思い出が祖父母でいっぱいになるほどに目をかけてくれた。家にあまり親がいなくても孤独で無かったのは祖父母のおかげだった。

 私は、きっと恵まれていたし、愛されていたんだ。


「おじいさんは、あなたにとってとても大切な人なんですね」

「そうね」


 ひとことだけで答えた。

 語り尽くせないほどの感情をあえては口にしなかった。祖父への思いは言葉にできるほど、陳腐では無い。

 そんな祖父は今や寝たきりで、起き上がることは無い。

今も大切であることは間違いないが、元気な祖父はもういない。

やはり、状況はどうしようも無いのだ。

 自称トイレの神様はこんな話を聞いてどうしたいというのか。神様なら、どうにかして欲しいものである。


「おじいさんとの思い出話をもう少し聞かせてもらえませんか?」


 しつこいなと思ったが、この状況もどうしようも無い。

 この男に出て行ってもらって、私は早くシャワーを浴びたい。いや、一応警察を呼んでからにしよう。となると、シャワーはお預けか。何にせよ、あと数分我慢して、それでも居座るようなら警察を呼ぼう。


「はあ、わかりました。そうね。祖父と動物園に行ったときの話」

「ありがとうございます。この話を全部聞くあたりで私はいなくなると思います」

「そう、期待しているわ。まだ小学三年生のとき、狭い塀に閉じ込められたクマを見た。祖父は言ったわ。『塀の中のクマや檻の中の動物を見てどう思う?』って」


 なぜこの話をしようとしたのかはわからない。

 トイレにこもった泥棒と会話をするうちに、祖父との記憶が掘り起こされてきたのだと思う。


 それは私が小学三年のとき、動物園に祖父と二人で行った時のことだ。

 その頃はまだ祖母も元気だった。

 私の学校は振替休日、祖母も習い事、両親は仕事で、珍しく平日に二人だけで外出したときのことだった。

 一通り動物園を回ると、祖父は最後に私に件の質問をしたのだ。


「クマですか」

「ええ、クマよ」

「塀の中で寝そべっているイメージがありますね」

「私も同じように思ったわ。それで、言ったの。『楽しそうではないけど、幸せなんだと思う』って」


 可愛げのない質問の回答だと思う。しかし、実際そう思ったのだ。

 熊は冬になれば冬眠する。冬眠するために秋には食料を探すが、自然が奪われつつある今は食べ物に困るだろう。

 人里まで降りてきて殺されるもの、飢餓で死ぬもの、どちらも食料に困って死ぬ。だから、食べ物が毎日あって、寝る場所も確保された動物園が天国なのではないかと思ったのだ。


「大人びた答えですね。とても現実的な考え方だと思います」

「祖父はたぶん、私がそんなふうに答えると予想していたんだと思うわ。答えた私はもう一度目の前のクマを見た。芸を仕込まれているわけでも無いクマは、コンクリートでできた作り物の岩場に寝そべり、目を瞬かせていた。いっておいてなんだが、幸せそうには見えなかった。そうね、ひと言で言って暇そうだったわ」

「餌は出てきますが、山とは比べものにならないほど狭い塀の中でただ生きているだけですからね。人間と同じの尺度で幸せを測るのは馬鹿らしいことかも知れませんが、私もその不自由さを幸せと断言してやるのはむずかしいと思います」

「祖父もそんなニュアンスを伝えたかったんだと思う。そうしたら今度は、『じゃあ、檻の中にいるのがチーターだったらどう思うかな?』って聞いてきたのよ」


 老人が若者を笑うとき特有のカカっという笑い声のあとに言ったのだ。


「チーター?」

「ふふ…。私もあなたと同じように言って答えかねたわ。まず、私は『そんな動物が動物園にいただろうか?』とおもって怪訝な顔をした。実際、動物園にはチーターなんていなかったし、それどころか、チーターなる動物を知らなかった。立て続けに祖父はチーターがすごいスピードで走るネコ科の動物だと教えてくれた。走って動物を捕る姿がとても美しいのだと教えてくれた。当時の私の貧相な想像力ではその姿を想像すらできなかったけど」

「なんと答えたんです?」


 男は一拍の間を置いて、私の発言を促す。相手を喋らせる気持ちのいい間だ。

 男はほんとうに“人の話を聞きに来た”のかも知れない。

何度も人の話を聞きだしているような場慣れした感じを受ける。例えそうだとしても、不法侵入までするのは強引すぎるわけだが。


「私はクマのときと同じロジックで『きっとクマと同じだよ』といったわ。そうしたら、祖父は『そうか、帰ったら図鑑を買ってチーターを見せてやる』といった」

「むずかしいやりとりですね。おじいさんが何を伝えたいのか、部外者の僕には量りかねますが、おおよそ小学三年生とそのおじいさんの会話としてはビター過ぎます」


 私と祖父の絆が他人の共有できない特別なものであるかのように言われてうれしかった。

 幼い私は、祖父の理解者であることが誇りであった。そして今も、祖父は私の誇りだ。

 動物園で祖父は私に『おまえはわしに似ている。だから、きっとチーターを見て感動する』と言ってニッと笑った。


「オチなんて期待してなかったでしょうけど、そんな話よ。 ありきたりな不幸な話を彩る、在りし日の思い出ってところかしら。 そのあと、結局祖父は図鑑を買うことを忘れて、私がチーターのことを知ったのはしばらく経ってから見たテレビの特番だったわ」


 画面の向こうのチーターはかっこよかった。

 ガゼルの首元に肉薄するチーターの美しい筋肉のしなりに目を奪われた。逃げるガゼルにバイクが急カーブを曲がるような、もはや動物とは思えない猛スピードで接近し仕留める。

 追いかけ、狩りを行い、食らうために生まれてきた存在なのだ。


「チーターを見てどんなふうに思いましたか? おじいさんが言っていた檻の中のチーターは、あなたにとってどんなふうに見えるのですか?」


 男の質問に答えず、私はつぶやく。


「ああ、そうか」


 あの時、祖父が動物園で言いたかったことがわかったのだ。

 私は急いで立ち上がり、玄関の鍵を開けてドアに手をかけた。


「もしかして、何か重大な決心をされましたか?」


 男は私を呼び止めるように声をかけた。


「何でそう思うの? 何でも無いわ。あなたは約束通りそこから出て行って」

「すみません、では最後に、トイレ掃除は…」

「いわれなくても、知らない殿方が家主に無断で使ったトイレはしっかり掃除するわ。結果的にだけど、あなたと話せてよかった。さようなら」


 男が立ち去るより先に、私は家を出た。


 私は走り出した。雨に濡れるのもお構いなしに。

 振り乱す髪は首筋にへばりついた。

 服の上から下着が透けるのも、汚れた靴も気にせずに走った。

 もと来た道をもどるり、ちょうど出発しようとする電車に飛び乗る。

何もしない時間がもどかしい。


 祖父の話をしよう。

 祖父は贅沢をしなければ一生食うに困らないだけの財産を約束された人であった。しかし、生まれてから二十年かけて準備して得た地主という地位も捨てて、地元から遠く離れた地で新たな職を得ている。そして、その職も辞めて株で生計を立て始めた。

 祖父の遍歴を聞くと自ら苦労を背負うような生き方をしているように思う。

 彼は何を求めたのか?

 それは、約束された裕福な生活ではなく人生の本当の楽しさなのではないだろうか。

彼は自らの人生に課題を作り続け、向き合った課題の全てにおいて全力だった。

 祖父は餌を求めて駆り続けるチーターだったのだろう。

 大学を出て地主を二年勤め、この二年の繰り返しがきっとこの先までずっと続くのだと思った瞬間に、祖父は家督を弟に譲ること決めたのだ。

 心のあるべき場所を求めて走り出したのだ。

 新たな就職先で7年勤めて、商売がだいたいわかったから、次のステージに進んだのだろう。

 そして、時代を読むことに同じ株という仕事を見つけた。

彼にとって、莫大な情報収集の末にも予想がむずかしい変化に富んだ株と言う仕事が天職だったのかもしれない。

 しかし、祖父のことだ。

 時代の流れを掴むのがどんなに難しく、心躍るものでも、「株」というひとつの仕事だけでその後の人生すべてに満足したはずがない。

 株の次はなんのために走ったのだろうか。

 それは祖母への恋であろう。

 彼にとって初恋だったのかもしれない。

 それまで彼を心から理解してくれる人はいなかった。

 子供の頃からあらゆる意味で頭が良く、特別扱いを受けていた祖父は孤独だったことだろう。決してイヤミなどではないが、自分より劣った人間が大多数の環境で、祖父が周囲に合わせるには非常に大きなストレスがあったはずだ。傍目からみて仲のいいように見えても、理解されていない苦しみに孤独を感じたこともあるはずだ。

しかし、彼はそれでいいと思い続けていた。誰かに理解してもらうということが頭になかった。

 祖母とあって初めて「自分のことを知って欲しい」と思うようになり、特定の人物に理解して欲しいと感じるようになったのだ。その頃から、祖父にとっての「他人」は、競うだけのものではなくなったのだと思う。

 祖父を変えた大きなきっかけの一つは友人に裏切られて死のうと思ったことだろう。

 要領が良すぎたために、それまで一人でなんでもできると思っていた祖父は初めて自分の弱さを知った。

 そのとき他人である祖母に助けられ、人のぬくもりを知って孤独ではなくなった。

 だが、一人で生きられなくなったのだ。

 結婚して、祖父の生きる意味は「妻を幸せにすること」に徐々に浸食されていった。

全力で祖母を褒めて幸せな気分になってもらおうと頑張ったし、ふたりの時間を何より大切にしたのだ。妻の幸せを見ることが、祖父の幸せになったのだ。

 そして妻が死ぬことによって、生きる意味はなくなった。数十年という時間は、ひとりで生きてきた男をかけがえのないものに依存させるには十分な時間であった。

 孤独でなくなった祖父はたった一つの拠をなくしてまた孤独になったのだ。

 祖母が拠り所なら、私の父や私はいわば弟子のようなものであったのだろう。祖父の生きがいになるには役不足であった。

 もしかしたら、私が新たな生きがいになってあげられたのかもしれない。しかし、幼かった私は積極的に行動することはなく、父と母におかしくなりつつある祖父のことを「おじいちゃんには近づかないでね」と言われて言うとおりにした。

 祖父はすぐに行動したかったのだろう。

持ち前の決断力と行動力が脳の内側から叫んだに違いない。

 つまり、生きる意味はないから自殺したかったに違いなかったのだ。

 しかし、妻との約束で死ぬことができなかった。だから、すべての辛い思い出を忘れることにした。

 今考えれば、祖父は痴呆だったのだろうか。彼の演技にまんまと騙されていたのではないだろうかとも思わせられる。

 どちらにせよ、すべて忘れて、もしくは忘れたふりをして家族に迷惑がかかれば誰かが殺してくれるという安易な期待を持っていたのかもしれない。

 そうしてそれは、交通事故という形で偶然叶ってしまったのだ。

 しかし、その事故は彼を殺すことなく、最先端の医療で寿命まで何も出来ずに死ねない状況を作ってしまった。

 彼自身が今の状況を見たらどう思うだろう。

 ほかでもない彼なら、こういうに違いない。


「はやく生命維持装置を切ってくれないか」


 これは、他人が聞けば傲慢だ。ひどい思い込みだ。

 しかし、私はそう思わざるをえないのだ。

 彼は檻の中のチーターなのだと。脚を折られ、走ることもできない荒ぶる獣なのだ。

 そして私もまた彼と同じチーターだから、祖父のために走るのだ。

 駅について、また走りだし病院に到着した。

 面会の時間は十九時までで、今は十八時を回ったところであった。

途中、しずえさんに話しかけられたが、脇目もふらず前へ進んだ。濡れた服から水が滴り落ち、廊下をてんてんと濡らす。

 病室につき、電気もつけずに個室へと入っていく。

 祖父は眠っていた。

 いいや、目覚めのない眠りなど「眠り」とは言わない。

 彼は閉じ込められていた。

 私はゆっくりと息を吸い込む。病院の薬臭さよりも、まとわりついた雨の匂いが鼻についた。

 足を折られたチーターはきっと、死んでしまいたいのだ。

 人間的な想像の塊みたいな考え方だと思う。

 人間以外の動物は遺伝子に『そういうものだ』とインプットされているもの以外は自殺など考えない。思い悩んだ末に自ら死を選ぶのは人間だけだ。

 だから、その走る獣が檻の中に閉じ込められたなら、きっと贅肉を蓄えつつダラダラ余生を生きるのかも知れない。

 でも、彼はチーターだから、動く足があるのなら狭い檻の中を精一杯に走り回り、いつか壁に頭をぶつけて死ぬのだ。そして今、私が彼の足になる。


「おやすみなさい。おじいちゃん」


そして私はその機械の電源を、




                                 第四幕 了

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