第零幕: 白磁 - その1/3
「なんでこの日に限っておまえは遅刻なんかするんだ!」
荒げた声に自分でも驚く。
それ以上に怒りが先行してしまい、口をついて言葉があふれ出す。
「昨日の天気予報を見れば、今日が雨だってことくらいわかるハズだ。ニュースでもあんなに雨が強くなるって言っていただろう。なぜ電車が遅れることが予想できない?」
僕の目の前で小さくなっている男性社員――平瀬は、それでも時折反抗的な視線をこちらに向けてくる。
「でも、今日JRで間にあったのは始発と次の普通電車の二本だけです。そんなに早く来るなんて…、昨日十一時まで残業していたのにキツすぎます」
「毎日そうしろと言っているわけじゃないだろう。ネットで調べられる雨雲レーダーを見ればラッシュの時間が一番雨が強いのがわかったはずだ。ちゃんと調べたのか?」
「…いいえ」
平瀬は再びうつむき、奥歯をかみしめているようだった。
僕がこれほどまでに部下を叱責しているのには理由があった。
役員会議のプレゼン準備が滞っている。
プレゼンの主役は僕だ。
比較的若い時分から小さいながらもチームを任され、その成果を発表しようという場であった。
僕の年齢――三十七歳を考えると役員発表の機会が与えられるのはまたとないチャンスであった。
上司や職場の仲間から期待されている証左であり、そこには重大な責任がある。準備は万全にしてきたつもりである。しかし、プレゼンまでの準備には時間が限られており、いくつかの作業は部下に任せていた。
当日の会場準備や資料の印刷、リハーサル等々のスケジュールが平瀬の遅刻により狂ってしまった。
「スーツもそんなに濡れた状態で…、それで作業するつもりか?」
「これは、途中で傘が壊れてしまって」
「風が強ければ傘なんてすぐ壊れることくらいわかるだろう。こういうときはカッパを着るんだよ…。もういい、時間がない。頼んだことを早めに済ませてくれ。失敗はできないんだ」
「はい」と小さく答える平瀬を見送る。
拳に爪を立てて悔しさを押し殺しているようだった。
僕はそんな平瀬を見て、見ぬふりをする。
正論という名の理不尽を押しつけていたことは自分でも理解してる。焦りが僕を駆り立て、つい”嫌な上司”を演じてしまう。
「仕事は仕事だ。責任を持て」というのは体裁のいい詭弁だ。そういう、他人様に迷惑をかけるなという空気を盾に、正しいらしいことを言って人を操るのは卑怯だ。
でも、こうでもしないと組織の足並みはそろわない。
自分のマネジメントの技量不足を部下に負荷として分散させて仕事をしている。
見て見ぬフリを上手に使わなければ、仕事が進まない。
僕も抑圧された会社組織構造の犠牲者のひとりという気持ち半分に、今日も部下の
どうか僕のようになってくれるなよと心のどこかで願いながら、同じような人間を再生産している。
仕事はたのしかったが、誰かのためになっている実感はない。
難しい問題をクリアするスリルと、日々の糧のために仕事をしているのだ。
決して誰かを幸せになどしていない。
フロアにいる誰にも気がつかれぬように、大きなため息をついた。
イヤな年の取り方をしていると自分でも思う。
気の合う同期と酒でも飲んで、同じような気持ちで働いているのかどうか聞いてみたい。
僕の話を聞いてほしい、
この年になると、昔のように勢いで誘って飲みに行くことができない。 体力的な問題もあるのだが、皆、責任のある立場にいるため、時間を調整するのが難しいのだ。
家庭があればもっとたいへんだ。
できるだけ頼りになる上司を演じるために、表情をただす。どうしても気が重いのは窓の外が曇天だからだろう。
スケジュールは社内のフロア移動を含めて分刻みとなった。
いつまでも部下を咎めてはいられない。
部下たちに仕事を割り振り、自分の仕事もギリギリで完了する。
リハーサルも無事に終わり、バタついたものの帳尻を合わせることはできた。
準備の整ったプレゼン会場の本番の立ち位置で会場を見渡す。十数分後役員が座る席には、リハーサルを聞き終えたビジター役の数人の部下が座っている。
僕は彼らへの感謝を口にした。
「役員へのプレゼンは君たちのおかげで成功すると確信している。僕は、僕と君たちで積み上げてきた仕事に最後の華を添えるためにここに立っている、君たちが積み上げてくれたものを台無しにしないために、数分後に百パーセントの力でプレゼンに当たるよ」
拍手が起こる。
悪天候による気分のせいもあってか、準備を終えた部下たちは疲弊していたが、僕を精一杯送り出そうという力強い意思を感じた。
わざわざこのようなパフォーマンスをしたのは平瀬への遠回しな謝意であった。
多少沈んだ目の平瀬も拍手をしてくれた。
さっきは言い過ぎたと直接はいえない。
皆のおかげで準備が間に合ったと言う体(てい)で、遠回しに弁解した。
僕は傍目から見れば仕事のできるサラリーマンだが、決して優秀なマネジメントでは無い。
人としても、そこまでできた人間では無い自覚がある。
プレゼンまで、あと十五分。
資料の読み込みも大事だが、体調を万全にするのが一番大事である。
僕はトイレに行くことにした。
最高のパフォーマンスは最高のコンディションから生まれる。
トイレの個室に入って用を足す。時間には十分余裕がある。
ウォシュレットを肛門に当て、汚れを洗い流し、右手でトイレットペーパーを探した。
手が空をつかんだ。
「――まさか」
トイレットペーパーホルダーの銀色の上蓋(うわぶた)は、情けなく頭をたれている。
いいや、量が少なくなっているだけだ。思い直して上蓋(うわぶた)を上げる。
そして私は絶望した。
紙がないのだ。
念のため背後の棚を見てみたのだが、予備は積まれていなかった。
ウォシュレットできれいにしてあるだけまだいいが、尻(ケツ)の穴はびしょびしょに濡れていた。
隣の紙を取りに行くか?
――いや、人がいたらまずい。パンツをぬらさないためにはズボンを下げた状態で隣の個室まで移動しなければならない。
下半身を丸出しにして個室の外を歩くのはリスクが高すぎる。
では、このままパンツを上げて水を吸収させるか?
――プレゼンのパフォーマンスはどうなる?
たとえ、ズボンに水のシミが現れなくても濡れたパンツでは集中できない。常に尻や太ももに張り付く、濡れた布を感じながら迷い無く人前で話をすることができるだろうか。いや、僕には無理だ。
隣の個室に誰かトイレットペーパーを融通してくれる人はいないのか?
――いいや、ここに入るとき個室は全部空いていた。
この数分で誰かが来た気配はない。
どうすればいい…。
フト、悪魔の思考がよぎる。
ジャケットのポケットをあさるとハンカチが入っていた。
しかし、このハンカチは四歳になる娘が初めてプレゼントしてくれたハンカチだ。
百円円のお小遣いを五ヶ月ためて買ってくれた大切なハンカチ。
税込み五百円以下だろうが娘の気持ちを汚いおっさんの
思考は止めどなく、無限に発散していく。時折自問する。
たった一分がとても長く感じる。
そして口をついて出た言葉は願い(・・)であった。
「おお、紙よ」
ゴン、ゴン。
「あの…」
僕の独り言に反応するように、誰もいないハズの左の個室からノックが聞こえた。
「…あっ、はい!」
変な独り言を聞かれた恥ずかしさで声がうわずってしまう。一刻を争う最悪な状況と羞恥心が相まって、頭の中はショートしそうであった。
隣の個室の声は少し申し訳なさそうに聞いてくる。
「もしかして、紙がないんですか?」
「え、…ええ。入るときに気がつかなくて、いやはや」
「こちらにはありますよ。お渡ししましょうか?」
「ありがとうございます。本当に助かります」
渡りに船とはこのことだ。危うく大切なものをいくつか失うところであった。
「あの、かわりと言っては何ですが、いくつかお願いしてもいいでしょうか?」
「??…いいですが、…私のできることであったら何なりと」
「本当ですか!!? よかったぁ。ありがとうございます」
選択の余地はなかったため、二つ返事で返した。
トイレットペーパーの見返りに何かを要求する。厳密に言えば、”渡す”ことに見返りを求めている。
考えれば考えるほど釈然としなかったが、悩んでいる時間などはなかった。しかし、不思議なことを言う人もいるものだなあと思う。
ややあってトーレットペーパーを持った手が個室の仕切りの上からヌッと現れた。
僕はそれを受け取る。
そして、自分が受け取ったものに目を疑った。
二枚重ねで香り付きのローションティッシュである。
しかも、新品だ。
しっとりと柔らかなローション入りティッシュが二枚重ね。さらに、心地よいアロマの香りもついている。臭気を覆い隠すようなイヤラシさのない匂いは高級品だ。
こんなものが会社に置いてあるのかと疑問に思いながらもホルダーにトイレットペーパーを設置した。手に取る紙の感触が気持ちいい。
こんなものでおじさんの
感じ入っている場合ではないと気がつき、すぐにトイレットペーパーホルダーに紙を充填する。
尻を拭き終え、ズボンを上げると個室の外に出る。
隣の個室に礼を言おうと向き合うと、…誰もいなかった。
開け放たれた個室トイレには、先ほどまで誰かがいた気配などまったく無い。便器の中の水面は微動だにせず、トイレットペーパーホルダーも空であった。
どういうことだ?
声を聞きつけた親切な人が、わざわざ僕の個室の隣に入って、ホルダーの中の紙を渡してくれた?
個室の外に人の気配は全くなかった。小便器で用を足すついでだったなら、自動水栓で水の流れる音がするはずだが、それもない。そっと男子トイレに入り、紙だけ渡してそっと出て行ったと言うことなのか?
彼の言っていた『頼み』とはいったい、なんであったのか?
空の個室ともらった紙を交互に見て怖くなる。
背に走る悪寒を振りほどいて会場へ向かう。
ひとまず、紙には救われた。
プレゼンが待っている。それでいいじゃないか。
隣に誰がいようと、変な頼まれ(・・・)ごと(・・)は結局はなかったのだ。
結果的には良かったのだ。
一歩一歩、歩を進めるたびに僕は自信を取り戻し、先ほどの不気味な体験を忘れていった。
会場に着く頃には心がスタンバイ状態になり、いつでもエンジン全開でパフォーマンス発揮できるようになっていた。
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