終幕: 君の心を満たすまで。


 日本の空港に着くと、待ち合わせてもいないのに次のスケジュールで会うはずの男が出迎えてくれた。


 男はジャーナリストで、ボクの”作品”のことをインタビューしたいらしい。

 今月から一ヶ月は日本で過ごす。

 たまには都心の息の詰まるような閉塞感も悪くはないだろう。


 あれから十年以上たった。

 便座の男がボクに自殺をやめさせて、次の日にはカメラを持って海外へと飛んでいた。


 はじめに訪れたのは台湾。

 乗り換えなしで即日行ける国が、飛行機の関係上台湾しかなかったからだ。

 比較的近場のアジアの国は、しかし見るものすべてが新鮮だった。

 ツアーのようなスケジュールのない異文化とのふれあいはとても楽しく、”生きている”感じがした。

 自分が悩みあぐね求めていた心の充足が簡単に手の届くところにあったことに、情けなさを感じた。

 同時に「すぐ慣れて楽しくなくなる」と常に頭の中の自分にささやかれていた。


 オーストラリア、中国、アメリカ…心を満たす興奮がその都度あった。アメリカでは薬物が合法な州でマリファナを吸ってみたり、フィリピンでニューハーフと一夜をともにしたこともあった。


 そのたび少しずつ心は満たされていったのだが、やはり何かに納得できない。

がこんな生暖かい庇護ひごのもとにあっていいのか?

 この感情を説明するのは難しい。

 今現在生きている自分を否定するようで、矛盾をはらんでいる。

 ボクは命をギリギリの場所に置いてこそ喜びを感じる。

 海外での『薬物』も『危ない土地』も『危険な行為』も『笑える体験』も結局は人間の敷いた枠組みから逸脱することはない火遊び程度の悪戯(いたずら)だ。

 どんな結果になるかわかる前はワクワクするのだが、一度やってしまえば命を張る価値のないものだと気がつく。

 あの日、屋上でビルの縁にたったような、生と死の境目を綱渡りする感覚を、できることならば予測不能な要素が多い環境で常に感じていたい。

 だから、興奮の冷めないなかでフイに訪れる死を探して、ボクは今日まで世界を巡る。


 ボクが日本に戻るのは生活のリソースを稼ぐためだ。

 サラリーマンが朝から夜まで働いて稼ぐように、ボクは戦場の写真家と言う肩書きを持って写真の個展を開く。一見平和に見える日本の死人のように退屈な人々に、ここではないどこかの不幸を紹介してお金をもらっている。

 ほかのジャーナリストに売るにせよ慈善事業ではないから、ボクの写真は高額だ。

フリークを集めてくるブローカーのような気分だ。


 もちろん、信念や使命を持って仕事に取り組む写真家もいるだろうが、ボクにとっての写真の一枚はいくらかと換金できるチケットに変わりはない。

 エンタテインメントを求めるな国と、死ぬような危ないところに行きたいボクの需要と供給がたまたま合ったのだ。


 今日は雑誌のインタビュー。

 ボクの”作品”を少しでも高く売って、少しでも長く海外にいるためには地道な売名行為も必要だ。

 空港で待っていたジャーナリストの男は大げさな笑顔が張り付いた小男(こおとこ)であった。

 『おおげさな』と思ったのはボクの性格かも知れないから、念のために行っておくといやらしい笑顔ではない。七分丈のパンツにピカピカの革靴、白のジャケット。 清潔感以上におしゃれに気を配ったスタイルだ。


「芸術家(アーティスト)にご挨拶に伺うときはカジュアルでコーディネートしています」

 『芸術家』と言うご身分には違和感しかない私は「そんなんじゃ」と答えた。ボクは本心から、『戦場で写真を撮っているだけです』と言う意味で言ったのだが、男は「すみません。不謹慎でした。戦場写真家に対してを芸術なんて言葉を使うなんて」と素直に恐縮していた。


 もともと男がインタビューしたいと言っていた日にちは、今日から二日後の新宿であった。しかし、急遽都合が悪くなったとかで今日の予定になった。ボクとしては予定も空いていたし、スケジュールが詰まってくれるので快く申し出を受け入れた。


 待ち合わせが空港の外の適当なカフェであったが、ボクがスターバックスの甘いシェークが飲みたいと口走ってしまったので空港内のスターバックスになった。


「改めて、お出迎えありがとうございます。ボクだってよくわかりましたね」

「ハハ、わかりますよ、眼帯をしていて左手の指が削げている人なんて日本にそういますか?」


 ボクは照れるように笑った。

 数年前にへまをしてしまったときの代償だ。

 痛くて、死にそうな目に遭ったけど、こうなってしまったことに後悔はない。商社で営業をやっているときよりはだいぶたくましくなった体にもいくつか傷跡がある。

 命をなくすの危険はいくつもあったが、この国のように見えない何かに殺される

怖さはなかった。

 それはボクがこの土地のルールで生きていけない落伍者だからなのかも知れない。

 毎日精一杯生きて死ぬことに必死だから自殺なんてことはもう考えていない。

 もう一方の目が潰れてしまったらどうしようかと少し考えるくらいだ。

 インタビューは柔らかな雰囲気で始まった。

 目や指のない人間と対峙した一般人は多少緊張することをボクは知っている。どうしても異常のある部分を目で追ってしまう。

 ボクと対面した男の雰囲気からは特に緊張を感じない。

 彼もまた自分の仕事に誇りを持っている部類の人間なのだろう。

 戦場を伝えるカメラマンが言いそうなテンプレートをできるだけお客様が受けそうな感情を思い浮かべながら、経験というリアルを交えてお話しする。


 「お金のためです」とか「死に場所を探しているんです」なんてことは表だってはいえない。あくまで正義感のある、しかし聖人にはなれないことを悟っているような立ち居振る舞いを心がける。


「いやぁ、いい記事が書けそうです」


 男は満足げにうなずいている。

 取材は一時間半程度で終わった。ゆっくり飲んでいたトールサイズのキャラメルフラペチーノがちょうど空になる。


「そういえば、一番大事なことを聞き忘れていました」

「なんでしょうか」

「なぜ、今回の個展では『世界のトイレ』を題材に?」


 その質問には正直に自分の気持ちで答えることにした。


「実は…、どう捉えていただくかは自由なのですがコレがボクの写真家としてのルーツなんです」


 男は背後にテロップが入りそうなほど「キョトン」とした顔をしていた。

 むりもない。理由になっていないのだから。

 だからといってこれ以上詳しく話しても無駄であることは、当のボクがよくわかっている。

 屋上に現れた便座の男なんて、誰が信じるのだろうか。

 もう顔は忘れてしまったが、何が起きたのかをしっかり覚えている。

 捨てた命を拾い上げてくれたことに恩は感じていない。

 生きる楽しさを得られる場所のことを教えてくれたことに感謝している。

 その男は言っていた「トイレをきれいに使うこと」「トイレットペーパーは切らさないこと」を遵守するのがボクの恩返しだ。


「コレを見てください。いろいろなトイレがあるでしょう。やはり先進国は、ピンキリですがよく知っているトイレの形をしている。これがエジプトの田舎とかになるとただの砂場だったりします。どうやらすぐ乾いてしまうから臭わないんだとか。トイレットペーパーも砂ですね。あと、コレなんか…アマゾンの近くの村だったんですが穴の開いた椅子にバケツが着いているだけ! おどろきです、それぞれの国の生活環境や重要視しているもの、美意識なんかを良く感じます」

「アア、それじゃあこの写真展は、そういう”生活感”を色濃く捉えているからトイレをテーマにするのがうってつけだと?」

「アハハ、そうですね」


 男は勝手に納得し、ボクはそれを訂正しない。

 ボクはただ、どこかで見ている”彼”に約束を守っていることを伝えたいだけなのだ。

 ボクはニューヨークで取ったトイレの写真を取り出す。明言は避けるが、お世辞にもきれいとはいえない、ここまで臭ってきそうなトイレ。


「これはニューヨークです、汚いでしょう?」

「ほほぅ、どんなに文明的であっても、動物本来の野蛮さが現れていますね。生物であることに変わりはないのだなあと思い知らされます」

 わかったようなことを聞いてもないのに語る雄弁な男に、ボクはもう一枚の写真を渡した。

 そこにはピカピカのトイレが映っている。見違えるようだが、一枚目の写真と同じトイレだ。

 男は再び不思議そうな顔をする。二枚の写真を、まるで間違い探しをするように見比べる。

 そして、観念したようで、ボクに話を振ってきた。


「これは…」

「これはボクが掃除したトイレのbefore/afterです」


 ボクは少し誇らしげに言った。

 トイレは隅々まできれいにされて、新品のトイレットペーパーが新たに三つ補充されていた。落書きは消され、壁の色も見違えるようだ。


「これは、…すごいですね」


 男は写真家のインタビューでトイレ掃除を自慢されて困惑しているようだった。

 それでもなお質問をひねり出し、どこかで写真家としてのボクと結びつけようと必死に考えているようだ。


「谷口さんが…。このトイレを…。掃除用具はどうしたんですか?」

「ほとんど現地でそろえますが、ナイロンたわし糸ガムなんかを剥ぎ取るヘラだけは自前のものを」

「トイレットペーパーはわざわざ現地で買って補充するんですか?」

「ハハ、 実はいつも数ロール持ち歩いています。この旅行バッグの中にも入っていますよ」

「えっ…!」


 男は本気で驚いていた。

 なぜ、そんなことをするのかと。正気を疑うように見開かれた目をキョロキョロやっている。男は自分だけの興味を満たす質問をしたくてウズウズしているようだった。


「なんでそんな…。その情熱はどこから湧いてくるんですか? …いいや、そこまでする必要がありますか?」

「むかし、約束したんですよ。この写真展をやろうと思うずっと前から掃除はやっています。『トイレはきれいに』『トイレットペーパーはなきゃ困る』ってね、ボクに海外を目指すように言ってくれた人が、別れ際に言ったんです。それからずっとやってます」

「その人は…だれなんですか?」


男は真剣な顔で聞いてきた。物語の黒幕を暴くような、興味と興奮の入り交じった視線であった。


「詳しくはいえません。通りがかりの知識人とでも言いましょうか…実はボクもよくわかっていなくて。でも、地道にトイレを掃除していたら、また会える気がして」

「気軽にお会いできる人ではないんですね。うーん、もしかするとこの写真展はその人に見てもらうためというイミも?」

「勘がいいですね。実はそうなんです。むしろ、日本ではないどこかの生活感だとか、トイレという意外な題材の芸術昇華だとか言うのは全部建前で、私は世界でただ一人、その人に見て欲しいから今回の個展を開くことにしました」


 男は「ははぁ」となんだか感心したように頷(うなず)いて、「恩返し…」がどうとか「芸術性…」がどうとか独り言を言いながら勝手に納得している。

ボクはただ正直な気持ちを伝えただけなのだが、やはり男はボクの言葉の後ろに芸術家としての意味合いを無理矢理にでも見ようとしていた。


 ボクは個展を開けば少しばかりお金になるからと言う理由と、”彼のため”という二つの理由で動いているのだが、一人の客である男はボクの背後にロマンのある物語を夢想して楽しんでいるようだった。


「いやぁ…本当にいい記事が書けそうです。もう時間にはなりますが、まだまだ話をお聞きしたいほどあなたに興味が尽きません。私が責任を持って『写真家 谷口一樹』の魂を喧伝いたします。どうか楽しみにしていてください。今日はありがとうございました」


 男は礼を言い、ボクも「こちらこそよろしくお願いします」と礼を言った。

 ちょうど便意をもよおし始めていた。

ボクは男と別れた後、トイレに行くことにした。

 日本の快適なトイレ環境はなつかしい。日本のトイレ技術は世界一だと思っている。

「ここに住めるんじゃないか?」と思えるほどのトイレがいくつもある。

 海外でトイレサービスを受けるには金を払わなければならない場所も多い。自販機のようにコインをいれて使用する場合もあれば、掃除夫が常駐していてチップを要求されることもある。逆に言えば、無料で使える公衆トイレの質はひどいものだ。おおよそ文明を持つ生命体の所業とは思えない、豚小屋の方が間だ見栄えがする使い方をされているトイレは少なくは無い。


 日本はどうだろうか。

 どこに行ってもきれいなトイレは多い。

 キャンプ場の小屋みたいなトイレにウォシュレットがついていたりする。個室は過保護なくらい広い。愛知県のとあるパーキングエリアのトイレには、なぜかソファが置いてあり、大きめの窓越しには丈の高い花壇が見える。

 汚い場所であるはずのトイレが美しいというのはなんとも皮肉が効いている。


 個室に入り、用を足した後、手を洗っていると背後から大きなため息が聞こえた。

 金属製のトイレットペーパーホルダーがカチカチなり、中に入っている男が独り言を言っている。


「うそだろ…。紙が…、こんなの久しぶりだな。でももう、…はしないんだよな。乾くまで待つか、いや、飛行機に間に合わない」


 良く聞き取れない部分はあったがボクは「きっと紙がないんだ」と直覚した。

ここぞとばかりに自分の旅行バッグの中からトイレットペーパーを取り出し、個室の前に立つ。

 ノックを二回して声をかける。


「あの…、もしかしてトイレットペーパーがないんですか?」

「あ…、そ、そうなんです。ポケットティッシュも切らしてしまっていて」


 返事はすぐに返ってきた。渡りに船というような気持ちであったろう。ボクも同じような経験を遠い昔にしたことがあるのでよくわかる。日本の整備されたトイレの多くはウォシュレットで肛門が洗える分、贅沢ではあるがそのままズボンを上げる気にはなれない。


「あの、よかったら隣の個室からトイレットペーパーを取っていただけませんか? 実はもうすぐ飛行機に乗らなくてはいけなくて」


 男は窮していた。

 人生においてタイミングが悪く良くない事柄が重なってしまうことというのは間々ある。そして、たまたま運良く救われることもまた間々あることだ。


「わかりました。でも、自前のトイレットペーパーがあるので、こちらを差し上げます。使い終わったらホルダーに設置しておいていただけますでしょうか」

「自前?! 持ち歩いているんですか?」


 男は明らかに動揺していた。

 そのような反応をされるたび、自分が健気に約束を守っているという自負が強くなる。いい気分であった。


「ええ、話せば長くなるんですが昔ある人に『トイレはきれいにすること』『トイレットペーパーは常に補充すること』と言いつけられたんです。そのときからボクの人生は開けて、自分のやるべきことがわかったんです。すべてを諦めるまで思い悩んでいたボクは、なんとか前に進めるようになりました」

「…」


 ハッと気がつく。

 インタビュー直後だったからか、やや饒舌になっていた。

 何も知らない他人にこんなことを言ったら必要以上に怪しまれる。

 まるで天啓を授かった宗教家のようなことを口走ってしまったことに後悔する。

 顔を合わせていないのがせめてもの救いだ。

 個室の前からそのままいなくなってしまいたいほどの羞恥の念が押し寄せる。


「あの、…何はともあれ、コレ、おいておきますね。じゃあ、ボクはこれで失礼します」


 空港のトイレの個室は防犯のためにドアの足下が広く開いている。ボクはその広く開いた隙間からトイレットペーパーを転がしてやる。そして足早にその場から立ち去ろうとする。


「ちょっと待ってください」


 意外にも呼び止められた。


「いつ、言いつけられたんですか?」

「えっ?」

「いつ、そのトイレへの姿勢を身につけたんですか?」


 個室の男の真意はわからなかった。

 しかし、ボクは迷わず答えることにした。


「十年以上前だったと思います。ボクがある重大な選択をしようとしたときに、親しいわけでもないある男性が唐突にアドバイスをくれました。そのときに彼とした約束なんです。何を言っているのかわからないかも知れませんが、本当にそういう状況でした」

「…そうですか。あなたは今何をなさっているのですか?」

「写真家の端くれを。西新宿で個展をするために海外から日本に帰ってきました。良かったら来てください。場所は富士蔵ビルの七階です。今月いっぱいやってます」

「富士蔵ビルの七階ですね。わかりました。きっといきます」


 顔の見えない男との会話。

 男は会って間もないボクのことを詳しく聞きたがった。その言葉には、社交辞令を抜きにした純然たる興味があった。

 ボクはなぜだか懐かしさを感じた。

 フト、便座にすわるスーツの男が目の前にいるのではないかと思うようになっていた。

 頬を撫でる室外機の生暖かい風、遠く地を這う陽炎のことを鮮明に思い出す。


「あの…」

「はい」


 ボクは男に「便器と一緒にワープする男のことを知っていますか?」と聞こうとしてやめた。

 リスクの高すぎる質問だ。

 あれは確かに現実としてあった出来事だが、今でも白昼夢かと思うほど信じがたい。初夏の暑さとボクの鬱々とした気持ちが見せた精神の異常による幻影だったのでは無いかと自分のことを疑ってしまう。

 直接的な質問ができない代わりに別の言葉を選ぶ。


「トイレの神様はいると思います。私は彼に感謝しています。彼がいなかったら今頃ボクは」


 生ぬるい失意の中で、虚空に身を投げていた。

 それはボクの望む生ではない。

 それに気がつかせてくれたのは彼だった。

 できることならば、ボクはあのときいえなかった心からの感謝を伝えたい。

 会って、あなたが活かした命がどれだけのことをなしてきたのかと言うことを伝えてやりたい。

 ドア一枚挟んだ顔の見えない男に、ボクは会えないと諦めていた命の恩人の姿を見ていた。

感情がせきを切ってあふれ出しそうだ。

僕の人生そのものを授けてくれた人が、目の前にいるかも知れない。


「その神様は」


 男はボクの言葉を遮った。

 それ以上は言わなくてもいいと言われているようだった。


「その神様は、トイレットペーパーがなくて、ウォシュレットで濡れたお尻を乾かしている間に、仕方がなく誰かの話を聞くしかなかったのかも知れませんよ」

 

 個室の男の声は、少しだけ自嘲を帯びていた。

 ボクにはそれが照れ隠しのように聞こえた。




                           僕の尻が乾くまで。 完





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僕の尻(ケツ)が乾くまで。 捺椰 祭 @natuya-sai

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