第三幕: リノリウム - その1/3
洗剤であらかたの汚れを落としたら、次はぞうきんがけだ。
私はゴム手袋越しにバケツの水の冷たさを感じながら、ぞうきんを水に浸す。
重たくなったぞうきんをギュッと絞ると便器の中を丁寧に拭き取る。
頑固な汚れはナイロンたわしでしっかり落とす。
別に用意した濡れぞうきんに替えて便器の外装を丁寧に拭く。
から拭きで仕上げをする。
それから、床用・壁用のぞうきんでそれぞれの場所を拭く。
ふぅ、と一息ついて個室と便器の周辺を見渡すと、すがすがしさと達成感に包まれた。
私、
掃除が仕事だなんて馬鹿にする人がいなくもないだろう。事実、自分と近しいものが清掃員の仕事をしていたら、あなたはどこか引いてみてしまわないだろうか?
たとえば、その程度の能力しかないから清掃員なんてやっているのではないかとか。
清掃員くらいしか雇われないような暗い過去があるとか。
そういった気持ちがわからなくもない。
掃除のような時間があればだれにでもできるような仕事というのは、必要ではあるが低く見られがちなのだ。
しかし、私はこの仕事に誇りを持っている。
忠し、尽くしていると言ってもいい。
私にとって、掃除とは祈りに似ている。
私は毎日の仕事の中で、私にこの姿勢を授けてくれた人のことを思い出さない日はない。
『といれのようせいさん』のことを想いながら、汚れを拭き取る。
彼の話をしよう。
もう、三十年以上前になるのか。
当時の私は五~六歳だったと思う。家庭環境はお世辞にもよいとは言えなかった。
物心ついた頃には父親はおらず、母親は私が二歳か三歳の頃には夜の町で仕事をしていた。
母は昼間は寝ている。
空いている時間に最低限の家事をして、私にご飯を作り、夜は化粧をして出て行く。
部屋はゴミや空き缶であふれていた。
それでも、母からは確かに愛情らしきものを感じた。
たばこと酒と、だれとは知らない男の臭気をまとわせた体で帰宅すると、まず私のご飯を作ってくれた。帰宅はもっぱら零時を回っていたが、どんなに疲れていても私の朝ご飯を作ってから風呂に入り眠りにつく。
私はというとスヤスヤ眠っていて、寝ぼけた頭の中で朝ご飯のことを考えていた。
朝起きると、テレビをつけて一人でご飯を食べた。
母は眠っていた。
自分の食器は自分で洗うことを覚え、家で一人のヒマなときは買ってもらったゲームをひたすらやり続けた。当時はネットでつながるというコミュニティがまだまだ珍しかったため、対面でのコミュニケーションがない状況はひどく孤独で合ったように思う。
母は昼過ぎに起きてきて、少し遅い昼ご飯兼夕ご飯を作ってくれる。
私が学校を休みの日にはこの時間が母との短い接点であったが、そこまで会話は多くなかった。たまに一緒に買い物に行ったり、遊んだりしたものだが、自分から積極的に話をするという機会が少なかったように思う。
そこには、疲れた母を気遣う遠慮が働いていたのかもしれない。
そんな当時の私を母がどのように想っていたのかはわからない。おとなしくてありがたがっていたのか。反応の薄い、つまらない子どもだと想われていたのか。
いま当時をおもえば、そんなつまらないことが気になってしまうほど、私と母の間に会話はなかった。
小学校に入ると普段から会話をしない環境が徐々に目に見えた影響をしだしてしまうことにになる。
クラスメイトともなかなか話すことができないのだ。
話しかけられたら返事をする程度のことはできるのだが、やはり自分から話をするという行為にハードルを感じてしまう。
勉強の成績もすこぶる悪い。今思えば、話すという行為はそれ自体が幼少期における学習の行いであった。
私はどこか疎外感を感じ続けていた。
自分の世界が成長とともに広がり、ふれあうコミュニティが増えていく中で、私の中にひとつの焦りが生まれていた。誰かと接点を持って友達を作らなければならないと言う焦りだ。しかしながら、どうしたらよいかわからず二の足を踏んでいる。
接点を持つには会話が必要なのだ。意思の疎通が必要なのだ。
私にはその技術が絶望的なまでになかった。どうしたらいいかもわからず、母にすら相談できなかった。
そんなときであった。私の前に『といれのようせいさん』が現れたのだ。
私はその日も放課後に連れだって遊びに行くクラスメイトを尻目に一人でアパートのある団地へ帰宅する。
自分でドアの鍵を開け、散らかった家に戻り母の言いつけ通りにドアに鍵をかけた。
母はもう出かけていた。
テレビの前にある座椅子に腰掛ける。
何を思うでもなく、袋菓子のゴミを足で向こう側に押しやり、壊れた人形のように脱力した。
カーテンを閉めたままの部屋で薄暗い天井を見つめる。
今気がついたかのように孤独と不安が押し寄せてくる。
「あ、あ…」
声を出してみる。
自分の声ですら、なんとなく久しく聞こえるのは、周囲の人間の声よりも圧倒的に聞き慣れないからだ。
明日の朝までひとりか。
私は当時の短い人生経験の中で何度目か、小さな絶望を覚えていた。
そのまま何をするでもなく、作り置きのご飯に手を出さぬまま眠ってしまおう。
そんな風に思って目を閉じたときのことだった。
「あの…」
私ははじめ、自分の寝返りか何かでテレビのリモコンを押してしまったのだと思った。なんとなくテレビの方から聞こえた気がして、画面を見る。
二十一インチの小さな画面は漆黒で塗り固められ、光の反射で私の姿と室内が映っていた。
テレビに反射した小さな室内に違和感を覚えた。
私の後ろ側に、白い椅子に座った黒い服の男が映っている。
恐怖を覚えつつも反射的に振り返ると、そこには確かに白い椅子に座ったスーツの男がいた。
その男はズボンとパンツを膝のしたまでズリ下げて、スーツとYシャツの裾で絶妙に股間を隠している。
「ハッ」
私は息をのんだ。
私しかいないはずの鍵のかかった部屋に、だれとも知れないおじさんがいる。
よく見ると白い椅子だと思っていたそれは便座であった。ただでさえコミュニケーション能力のない私のプライベートなスペースに母以外がいるという状況は恐怖を通り越して信じられない自体であった。
「だれ…?」
とっさにしっかりと声が出たことに若干驚きつつ、私は背後に後じさる。逃げ出したかったが、逃げる勇気などなく、狭い部屋には逃げる場所などなかった。
男は申し訳なさそうな顔をしているが、どこか慌てているようだった。
「僕は…、あなたのお話を聞きに来ました。怪しいものではありません」
「えっ…え」
そんなこと言われても信じられるわけがない。
下半身を露出したスーツの中年男性が急に目の前に現れたなら、たとえ幼い子供でも不審に思う。
私は、ただただ動けなくなってしまった。
「あの、…僕は…その、といれの神様の使いで…なんて言えばいいのかな。坊やは神社ってわかるかな…、そういう役割なんだけど。普段は出てこれない神様の代わりに人を導いたり…」
「ようせいさん?」
私のつたない語彙力では彼の言いたいことはよくわからなかった。
神様とか神社とか言う神秘的なワードから連想して、”ようせいさん”と言う言葉が出てきた。
当時熱心に見ていた子供向け番組の影響であったとは思うが、中年男性を妖精だなどと認識できたのは、子供ながらの柔軟性と当時の動揺の結果であろうと思う。
「ああ、妖精。そう、ようせいさんだよ」
子供だましをするように、心持ち弾んだ声に若干の不審を抱く。
それが顔に出てしまったようで、ようせいさんはゴホンと咳払いをすると申し訳なさそうに笑って見せた。
とにかく目の前の子どもを安心させたいというような気遣いを感じ取ったためか、私は特に騒ぐこともなく、黙ってようせいさんのことを見ていた。それが“彼”だからそうしたのではない。社会経験も身を守る意識も十分にない私は、相手がよくデフォルメされる泥棒の人相でぎこちなく笑っても、同じように黙り込むだろう。
「僕はここから動けない。だからキミには何もしない。ようせいだからたぶん十五位分とかそこら辺で消えていなくなる。今日、ここに来た理由は君のお話を聞くためなんだ」
「うん、いいよ」
戸惑いながらも私は応える。
話を聞きたいとようせいさんは言った。その提案に対して今ならナゼ?と聞いただろう。しかしながら、無垢な私は疑うと言うことになれてはいなかった。
「ありがとう」
父のいない私にとって、中年男性とは学校で出会うほかのクラスの先生のみであった。
担任は女性であったし、新任教師のようで母よりも若かった。
だから、ようせいさんの中年男性というステータスは私の人間関係からすると異質であった。
「きみのなまえを教えてくれるかな?」
自己紹介くらいはできる。
しかし、返事以外で声を出すのにいちいち勇気がいる。
「ぼくはこじまたかあき」
「そうか、たかあきくんは幼稚園生?」
「ううん。小学一年生」
痩せ型に私は、その内気さもあって必要以上に小さく見られているようだった。
今や中年の私も同じ状況であれば子供の学年など一目ではわからなかったはずだが、当時の私はプライドが少し傷ついたのを覚えている。今でこそ多少下の年齢に見られた方がうれしかったりもするが、子どもの頃というのは自分がいかに成長したかを誇示したくなるものだ。小学校に入学してしばらく経つのに、未就学児と間違われるのは気分がいいものではない。
「そうか、ごめんね」
ようせいさんは幼い私にも精一杯の敬意を払うように、詫びを口にする。
こと言葉遣いこそ易しいものであったが、大人が子供に見せる一種の横暴さ、配慮のなさがようせいさんにはなかった。ただ一人の人間として、私の話を聞こうとするのであった。
「学校はたのしい?」
私はその質問に目を泳がせた。
「ううん。あんまり」
「なんで?友達と遊んでたのしくないですか?」
私は多少言葉を詰まらせてからうつむく。そして、ぽつりと言ったのであった。
「ともだちは、あんまりいない」
一人もいないのだが、正直に言うことはできなかった。
とっさに応えてしまったが、交友関係が少ないと口にするだけでも恥ずかしいことであった。
「うぅん。そうか」
ようせいさんは腕を組んで悩んでしまった。
うなった後にもう一言、「そうなんだね」と念を押すと、次の言葉を探しているようだった。
気まずい時間に、羞恥心で胸が焼け付くようだった。自分は友達がいなくて、学校ではうまく喋ることもできず、惨めだから気を遣われているとなんとなくわかってしまう。私は下唇をかんでいた。
「ここにまた来てもいいかな」
「え?」
「僕はトイレの妖精だがら、たかあき君が一人でいるときにしか現れない。だからお母さんとお父さんのいないときにここに来るよ。毎日ではないけどここに来るから、遊ぼう。そのたびにお話を聞かせてよ」
「うん」
私は言葉に圧倒されて、返事をすることしかできなかった。
なぜそんなことをするのかもわからなかったし、幼心の無知をもって深く考えようともしなかった。まだ、ぎりぎりサンタさんを信じていて、テレビアニメと現実の境界が曖昧(あいまい)な頃に出会った”といれのようせいさん”を私はすんなりと受け入れた。
「じゃあ、今日は僕が消えるまでしりとりをしようか」
『尻を出しているから』という、ようせいさんなりのジョークかともおもったが、話を広げる力のない私は「うん」とだけ言った。
その代わりに、少しだけ気になっていたことを聞く。
「いつきえるの?」
「実は環境によって変わるんだけど…。あと五分か十分くらいだと思う」
「ふぅん。じゃあ、しりとりの『り』からね」
昔の私は、おしなべてほとんどの子どもがするように、疑問するより先に遊びたい欲求を満たそうとした。あの不思議な体験を今思い出すと、疑問ばかりが頭をよぎる。
その後勝負がつく前に本当にようせいさんは目の前から消えた。
私の中に驚きとともに小さな期待が宿った。
――次はいつ来てくれるのだろうか。
今思えばそれは、本来は両親に期待すべきものであったろう。
誰かとまっとうなコミュニケーションができる。
それだけで私はうれしくなってしまったのだ。
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