第二幕: 紫陽花 - その3/3


「もう一つあります」

 おじさんは申し訳なさそうに申し出た。


 言うのをためらっているようだった。

 ここまで話したんだ。何を言われても気になんてしない。


「なによ」


 私は傍目から見たらむすっとしていたと思う。

 仕方がないと思う。見たくもない自分の内側を直視させられて、痛めつけられたのだから。たとえ、本質的には自分の足に蹴躓(けつまず)いて傷ついただけだとしても、傷口が痛ければ不機嫌にはなる。

 そんな傷心の私にさらに追い打ちをかけようとでも言うのか。


「それは、ここ数分の会話のなかでハッキリとお気づきになったことかと思います」

「は?なにそれ」


 話すのをためらっているようにも見える逡巡。おじさんが少しだけ間を置いた。


「正直、自分でも重いと思っているから書けないのではないでしょうか。何というか、あなたの言葉は感情的に見えて論理立って見える。自分のことをイヤというほど客観視しているようだ。自分の気持ちを他人に伝えるというのは難しいことです。それを数分前までは見ず知らずの中年サラリーマンに十歳以上も離れた高校生がしているというのですから、勇気と地頭がある証左です。 青臭い高校生のような振る舞いをしていますが、今だってきっと、自分を冷静に見ているのではないでしょうか」


 私はギクリとした内心を無表情でうまく隠したと思う。

 どうってことは無いことを言われたような態度で、次に自分が何を言おうか考えている。しかし、考えても特に言いたいことは見つからなかった。


 おじさんの言っていることはほとんど正しい。

 手紙を書かない理由は、自分の感情的な部分を自分が一方で冷ややかに見ているからだ。怒りや欲望に正直になれず、理性が自分の想像力に後ずさりしている。

 なにも他人に遠慮していることが大きな理由ではない。


 自分の感情が怖いのだ。


 その巨大質量を桃子にぶつけるコトを考える前に、向き合い、触れて、持ち上げることに躊躇(ちゅうちょ)している。仲良しの友達のままで、彼氏との仲を応援したり、グチりあったりして、別々の進路に進んで、たまに地元で会ったりして、この先ずっと緩慢に続くであろう友情が正しいと私は思っている。


 じゃあ、この感情は?

 どうしたらいいというのか。

 これも、紛れもなく私のものだ。

 消えるのを待つには重すぎて、私の心が耐えられない。


「私は、どうすればいいんだろう」


 ポツリと言う。

 ひねり出したのは強がりではなく、弱音であった。

 わらにもすがるとはこのことだ。自分を神様だとか、中年サラリーマンだとか紹介した怪しいおじさんに助けを求めていた。

 もし、答えを知っているなら教えてほしいと思った。


「うーん。わかりません」

「は?相談に乗ってくれるんじゃなかったの?」

 おじさんはわざとらしく『ええっ??』という顔をした。

「いえいえ、私はただ、『悩みを聞かせてください』といっただけで、相談に乗るとは一言も言っていませんよ。聞かせてもらえたら、それでいいんです」


 ムカつく言い方だったが、考えすぎて反論する力がわいてこなかった。

 ただ聞くだけ聞いてどうするというのか。

 女子高生の赤裸々な恋愛事情を聞いて、興奮する性癖でもあるというのだろうか。

 そこで私はピンときてしまった。

 きっと、そういう性癖なのだ!


 だから下半身はズボンを下げている…?


 ということは、机の下は今たいへんなコトになっているのではないだろうか。

 想像すると恐ろしくなる。早く警察を呼ばなくてはならない。

 体力に自信はあるが、成人男性を相手にどれだけ身を守ることができるだろうか。

 物理的に身を守ることを真剣に考えなければならない。

「ここは冷房が強いですね。思ったよりも早く消えてしまいそうです」


 冷房が強いから消える…?

 トイレの神様の設定にしてはよくわからない言いわけである。

 何にせよ、このヘンタイが襲ってきたら怖いので、スマホをいじるふりをして百十番を押して、いつでもコールできるようにしておく。


「ねえ、そんな設定もういいから。消えるなんてどうせ嘘だろうけど、最後にひとつきいていい?」


 たとえヘンタイでも、真剣に話を聞いてくれたのはうれしかった。

 だから最後に、期待を込めて聞いてみた。


「私は手紙を書くべきだと思う?」


 私は『おてあげなんだよ』と気が抜けたように言った。

 おじさんは少し考えてから口を開く。


「日本人は手紙を書くのが好きです。ケータイ電話に初めてメール機能をつけたのは日本人開発者だそうです。それは日本人特有のおしゃれなのかもしれません。直接言うよりも、相手に想像の余地を与え、練られた言葉の並びで感情を揺さぶります。残った手紙は宝物になりますしね。でも、私の経験上、メールや手紙を書く上であまり好ましくない内容があります。それは、感情的な、…怒りや悲しみをダイレクトにぶつけるような内容です。これは受け取った方もショックでしょうし、実際は一時的な感情の塊を書き殴っているだけなので、後からひょっこり出てきたものを読み返すと自分でも恥ずかしくなります。なにより、受け取った本人が捨てさえしなければ証拠(エビデンス)が残ってしまいます。後から無かったことにはできなくなるんです。どうしても出したいなら、書いた後に机の引き出しにでもしまっておいて、一週間後に見てみるんです。少しは冷静な文章に改めることができるでしょう。一番いいのは、手紙という証拠は残さず直接会って冷静に訴えることです。字面だけでは伝わらないコトの方が多いんですよ。その声色や抑揚、どもり、表情、身振り手振りで自分の全部を伝えられたらいいです。まぁ、好みは人それぞれですが」


 答えの中に明確な指示はなく、経験に裏打ちされやアドバイスがあった。

 私は思いのほかしっかりしたアドバイスに驚いた。

 『僕の恋じゃないから、自分で決めなさい』と遠回しに言われているようだった。


「ふぅん。ありがとう。参考にするね」

「トイレの神様のおつとめなので、お気になさらず」


 私は正直にお礼を言う。

 はじめはただのヘンタイだと思っていたが話をしていくうちに徐々におじさんに心を許している自分がいた。もう、ヘンタイだろうがトイレの神様だろうが、中年サラリーマンだろうがどうでもいい。結果的に行き詰まった私の気持ちは少しだけ軽くなった。


「あのさ。もう、おじさんが誰でもいいよ。トイレの神様ってことにしておいてあげるから、さっさと私の前からいなくなって。誰も来ないうちに。乱暴さえしなければ大きな声も出さないから、そのパンツはやくあげて」


 おじさんは、「じゃあ、」といって優しく微笑んだ。


「最後にひとつだけ、お願いしてもいいですか?」

「気持ち悪いのとか、嫌らしいのじゃなきゃね」

「トイレはきれいに使ってください。そして、スマホやゲーム、本など日常的に触れるものは持ち込んだりしないでください」


 私はうんざりして、やれやれと手を振って見せた。

 ここまで徹底していると、むしろ本気で自分を神様だと思い込んでるヤバい人なんじゃないかと疑わしくなってくる。


「はいはい。トイレの神様ぁ~。約束します~。っていうかいつまでなりきってんの?…っていうか、ひとつじゃないじゃん。…、…!!?」


 私は目を疑った。

 先ほどまで便器とともに目の前にいた男が消えていたのだ。

 50~100kgはあるであろう便器と一緒に音もなく消え去った。

 目を離した一瞬のできごと。


「…トイレの神様…。本当にいたんだ」


 その瞬間、私はもう一つの大事なことに気がつく。

 私は負けるはずのない賭けに負けたのだ。

 私は、おじさんが消えていなくなったら、あの子のもとへ行くと自分に約束した。

 もとより、アンフェアと言うよりアンリアルな条件であったため成立するとなんて思っていなかった。


「…!」


 考えるより先に体が動いた。

 私物はすべて図書館の置き去りにして、全力で走った。

 雨は身を打つほど強かったが、それでも走る。雨の冷たさが少しは私を冷静にしてくれるだろう。

 なによりも、この勢いを失いたくはなかった。現実味がないにしても、白昼夢だとしても、私は思いを伝えるきっかけをもらった。

 このまま桃子の元へ行ったら直接思いを伝えることになる。謀らずしもおじさんのアドバイス通りになった。

 結果はどうなるかわからない。


 たとえどんな結果だとしても、今日は家のトイレを掃除しよう。



                                 第二幕 了




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