第二幕: 紫陽花 - その2/3

 「ありがとうございます。では、お話を聞かせてください」


 おじさんは落ち着きのある態度で私の瞳を覗いてくる。

 父よりもはるかに年下だが、私の倍以上は生きているであろう男。優し気なまなざしの奥に人なつこさが見える。案外悪い人ではないのかもしれない。

 しかし、ヘンタイには変わらない。

 普段の態度と性癖の間には必ずしも相関関係はない。


「わかった」


 私は羞恥を気取られないように気をつけながら話を始める。

 机の上のレターセットから紙を一枚持ち上げて、これ見よがしにヒラつかせる。

 薄いピンク色で、B5もないくらいの封筒付きの市販品。

 柔らかなタッチで横書きの下線が引いてある紙には何も書いていない。


「これを書こうかどうかで、いま悩んでる」


 おじさんは珍しいものを見るようなまなざしで手紙を見る。

 “お手紙”なんて、大人になってからはそうは書かないと思う。

 男の人ならなおさら、レターセットで手紙をしたためるなんて習慣は生まれてこの方ないのかも知れない。

 スマホが普及した今、わざわざレターセット(こんなもの)を机に広げている方がめずらしい。


「便せんですか? 何を書かれようとしているのですか? 僕くらいになると手紙よりはもっぱらメールですし、筆記用具を持つことすら珍しいんです。もちろん、仕事によるでしょうが、ほとんどがキーボードへの打ち込みですね。今の若い人もそうなんじゃないですか? 手紙で出すと言うことはよほどの用事と見て取れます」

「そう。これは私が好きな人に告白するために用意した手紙」

「そうですか。今から書かれる…のではなく、まず、書くかどうかを迷っておられるのでしたよね」


 清水の舞台から飛び降りるような気持ちで言ったのだが、おじさんは意に介していない。


「そうよ。…」


 何らかの言葉を勢いに任せて続けようとして詰まる。

 悩みというほど大層なものではない。好きな人に思いを伝えられないだけなのだ。そう思った途端、自分が朝から今まで何もできずに机に向かっていたことが情けなく思える。

 おじさんは笑うでも、馬鹿にするでもなく、「そうですか」といった。

 表情には裏がなく、瞬きの少ない顔には特に表情は無い。

 おじさんは私の目をしっかりと見据えて薄く微笑んで見せた。


「たいそう悩むと思います。勇気が出ないコトって本当にいろいろな機会で経験する」


 私は自分を責めたが、男は私の弱い部分に同情した。


「おじさんは、どういうときにそういう状況に出会うのよ」


 発言における一挙手一投足を勝負のように感じていたが、そこまで堅苦しくする必要はないと気がついた。私は湧いて出た疑問をそのままぶつけてみた。


「同じような恋愛のこと、仕事場での上司とのこと。公然での小さな悪事を見たとき。自分以外の他人に、どうにか働きかけようとするときはいつもそうですよ」


 大の大人に弱さを見た。

 自分の年からすると、社会人がどうだとか言うのはまだよくわからない。

 大人に一方的な強さと寛大さを期待する私は「そういうものか?」という疑問と「大人にも弱いところはあるのか」という小さな失望を感じる。

 身勝手かも知れないが、まだギリギリ子どもの私の感受性はおじさんの言葉をそんな風に受け取っていた。


「身近な例で言うなら、授業とかセミナーで先生の質問にみんながシンと静まりかえっているとき、自分だけが答えをわかっていて手を上げるのって、勇気がいりませんか?」

「うん」

「人前で間違えたことをいってしまったらみんなどう思うのかだとか、はりきっていて優等生ぶってみられるのがイヤだとか…、そういうのが、脳裏をかすめます。だったら、みんなわからないんだから、『僕もいいや』って。このとおり、特定の誰かを動かしたいときはもちろんですが、空気にすら勇気を使わなくてはいけません。結局は、自分の頭の中だけの声なのに」


 おじさんは私を丁寧に肯定した。

 私は次の言葉を待ったが、おじさんは黙って私を見ている。

 おじさんが何かアドバイスめいたものを口にするのかと思っていた私は、次は自分が喋る番であるコトに気がつくのにずいぶん時間がかかった。

 そうこうして、もたついている間におじさんが口を開いた。


「それだけ、と言うこともないのでは?」

「え?」

「人はラブレターを出すことにためらいはあるかもしれませんが、書くかどうかまではそこまで迷いますでしょうか。誰に渡すでもなく、いつも頭の中で巡っている思考を書き出すだけじゃないですか」


 痛いところを突かれた。

 たしかに、私は書く以前のところで迷っている。


「書き始めもしない理由はあるんですか?」

「あるわ。あるわよ」


 自分にとっては一番羞恥を感じる質問であった。

 しかし、応えないのはフェアじゃない。

 私は動揺を気取られないようにできるだけ堂々と話す。


「手紙を出そうと思っているのは同級生の友達、…女の子よ」

「ああ、そうなんですね」


 またもや私は清水の舞台から飛び降りるような気持ちで思いを口にしたが、おじさんはというと味気ない返事である。

 自分が神妙な面持ちで語ってしまったかと思うと、肩すかしというか、勢いがからぶってしまったようでさらに恥ずかしい。

 おじさんはそんな私を笑うではなく、真剣なまなざしでじっと見つめる。

 そして、答えをせかすのであった。


「それで、書けないでいる理由は何ですか?」


 頭の中にある思考とはいえ、いつもは表に出さない心の内を言語化するのは意外にもむずかしい。少なくとも私にとっては。心臓の裏側を見るようで、怖さもある。


 それでも、一つ一つ言葉を紡いでいく。


「…。 私は、普通に男の子が好きだったのよ。小学生の頃、告白されたときもうれしかった。今でも男の子に興味が無いわけじゃない。でも、その子には友達以上の気持ちがある、気がする」

「気がするといいますと?」

「私にもよくわからない、仲間意識とかそういう感情じゃなくて、一緒にいて幸せなの。かわいい顔を見るとドキリとする。これはちょっと、友達ではない気がする」

「うーん。ありがちですが『今の関係を壊したくない』とか思っていませんか」

「じゃなきゃこんなに悩んでないわよ」

「今の関係のままでは不満と言うことですね」

「それは…ちがう。ちがった」

 私は今、どんな顔をしているだろう。

 しょぼくれた浮浪者のような顔に違いない。

 思い出してもつらいだけの記憶が一瞬頭の中をかけた。胸はチクリと痛み、吐息には悲しみが混じる。多少、自分の内側を自分で覗いたくらいで、すぐに情緒不安定になってしまうなんて。自分で自分を否定したくなる。


「あの子、…あの子に彼氏ができた。…少し遊ぶ回数は減ったけど、学校ではいつも一緒だから、友達関係にはなんの支障も無い。でも、…彼氏が男らしくなくて、それがじれったい」

「じれったいんですね」


 ただの相づちだろうが、興味があるのかないのかわからないふうに、語尾をオウム返ししてくる。気になりはしたが、私はそのまま続けた。


「アイツ、なよなよしてて、いつも優柔不断で、せこいし全然男らしくない。あんなやつ桃子にはふさわしくない。私の方が、…私だったもっとうまくできる。私だったら、…私が男の子だったら」

「桃子さんは、その彼氏を嫌がっているんですか」

私は歯ぎしりをしたいような気持ちなる。

おじさんへの答えはNOなのだ。

あんな男でも、桃子は愛していて、恋していることに浮かれていて、それがどうしようもなく気にくわない。


「嫌がってないわ。むしろ別れる気配なんて無い。ずっと私と友達で居続けてくれることには変わりは無いけど、大好きな桃子の一番だったはずの私よりも、あんなやつがどんどん大切になっていくのが許せない」


 意外にもすんなり言葉にできた感情は、私自身の傲慢そのものだった。


「なるほど、自分の一番大切な人には自分のことを一番に思っていてほしいというのはまっとうな感情だと思います」

 おじさんは、明らかな私のわがままをただ肯定した。

 知らずと声には力がこもる。


「私はただ一番の友達で良かったけど、アイツには負けたくない。『今の関係が不満かどうか』はアイツが彼氏になった前と後では全く違うわ。だから手紙を書いて、私も桃子のコトが好きって、誰よりも愛してるって書こうと思ってた」

 言葉にしてみると、本当に馬鹿らしくて、感情的で、しかしどうしようもなく悲しい。


「書かないんですか?」


 おじさんの質問は意地悪だと思った。


「なんでだとおもう?」


私はただ脱力して言った。


「あなたは男の子も女の子も両方愛せる感受性の豊かな人なのだと思います。それを薄々気がつきつつも、同性が好きであると言うことを自分の心のどこかで否定しているんだとおもいます。先ほど私が触れた話にもありますように、空気に気を遣っているのかもしれません。空気に気を遣うのは生きていく上で大事ですよね。書けない理由は自分の個性を自分でハッキリ認めてしまうことになるからですよね」


 私は返事をしない。

 これが答えだとおもう。反論はない。

 ありていに言うならば、私は私がバイセクシュアルだとかレズビアンだとか思われたくないのだ。人の目が、桃子の目が怖いのだ。


「もう一つあります」


 おじさんは申し訳なさそうに申し出た。


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