第二幕: 紫陽花 - その1/3


雨の日の市営図書館は、本特有の紙臭さがいっそうに増す。


私は読書や勉強のために置かれた長机に頬をつきながら外を眺めていた。

むしっと暑い外とは違い、6月の初めからつき始めたクーラーで館内はとても快適だ。

 しかし、弱くはない雨脚の中、わざわざ図書館まで来ようという人はあまりいない。せいぜい、1~2時間に一人が借りた本を返しに来る程度だ。


 レターセットを広げた机からは目をそらし、水滴のついた窓の先を眺める。

 窓の外の通りには、パン屋とシャッターの閉まった文房具屋さん。雨だからなのか、良くありそうな町中の通りが特別どんくさく見える。 


「もし、次とおる車が赤だったら、書こう」


 独り言を言った。図書館には私しかいない。

 受付の人もトイレか何かで出て行ってしまった。

 ただ、しとしとと降る雨だけが耳に心地いい。

 シャァアと路面の水をはじきながら車が通る。


 黒と赤のMINIだった。


 赤と言えば赤だが、真っ赤ではない。むしろ黒の比率の方が高いような気がする。

 私は次の車にかけることにした。

 シャーペンの先で指の先を軽くつつきながら、頬杖をつきつつ再び窓の外を眺める。


「あの、ここあいてますか?」


 不意に机の向かい側から声が聞こえて、窓から視線を移す。

 そこには、スーツを着た三十代後半に見える男…怪しいおじさんがいた。

 あえて怪しいといった理由は三つある。

 まず、おじさんという生き物が華の女子高生に向かっていきなり話しかけてきたからだ。何かいやらしいことを目的にして話しかけてきたのではないかと勘ぐってしまう。

 次に、席がほかにもたくさん空いているのに、わざわざ私の目の前を選んだこと。ふつう、空いている席があるなら少し離れて座るはずだ。

 そして、3つめ。

 何の気配もなく急に現れたことだ。

 確かに窓の外をボゥっと眺めてはいたが、向かいに座ったおじさんに話しかけられるまで気がつかないなんてことはあるのだろうか。コソコソやってきて、私の目の前に座ったに違いないのだ。

 何が目的かはわからないが、正直、そこまでするのかと驚いている。

 しかし、何かにつけ負けず嫌いの私は少しにらむようにしておじさんに言って返す。


「ほかのところ、あいてますけど」


 おじさんは少し困ったように目を泳がせた。ますますあやしい。

 やはりえっちなコトが目的に違いないのだ。

 少しスレた雰囲気があると自分でも思う。

 それは他人からもそのように見られるから間違いは無いようなのだ。

 生まれつきの浅黒い肌とつりぎみの大きな目、ショートカット。身長は平均よりも少し高く、スカートは適度な短さ。個人的にはコンプレックスであったが、有り体に言うならば“日本人らしくない”見た目なのである。

 へんなキャッチに絡まれたことも何度かある。

 図書館にまで湧いて出てくる生命力には驚かされるが、きっとこのおじさんも、そいつらと同じに違いないのだ。

 親が厳しく、見た目や雰囲気に反して、そういった体験とは無縁であった私の貞操観念は非常に堅かった。

 この状況は、たとえ少し頭が緩かったとしても、不審に思うのは間違いない。

 だから、警戒してしかるべきなのだ。

 私が冷たくあしらうと、おじさんは明らかに困った様子だった。

「いやぁ、その、ここからうごけなくて…」

「は?なにいってんのおじさん。さっさと消えてよ」

 私は強めの口調で言う。相手のプライドをできるだけズタズタに切り裂くような辛辣さで、ただの小娘が誰よりも尊大に言ってやるのだ。

「詳しくは、その、いえないのですが…、せっかく机があるからこのままでいたいんです」

「・・・。なにいってんの?」

 私は苛立ち、立ち上がる。

 大きくため息をついて、おじさんの方へ歩み寄る、

 格好ばかり偉そうな気の弱い男だ。

 襟首を持って、張り倒す勢いで別の席に退去願おう。目の前からも消えてもらおう。

 いざとなったら大声を出して助けを呼べばいい。

 おじさんは手を前にやり、止まってくれと懇願するような仕草を見せた。


 「いやぁ、こっちには…」


 私は向かい側に座っているおじさんの元に近づき向き直るが、机の下にあるものに目を疑った。

 机越しにおじさんが座っていたのは、椅子ではなく便器であった。

 スーツのズボンはおじさんの足下で情けなく中途半端に脱げている。

 ご丁寧にパンツまでズリ下ろして、尻でしっかりと便器をとらえている。

 「あちゃー」とおじさんは頭を抱える。

 「あちゃー」ではない。私は声が出なかった。

 驚きからではない。純粋に怖かったのだ。

 息が荒くなり、視界が白と黒でチカチカした。情けなくペタンと床に座り込むと中 年男の尻と太ももが目の前にあった。私はどうにか声を出そうと必死だった。


「イヤ、イヤ…はっ」


 かすれる声を必死に絞りだそうとするが、どうしても大きな声にはならない。

 何でこのおじさんは下半身丸出しで、図書館にいて便器に座っているんだ?

 私は心を落ち着けるため、大きく息を吸う。それを見たおじさんは、大きな声を出すつもりなんじゃないかと思ったのか慌てて手を振りながら釈明し出す。


 「まって、まって、大声はまずい。話を聞いて! 僕は、そのォ…トイレの神様!! そう、トイレの神様なんだ! 君の悩みを聞きに来たんだ 」

 そんな戯言でだませると思っているのだろうか。

 高校生は子供でも幼児ではない。確かに、現れるに当たっては、説明がつかない不思議な点がいくつもあったが、間違いなくこのおじさんは変態だ。


「うそだ。ヘンタイ」


 私は涙が出るのをこらえて抵抗した。恐ろしい目に遭って泣き出そうとしている情けない自分をどうにか制御して気丈に振る舞った


「まって、何もしません。というか、ここから動けません」


 今度はおじさんの方が焦りだしている。額には尋常じゃないほどの汗をかいている。映画なんかに出てくる嘘のばれたサラリーマンのようだ。


「トイレの神様なんですって、本当に。君の悩みを聞きに来ただけ! 嘘じゃないから」


 私以上に取り乱し始めているおじさんをみて、少しは冷静さを取り戻す。

 大きく肩で息をして、心を落ち着かせる。


 「悩みを聞きに来た」だって?確かに悩み事はあるが、聞いてほしいなんて頼んだ覚えはない。それに、トイレの神様なんて信じられるわけがない。それはトイレにまつわるジンクスの話だ。受肉する以前に、誰がそんな信仰をしているというのか。たとえ、信仰ががあったって、私はもとより神様なんて信じちゃいない。

 そうやって考えている内に、私の脳裏には意地悪な考えが浮かんできた。

 自分が神様だって言い張るなら、証明させてやればいいじゃないか。


「ねぇ、だったら神様だって証明して見せてよ」

「え…」


 おじさんは明らかに動揺したようだった。

 やっぱりだ。

 こいつはただの便器に座った露出狂のヘンタイだ。公前白日の元にさらして、社会的に抹殺してくれよう。私の心に不快トラウマを植え付けたこのヘンタイにしかるべき罰をくれてやる。 


 「そうだ。じゃあパッと消えて見せてよ。神様ならできるよね」


 シンプル。

 だが、実現不可能な奇跡。それが瞬間移動だ。

 それを目の前でやるのだから、なおさら不可能だ。

 現れたとき便器をどうやって持ち運んだのかは確かに疑問だが、その理由は“元からあった”で説明がつく。そして私は机の影に置いてある便器に気がつかなかったのだ。

 なぜ便器が図書館の室内に机と並んで設置してあるのかは謎だが、この際そんなことはどうでもいい。

 下半身丸出しのおじさんが、目の前から一瞬にして消滅する。

 そんな奇跡が目の前で起こるなら、信じてあげないこともない。


「ああ、そんなことですか。良かった。もっと無理なお願いをされると思ってました」

「…、…え?」


 動揺したのは、今度は私の方だった。

 耳を疑った。

 このおじさんは、自分がこの場所から消えていなくなるコトができると言ったのだ。そんなことできるはずがない。


「でも、その代わりにあなたの話を聞かせてください。そうしたら、話の最後に見事消えて差し上げます。もちろん、便器ごと一瞬にして」


「ハ…ハハ、強がらないでよヘンタイ。あり得ないでしょそんなこと。私の見ている前で消えるのよ?そんなこと」

「できますとも。『神様』なので。じゃあ、私に十五分くらいください。そうだな、20分以上たってもいなくならなかったら、大声で叫んで人を呼んでもいいです。でも、それまでに僕が消えて無くなったら、この話は内緒にしておいてください」


 まるで、ゲームのディーラーのがルールを説明するような言い方だ。

 いいや、むしろ詐欺師に近い。勝ち目のない勝負なのに、大ボラを吹いて優勢を演出している。

 しかし、男(おじさん)の目は本気であった。

 勝ち負けと言われると、血がざわつく。

 勝つとわかっていても、絶対に勝ちたいと思う。

 完膚なきまでの勝利がほしい。

 おじさんがそう言うのなら、正々堂々勝負してやろうじゃないか。


「いいわよ。でも、受付の人が戻ってきたら?他の人が入ってきたら?」

「そのときは極力、バレないようにお願いします。大声を出さない限りは、案外ばれないものです」

「それでもバレたら?」

「私の負けでいいです。無理矢理ヘンタイと会話させられていたと言うことにしてください」


 限りなく私に有利なゲームだ。おじさんに何を期待するわけでもないけど、私が払うのが十数分の時間だけであるならば、多少遊んでやってもいい。


 「いいわよ。いいわ。そこまで言うならやってやる。確かに悩み事はある。正直に話す。解決してほしいなんて頼んでもないし、これっぽっちも思っちゃいないけど、フェアじゃなくちゃね」


 ここで何を話そうが、目の前のおじさんは公然わいせつ罪で警察行きだ。

 そうだ、先ほど赤い車通りを「通るか」「通らないか」の賭けを、おじさんにしよう。もし、このおじさんが目の前から消えていなくなったら、私はレターセットすらそのままにこの図書館を飛び出して、雨の中、あの子に逢いに行く。たとえ、バケツをひっくり返したような雨でもだ。


「ありがとうございます。では、お話を聞かせてください」



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