第三幕: リノリウム - その2/3
次の日はいつものように学校に行き、いつもなら憂鬱な帰路を少し弾んで歩いた。
青い空はより青く、道ばたの花の香りでうれしい気持ちになった。
今日は来ないかも知れないとわかっているのに、期待は膨らむばかりである。自宅のあるアパートの二階へ駆け上がる。錆だらけの階段が崩れんばかりに力強く踏み出す。
私は鍵を開けて家に入った。
そして自分でも信じられないことを口にしたことを今でもハッキリ覚えている。
「ただいま」
帰ってこない返事に言うのをやめてしまった言葉。
自分の口から出た言葉に一瞬ドキリとして、次には後悔していた。
昨日の焼き魚の匂いがまだ残る小さなワンルーム。もちろん、返事はない。カーテンの隙間から差し込む西日に照らされて、薄暗い室内を舞うほこりがきらめいていた。
現実が目の前に突然現れたのだった。
来るかも知れないようせいさんにする期待よりも、寒々しい日常が心を埋め尽くしていく。自分が期待しすぎていると気がつくと、冷や水をかぶったように覚めた気持ちになる。
私はため息を飲み込んだ。
こんなことで何を悲嘆に暮れているのか。日常の風景だ。
私は内側から鍵をかけ、一人きりになって初めて喉の渇きに気がついた。
はいていた靴下を洗濯機に放り込み、ランドセルをおろして壁際に置く。
麦茶を飲もうかな。
そう思って、後ろを振り向くと部屋の中にようせいさんがいた。
今日はネクタイの色が違う。
「やあ、たかあきくん。今日も君の話を聞かせてくれるかな」
急に血圧が高くなり、体はしびれるように震えた。
「ようせいさん、昨日のしりとり終わってないよ」
私はとてもうれしかった。
迎えてくれる人のいる嬉しさ、話しかけてくれる人のいる心強さ。
それらがじんわりと心にしみていった。
「まあ、おちついて、おちついて。大丈夫。たかあきくんは昨日”サメ”で終わっていたね。でも、まずは君の話を聞かせてもらうのが先」
「うん。いいよ」
私の話など聞いて何がたのしいのかわからなかったが、とにかく肯定した。
といれのようせいさんがどんな人となりをしているのかがわからない以上、気分を損ねたら次は会いに来てくれないかも知れない。
そんなことを気にしている。
「じゃあ、しつもんです。お父さんとお母さんは家にはいないの? おしごと?」
「お母さんは仕事。お父さんはいない」
父がいないと言うことに対して抵抗はなかった。
いたらいいと思ったこと当時の私にはない。
それがどういうことなのか、どういうものなのかわかっていなかったからなのだろう。しかし、母の仕事のことを言うのはなんだか気が引けた。
それは本当なら一緒にいてほしいという反感からか、”夜の仕事に出て行く”というクラスメイトの言葉を借りるなら「普通でない」ことに対する恥ずかしさなのか。
ようせいさんは特に同情することもなく「うん、そっか」とひとこと言う。
「じゃあ、今日学校で会ったことを教えてよ」
「え…?」
家族のことを聞かれると思っていたので、急な話題の転換に驚いた。
家族にせよ、学校にせよ、他人に言って聞かせられるような話など私は持ち合わせていなかった。私はそれを正直に言うしかなかった。
「学校はあんまりたのしくないよ。ともだちはいない。うまく話したりできないから」
友達なんて一人もいない。
昨日張った虚勢を、今日は張らなかった。
ようせいさんに嘘を言ったってしょうがない。
「そんなふうには見えないけど、今は普通に話してるよね」
「わかんない」
ようせいさんが「そんなふうには見えない」と言ったのは、ただ会話が成立していることだけを評価したものだ。小学校低学年のコミュニケーションは、より能動的だ。私は当たり障りのない回答をしていただけなのだ。
「そうなんだ。じゃあ、最近あったたのしい話をしようか」
まるで、きびすを返すような話題の転換だ。
ひとつひとつの質問には、きっと大きな意味はない。小さな質問をたくさん投げかけて、私を推し量ろうとしている。それで何をしたいのかわからないが、子どもにかけられるべき気遣いのようなものは確かに感じた。
「僕はね、最近二人目のこどもができたんですよ」
「それは、うれしいの?」
「まあね。家族が増えて賑やかになる。もちろん今以上にたいへんになると思う。お金がたくさんかかって、お母さんも家事とか子守に追われる。こどもが小さいうちは遠くに遊びに行けなくなるし。夜中に起こされて眠いし、朝も早く起こされる。それでもうれしいんだよ」
なんだかちぐはぐのことを言っている気がして、意地悪な謎かけかとも思う。
家計のことなど気にしたこともない私は小さなショックを受けていた。
私は親が親という役割を完全に全うする自分とは違う生き物のように思っていた。だから、お金がかかっても。手間がかかっても当たり前のことだと思っている。しかしながら、声に出して改めて聞いてみるとうんざりするような内容の苦労ではないか。親という役割をもった、同じ人間なのだと気がつきドキリとする。
本当に母親は、ぼくの存在をうれしいなどと思っているのだろうか?
「それってうれしいの? 本当に?」
「もしかしたらうれしくないかもね。それは人によるかも知れない。全部の親がそんなふうには考えていないのかも。その子がいなかったら自由に遊べるのにとか、もっと贅沢できるのにとか思うのかもね」
聞いていて悲しくなるような内容であった。
確かに愛情らしいものは感じているが、これは義務によるものなのか?
だったら私はいない方がいいのではないだろうか。
母はどう思っているのだろう。
「たかあきくんのお母さんはどうかな?」
恐ろしくて声に出せなかった自問をようせいさんは投げかけてくる。
背に冷たいものが走る。息が荒くなる。
答えを出してはいけない問いのような気がした。
「わかんない。でも、ぼくは好き」
「へえ、本人に聞いてみなよ」
今思えば友人が告白をけしかけるような言い方だが、私はその提案どうしようもなく恐ろしかった。
そこで母に否定されたら、私はどうしたらいい?
必死で会話の逃げ道をさがすと、またもしなくてもいい質問をしてしまう。
「ねぇ、お父さんは何で家を出て行ったの?」
「うーん。僕にはわかりません」
二児の父であり、子育てがうれしいという彼がまぶしかった。
物理的に知らないという意味ではなく、そんな親の心理がわからないと言っているような気さえする。自分がいる状況がひどく劣悪なものに見えてくる。
考えもしなかったが、愛されないというのはこんなにもつらいことなのか。
それを本人に確かめるにはどれだけの勇気が必要なのか。
「それじゃあつぎはたかあきくんの番ね」
「え」
急に話を振られて動揺する。
そういえば楽しいことを言い合うのだった。
そういう精神状態ではなくなってしまった私は、それでも必死で思い出を探ってみた。
キョロキョロとしながら台所を見やると、ひとつ思いつく。
「朝ご飯の卵焼きがおいしかったかな。ソーセージもおいしい。豆腐の味噌汁も好き」
台所には洗っていない食器がいくつか積んである。
母はご飯を作るのは上手だが、片付けが全くできない人であった。
だから、必要性が出てくるまで片付けはできるだけ先延ばしにする性格があった。
それは、大きくはないワンルームの散らかりようを見ればわかると思う。大小様々なゴミがあちこちに落ちており、袋詰めされたカンやペットボトルの巨大なビニル袋が玄関の近くに二段積身になっている。テレビ台や小さな棚の上には漏れなくほこりが積もっている。
「そうなんだね。てづくりのごはんはおいしいね。夜ご飯は冷蔵庫に入っているの?」
「うん、今日は魚だって」
「僕もおなかがすいてきたな…今日は残業せずに帰ろう」
「残業?」
今思えば滑稽な話だ。
ようせいさんが残業などと言うのはアンマッチだ。
残業の意味のわからない当時の私は”よりみち”程度の意味だと思うことにした。
「アア、こっちの話。今日のお話はこれくらいにしよう。また来るときのために、面白い話を探しておいてね。それじゃあ、しりとりをしようか」
さらりと無茶ぶりをした後に、急にしりとりを始めようとする。
戸惑いはしたが、すぐに流されそうになる。
しかし、聞きたいことがあったのでぐっと踏みとどまり質問をした。
「ようせいさんは次いつきてくれるの?」
うーんと唸ったあと、答えた。
「実は自分でもどういうタイミングかわかってないんだけどね。…そうだな、この部屋がきれいになったら、すぐに来たくなるかも知れない。ちょっと散らかっているし、台所も食器が起きっぱなしだからね。トイレの妖精さんはきれい好きなんだよ」
「うん、わかった」
今よりかはずいぶん純真な私はその言いつけを信じた。
しりとりがまたもや途中で終わり、といれのようせいさんが例のごとく消えてしまってから、意を決して動き出す。
私はひとまず部屋のゴミ掃除と掃除機がけをすることにした。
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