第一幕: 陽炎 - その1/3
屋上なんて危ないところが、こんな簡単にたどり着けてしまっていいのだろうか。
死を決意し、意気揚々と階段を上ると、屋上につながる扉の前で立ち止まる。
南京錠みたいな特別な鍵はかかっていない。
ノブの内側についている簡単な鍵をひねると、あっけなくドアは開いた。
それもそのはず、天気のいい日は女性社員がここでご飯を食べたり、談笑したりしている。
誰でも入れるのだ。
屋上は昼前から暑かった。
白っぽい床からの照り返しと、最近入り始めたエアコンの排気で不快感がすさまじい。まだ6月の上旬なのにこんなに暑いのだから、8月などはどうなってしまうのだろう。
首筋から胸のあたりまでをしっとりと汗で濡らし、そんなことを思う。
まぁ、ボクには関係ないことだけど。
辺りを見回して誰もいないことを確認すると、高いフェンスを登り始めた。
さすがに簡単には死なせてくれない。
でも、大人の体力があれば簡単に乗り越えられてしまう間仕切り。それは、社会にはびこる形式ばかりのコンプライアンスの壁のようで皮肉っぽく感じる。
屋上の下が20Fだから21Fの高さから下を見下ろす。
フェンスの内と外では温度差があるのではないかと思うほどに世界が違って見えた。内側は「生」だとか「温」とか「つらい」とか「うれしい」とか「かなしい」とか、営みがある。外側は「無限の静止」というのか「ポッキリと折れた線路」というのかつまり終わりがあった。ボクはその境界線の上で、バランスをとっていた。
フェンスに腰掛け一息ついた後、ボクはフェンスから手を離しゆっくりと重心を外側へ傾ける。
「あの、ちょっとお話いいですか?」
ふと、後ろの方から声が聞こえてふり向くと、先ほどまで誰もいなかった屋上に男が座っていた。
その男は、どこから持ち込んだのか便器に座り、ズボンを下げた状態でこちらを見ていた。Yシャツにスラックス、茶色のベルト。髪は短めにしていて清潔感がある。三十代後半から四十台前半に見える男性であった。
「あの…なんですか?」
ボクは思わず疑問を投げかける。それは本心だったし、簡単な質問以上の言葉が見つからなかった。ボクがフェンス登りに夢中になっている間に、便器を持ち込んでパンツを下げた後、座ってこちらを眺めていたということだろうか。
しかしながら、便器も軽くはない。あんなものをボクに気付かれずに運び込むことができるのだろうか。
ただでさえ見通しの良い屋上に隠していたというのは現実的ではない。だったら、ワープしてきたとでも言うのだろうか。途方もない自問の中に答えはなく、ただ、便器に座る男の答えを待った。
「えっ、驚かれないんですか?」
「いやぁ、驚いていますが…なんというか、それは便器ですか?」
「はい」
「なんで、そんなところで便座に座っているんですか?」
「いや、もよおしまして」
「…ずっとそこにいらしたんですか?便座があるなんて気がつきませんでした」
便座に座る男は苦笑いをした後、頭をポリッと掻く。
「なんて説明したらいいんだろう…。うまくいえないんですが、気がついたらここにいたんです」
何を言っているんだ?
死を目の前にして幻覚でも見えているのか? それとも死神の類いか?
ボクは多少混乱しつつも、その男と少しの間話をすることにした。どうせ困ることなど何もない。後数分後には未来がポッキリ終わるのだ。
「自殺されようとしているんですか?」
男はボクめがけてストレートに質問してきた。ここで洗いざらい喋ってしまうのは自分の恥部を晒すようで恥ずかしさがある。多少たじろいだあと、ボクは正直に答えることにした。死のうと思えばいつでも死ねるのだ。便座に座る男にフェンス越しのボクを止めることはできない。いつでも終わらせることのできるこの瞬間を贅沢に過ごしてみることにした。
「はい。考えたすえ、死のうかと思いまして」
言ってしまった。
自分で言っていて、やはりすこし恥ずかしい。止めに来るだろうか。説得されるだろうか。めんどくさくなったら、飛び降りてしまおう。そんな思いが頭を駆け巡る。
「ふぅん。そうなんですね」
女性社員が上司の話に興味なさげに応答するような最低限の礼儀を含んだあいづち。意に反して止めも諭されもしなかった。この人の目的は何なのだろう。
苛立ちと同時に興味がわく。
ボクが便座に座る男に目的を尋ねようとしたとき、男は口を開いた。
「よかったら、どうして死にたいのか教えていただけますか?」
この人はどうやらボクが死のうとしている理由を知りたいらしい。
でも、なぜ?
理由を突き詰める思考が、先日やらされた「なぜなぜ」を思い出させた。
「なぜ?」を問題に対して何度か返す(ボクの時は七回だった)ことで問題の真意が明らかになるということなのだが、ボクはどうしてもこれが好きになれない。
ボクのミスに対して「なぜなぜ」がおこなわれたから印象が最悪であるというのも一つあるのだが、一方的に理由を訪ね続けられるというのは不快ではないだろうか。
まるで、頭の悪いガキが面白がっておちょくっているようで腹立たしい。七回も聞かれたらノイローゼになってしまう。
「なぜなぜ」にはきっとボクには理解できない深遠な意味があるのだとおもう。
しかし、ボクはそれを一生理解することはないし、この瞬間もそんな「面倒なコト」を投げ出したい気持ちでいっぱいだ。
勝手にさせてくれよ。そんな気分だ。
男の興味など知ったことでは無いが、ボクは「理由(なぜ)」を話してやることにした。
その代わりに、もう一度彼が「なぜ?」「どうして?」といったら、ここから飛び降りてしまおうと思った。死ぬ前にそのくらいのわがままがあってもいいはずだ。
「いいですよ。そんなに面白い話じゃないんですけどね」
ボクは照れて謙遜するようにはにかんだ。
ボクを邪魔するものは何もない。壁か大空に話しかけるような気持ちでいる。ここで何をしようと、これからのボクには何の関係もないのだ。話し始めようと考えると、一転して清々(すがすが)しい気分になる。
「あのっ」
ボクが語り始めようとすると、いきなり男が割り込んできた。気分が乗ってきていたので、なんとなく興が冷める思いだったが、ボクは驚いた顔を作るだけで静かに答える。
「はい。なんでしょうか」
「できれば、十分くらいでお願いします。ボクがここにいられるのはどうやらそれくらいらしくて…。今日はなんだか暑いからもう少し早いかも…」
雪の妖精か何かのようなことを言う。まあいい。ダラダラ話をするよりはリミットがある方がいい。
「ハハ、消えたりするんですか?」
「うーん。たぶん。信じていただけないかもしれませんが、僕はここにワープのような形で現れるみたいなんです」
「ワープですか? ではさっきまではここにいなかった?」
「どことはいえないのですが、トイレの個室にいました」
「じゃあ、その…、人間なんですか?」
「…最近よくわからなくなってきました」
「へぇ、てっきりボクは死神かなんかなのかと」
「死神…ではないと思います。だって、便座に乗った死神なんて想像できますか?僕は嫌ですね。鎌で魂を刈られるのではなく、トイレに流されそうで」
「ハハ。ちがいありません」
社会人相応の丁寧さで初対面の人間と会話する。内心では何かを勘ぐりながら心の表面だけを動かしてお話をするドライなコミュニケーション。
そうかとも思えば、不思議と目の前の男は腹を割って話をしているようにも見えた。
下半身をさらけ出しているからか、ボクと同じように「どうにでもなれ」という気持ちなのかもしれない。 男の話を信じるなら、彼もどうやら「どうしようもない」状況らしい。自分の意思でそこにいるのではないようだった。
彼が便座に座ってそこにいるのにも、それなりの理由があるのかもしれない。
「あのっ…。たいへん恐縮なのですが。そろそろ理由をお聞かせいただけますか?」
男は便座の上で申し訳なさそうにしている。男の素性が気になるところだが、相手も時間がないみたいだから話してやることにした。
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