白い神

狸汁ぺろり

天井板の賛歌

 ちょろりと覗く。私は主。

 住み慣れた天井裏を、今日も気ままに散歩している。

 ああ今夜は特に良い心持だ。きっと綺麗な月が出ているのだろう。けれど、私は外に出て月の明かりを浴びるより、こうして真っ暗な天井裏をさまよっている方が気分がいい。ここでなければ、見下ろす快感は味わえぬ。

 節穴の下。覗けば真っ暗。

 私の優れた鼻とヒゲは、暗闇の中で人の目よりも物を見る。じっと精神を研ぎ澄ませば見える、見える。八畳間に蠢く人の背が。

 節穴のちょうど真下で、この家の主を気取る武井という名の脂ぎった男が、衝立のような背中と、肥大した尻を露わにして、若い女を組み敷いている。ハァハァと荒い息を切らし、今まさに喃々の最中であった。尾のない尻がぶるん、ぶるんと震えて、汗の臭いがここまで立ち上ってくる。その匂いを嗅ぐと私は嬉しくなって、くしゃみが出そうだ。

 私は月を眺めるより、こうした人間の営みを見ている方が好きだ。人間は私のような存在が覗いていることなど知らず、昼間人前には晒せぬ醜態を、存分に見せつけてくれる。神のみぞ知る特権である。

 殊に、女はより激しい。一度大胆になると加減を知らない。私はあのぱっくり開いた腔から滴る匂いを嗅ぐと、ちょいと下界へ降りてみて、体ごとその穴に潜り込み、奥の奥まで探検して、なんなら二、三日住み着いてしまいたい欲求が湧いてくる。

「今日は、いつもより凄いですね」

 何度目かの高潮が過ぎた後、女が甘ったるい声をあげた。まだ心臓の興奮が冷めやらず仰向けの乳房がゆらゆら揺れている。

「月のせいだよ。うん、今宵はいい月だ」

 男の方はあれだけ激しい格闘の後ながら悠々たる態度で、充足した雄の威厳を見せつけながら、なおも女の首筋に唇をくっつけている。なんという猛者であろう。

「うふっ、くすぐったいです、社長。月なんて、ここからじゃ見えないですよ」

「見えなくったって月は香るのさ。それとも障子を開けてみるかい。月光が差して一段と風情が高まるだろうぜ」

「もう、イヤですよそんなの……。人に見られたら困ります」

 いいぞ。きっとそいつはいい見物になるだろう。私は二人を鞭撻するように、尻尾をぴしりと板に叩きつけた。さあ早く立ち上がれ。障子を開けて、月の明かりで一層狂うがいい。人が獣の本性を取り戻すその瞬間を、さあ早く見せてくれ。

 と、興奮しきっていた私の神経は、ふいにピンと鋭く張り詰めた。全身の毛先がさわさわと逆立ち、土の底をほじくり返したような臭いがする。この感覚は知っていた。

 ――ああ、そういえばアレは今日だった。わかっていたことだが、なにもこんな時でなくても良かろうに。

 ともあれ私は節穴から顔を離し、板の上に爪を立てると、衝撃に備えてじっと屈みこんだ。

 下では何も気づいていない。男のしつこい欲求に、女の方も好奇に負けたらしく、「じゃあ、ちょっとだけですよ」と障子を開けることを承諾し、抱き合っていた腕を放した。その瞬間だった。

 ぐらぐらと地面が揺れた。家も揺れた。私は板にしがみついていて何ともなかったが、立ち上がりかけた男は不様にコケた。

「おっ、地震だ!」

「あれえっ」

 女は女で、訳も分からず男の背中にしがみついている。頭に何か被って大人しくしていろと、どこかで習わなかったのだろうか? 箪笥の置物が落っこちそうだ。使いもしないメトロノームなど置いておくからだ。

 揺れは一度ではなかった。震源はきっと遠いのだろうが、相当大きな地震のようだ。さっきまでの男と女のように、激しく揺れてはぴたりと止まるというのを、何度も繰り返している。

「また揺れた!」

「やだ、やだ、あなた助けて……」

 まったく人間とはなんと鈍い生き物なのだろう。奴らは地面が揺れてからでないと、地震に気が付かないのだ。天井裏の私が事前に察して備えていられるというのに、より地に近いところで寝そべっている連中は、地面がぐらりとしてから慌てるのだ。

 それに、私の事もわかっていない。

 この家に被害はない。私がいるからだ。

 天井板一枚隔てたところに、こうして私がしがみついているのだから、この家は安全だと決まっているのだ。それを知っていれば安心できただろうに、この家で生まれ育ったあの男でさえ、何もわかっちゃいない。

 私の見立て通り、揺れは間もなく収まった。今後もしばらく小さな揺れが続くだろうが、もう先ほどのように大きくはならない。私はそれを知り尽くしているから余裕をこいてヒゲの繕いなどしていられるが、下の連中はそれをわかっているかどうか。

「ああ、怖かった。ずいぶん大きな地震でしたね」

「うん、震源に近い所は大した被害だろう。しばらくニュースはそればっかりになるかもな」

 二人とも存外ケロリとしている。物を知らぬは知らぬなりに、それはそれで楽天的なのかもしれぬ。たったいま大した被害だと自分で言ったその場所で、多くの人間が悲惨な目にあっている事など、まるで関心もないような顔色だ。互いに抱き合ったのをこれ幸いと、そのまま一つの布団に潜り込んでしまったのは、呑気と言おうか愚鈍と言おうか。

「ねえ社長。やっぱりこの家、危なくないですか?」

 布団の内で女がもごもごと、聞き捨てならぬ台詞を吐いた。

「馬鹿を言っちゃいけない。この家は私の曾おじいさんの代、確か大正の頃に建てられて以来、戦争も災害も生き抜いた立派な家なんだぞ」

「えっ、そんなに古いんですか。じゃあやっぱり、新しい家の方が安心ですよ。セキュリティもしっかりしてますし……。この家、なんだか見えない隙間がいっぱいあるみたいで、妙に怖いんです」

「ふむ……。私はこの家に愛着があるが、君がそう言うのなら……。まあ、部分的なリフォームあたりから考えてみても構わないが……」

「お願いします。社長、私やっぱり、お嫁に行くならしっかりした家の方が……」

 ああ、これ以上ひどい会話は聞いていられない。女の声は硬く、打算的で、当分はさっきまでのような面白い景色は見られなさそうだ。私は節穴から離れ、板の上を音もなく走った。つまらない場所には一時でも留まる価値がない。

 この家の居間には猫がいる。私はそこに降り立った。

「猫、猫、どこにいる……」

 柔らかいカーペットの上に降りた私は、こたつの中で眠っている太い猫を見つけた。猫は先ほどの地震をものともせず、グースカ眠りこけていた。なんと、ここに人間よりも鈍い奴がいたものだ。いや、ひょっとすると私と同じように、今の揺れが自分には大した問題でないことを察していたのかもしれない。

 どうかそうあって欲しい。この猫に、まだ真っ当な感覚が残っていることを信じたい。私はそう願いながら、猫の鼻先を軽く舐めてみた。

 ニャ。

 猫はいとも面倒くさそうな鳴き声をあげて、重い目蓋を開いた。猫の目は確かに私を見た。

「猫、猫、私だぞ。ほうれ、追いかけっこでもしてみないか」

 私は期待を込めて尻尾をちょろちょろ、ヒゲをひくひくさせて、わざと猫の鼻先をうろついた。きっと今にも奴の瞳が野生に輝き、鋭い前足を繰り出してくるだろう。その刹那を見切ってするりと逃げてやる。さあ来い。さあ来い。

 ニャーヤア。

 やーだよ。と言っているように聞こえた。猫はあくびをして、またトロトロと惰眠に浸り始めた。

 これは由々しき事態だ。私は愕然とした。猫が私を見逃すなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬはずだ。たとえどれだけ眠かろうと、腹がいっぱいであろうと、私のようなものが目の前をちょろちょろ動き回ったら、足を出さずにはいられないのが猫の本能であるというのに。

「どうした、どうした? いくら眠くったって、本能には逆らえないだろう。ほら、ほら! 私の匂いを感じているだろう。かわいい尻尾が掴めそうだぞ。さあ、おいこら猫、猫!」

 私は猫の気を引くため、あらゆる仕草を試みた。立ち上がって威嚇した。宙返りをやった。最近覚えたムーンウォークも披露した。しかしどれだけ誘っても、猫の眠りを妨げるには至らなかった。

 私は次第に腹が立ってきた。私の芸が足りぬのではない。この猫が、どうしようもない唐変木なのだ。猫としての本分を忘れた、猫でなしなのだ。

 昔っから猫と言えば、私の仲間を追いかけるのが生きがいで、人間にもその役目として飼われているのが当たり前だったものだ。それなのにこいつはどうだ。人間の手から餌をもらい、ブクブク肥え太って、危険も飢えもわかりゃしない。こんなものはもう猫ではない。あの女はこの猫をミリオと呼んでいるが、まさしくミリオだ。そういう名前の、新しい生き物だ。人間に飼われることだけが取り柄の……。

 おお、その人間も、もう随分堕ちている。

 私はこたつを出ると、私だけが知る秘密の通路を使って、またさっきの節穴の上に戻ってきた。いつの間にか下界には細く月光が差しこんで、その青白い煌めきの中に、飽くことなく求め合う二つの塊があった。けれどその姿は、もう地震の前ほど、私の心を喜ばせなかった。むしろ涙が出た。

「この家も、もうお終いかもしれん」

 そういう時代が来たのだと、私の直感が告げていた。それはこの家の守り神として、非常に辛いものだった。けれど現実は受け入れねばならない。あの男はまだ、性の戯れに月光を借りるなど、いたって真っ当な神経を持っているが、無知な女の機嫌を買うために、間もなく愚かな決断を下すことだろう。その未来が見えている。

 泣けてくる。私は嗚咽をする。チュウ。

「なに? ネズミ?」

「ああ、天井裏にいるみたいだ」

「嫌、嫌! そんな不衛生な家、私無理ですってば」

「そう言わないでくれ。さあ、いい子だから。君の望みは叶えてあげるから、今はただ、そう、そう……」

 そんな会話を尻で聞き流しながら、私は天井裏から外に出た。家の外にだ。

 空には月があった。やあ、やっぱりいい月だ。地震のある日は変わった雲が出ることもあるが、ここの空には立派な月が掛かっている。

 見ないと思っていた月がこんなにも美しく見えるとは、これも一つの廻り合わせであるかもしれぬ。

 そうだ。あの天は言っているのだ。もうあの家に見切りをつけろと。そのために夜道を照らしてくれているのだ。

 私は駆けた。次に宿るべき家を求めて。

 しかしそんな家が、この時世にまだあるだろうか。私のような同居者を貴び、受け入れる神経を持った人間が、この月の下にいったいどれだけ残っているのだろうか?

 どうか残っていて欲しい。人間はまだ、皆が衰えたわけではない。そんな祈りを胸に抱いて、私は月光の道を突っ走った。車には気を付けて。


 ――昔の船乗りは、船でネズミを見つけるとたいそう喜んだ。ネズミには危険を予知する優れた感覚があり、もうじき沈むと察した船には決して乗らないためだ。船乗りはネズミを見つけると航海の安全を確信し、そればかりか、仕事の成功や家で待つ妻子の平穏に至るまで、なんとなく全てが上手くいきそうな安心を覚えるのだった。そのためならば、多少の食糧を齧られることなど、かえって歓ぶべき供物としていた。かつての人間は、人間以上に優れた存在が身近にいることを、ちゃんと知っていた。それこそが人間の本当の賢さであった。

 家も同じことではないか。隙間のない、ネズミの住めぬ家。それはネズミの方から見限られた、加護無き家であるのかもしれぬ。

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白い神 狸汁ぺろり @tanukijiru

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