3-4.ここは、不似合い
人混みにもつれながらも、グリュテは娼婦と男娼の飾り彫りがまぶしい灯籠を見つけ、豪奢な押戸に向かって倒れこんだ。
扉が大きな音を立てて開き、中にいた客人や店のものが小さな悲鳴を上げた。真っ赤な綴織りがひかれた大理石の床に、荒い息をしながら滑りこんで息を整えることもせず、叫んだ。
「シプリーンさん、助けて下さい!」
明るい獣脂の角灯が並ぶ広間に、グリュテの声がこだまする。客人たちの何人かがいぶかしげな様子でこちらを見ているが、セルフィオのいったシプという女性に会うのが先決だ。
視線を無視し、何度も同じことを繰り返す。案内人と思しき男性が、警戒するようにグリュテの腕をつかんだそのときだ。
「おやおや、なにごとさね。あたしになにか用かい、お嬢ちゃん」
螺旋になって作られた白い階段の上、真紅の短髪を持った女性がいた。豊満な体を薄い衣で包んだ女性は、同じく緋色のつり上がった瞳を輝かせながら、なにやら楽しげな様子でグリュテを見下ろしている。
案内人の男たちが、険しい顔のままグリュテから離れた。
「シ、シプリーンさんですか」
「そう、あたしがシプリーン。どうしたんだい、親にでも売られそうになっているのかい」
「ち、違います。あの、わたしとセルフィオさんを助けて下さい」
「フィオ? あいつ、ここに来てたのかね」
「うるさいんだけど、なに?」
疑問の声を上げるシプとやらの横に、見知った顔が現れた。青紫の髪を持つ、船上で出会った少女。
確か名前は、ノーラ。扉から出てきた彼女はグリュテを見つめ、ほんの少し考えたあと、小さくあ、と声を上げた。
「船で会った遺志残しじゃないの。あの騎士様はどうしたの?」
「お、追っ手に」
そこまでいった瞬間、近くにあった硝子窓が破られ、また客の悲鳴が上がる。飛びこんできたのは灰色の服に身をまとった見知らぬ男だった。
その手には短刀があり、グリュテの方に明確な殺気を向けてきている。黄緑の目はねばっこく、殺意の二文字しかない。
「グナイオス! 出番だよ!」
尻餅をつきながら後ずさりして逃れようとするグリュテの耳に、険しいシプリーンの声が響いた。
そのとき、茶色の安楽椅子が持ち上げられ、男の方に投げられた。男は俊敏な動作でそれをかわすと、近くにあった椅子の影に隠れる。
投げたのは、これまた船上で会ったグナイオスという名の傭兵だった。酔っているのか、濃い黄色の目は据わっていて焦点が合っていないが、足取りはたくましい。
「殺しはするんじゃないよ、グナイオス。うちの店を汚されたんじゃあかなわない」
「わかっておるわ、シプ。おいノーラ、お前も混ざらんか?」
「遠慮しておく。一人でどうにかできるでしょう」
客たちが逃げこむようにそれぞれの部屋に入り、広間には刺客と思しく男、それに相対するグナイオスとグリュテ、そして階段の上から動かない女性二人が残った。
男がグリュテの方に向かって走る。だが、酔っているとは到底思えぬ動きでグナイオスが動く。グリュテとの間に割って入った瞬間に男の懐に潜りこみ、下から拳を突き上げる。
骨の折れる音が間近で響く。腰を折り、前のめりになったのは男の方だった。グナイオスが平手で男の頬を叩くと張り裂けるような音がして、男が安楽椅子側へと吹っ飛んだ。
凄い筋肉、とグリュテは呆然と、自分をかばうように立つグナイオスの背中を見た。男はふらつきながらも立ち上がり、短刀を持ってこちらに来るかと思いきや、形勢が不利だと悟ったのだろう、地の術を発動させて割った窓から飛び去っていった。
「ふん、軟弱ものめ」
グナイオスは後を追うことをしなかった。窓の外を睥睨し、それからグリュテの方へ向き直る。豪胆極まりない笑みを向けられ、グリュテは差し伸べられた手を握った。
「誰かと思えば、船のお嬢さんか。今度は我が助けた番だな」
「あ、ありがとうございます」
思ったよりかは優しい勢いで立ち上がらされ、グリュテはそれから、割れた窓の外を見る。男はまっすぐ、人混みの通路の方に向かって逃げていったのだろう。なにごとかとこちらを見たり、背後を振り返るものたちが目立った。
その中に、頭一つ分高く、見慣れた兜があることに気づいて、グリュテは声を上げた。
「セルフィオさん!」
セルフィオも背後を確認し、刺客が去ったことを確認したのだろう。グリュテの声にうなずきながら店の中に入ってくる。
「騒がせてしまったようだね。すまない、シプ」
「まったく、せっかくの硝子が台無しだよ。どう落とし前つける気だい、フィオ」
手すりにしなだれかかるようにして、それでも快活な笑顔を浮かべるシプリーンとセルフィオを見比べる。
この二人は、一体どんな関係なのだろう。そう考えると、なぜか空気がなくなったかのように胸が苦しくなった。
「我のことは呼び捨てなのに、なんだ、そこの男とは親しげだな、シプ」
拗ねたようにグナイオスがいうものだから、余計気がそっちに気が散る。しかしセルフィオはそれには答えず、グナイオスに軽く頭を下げ、手を胸に当ててみせた。
「この度も助けていただいたようで、大変助かりました。『
「ふむ。我の二つ名を知っていたか、騎士どの」
「船で名前を聞いたとき、もしやとは思いましたが。やはりそうでしたか」
「ねえ、話が盛り上がってるところ悪いんだけど」
グリュテを置いて話を続けようとするセルフィオを、うんざりとした声が止めた。シプリーンの横で、退屈そうにあくびを噛みしめているノーラのものだった。
「客が見てるから余計な話、そこでしない方がいいんじゃない?」
いわれてグリュテは周りを見た。部屋から顔を出した客や案内人たちが、興味深げにこちらを見つめている。
遺志残し? 遺志残しだ、そんなささやきも聞こえてくる。外套からはみ出た衣は確かにそれを如実に語っていて、不快そうなぶしつけな視線に、グリュテは追わず身を縮めた。
「あんたたち、見せもんじゃあないよ!」
空気を叩くかようなシプリーンの叱咤に、従業員たちは慌てて客を部屋に引きずりこむ。
「シプ、悪いが部屋を一室、用意してくれるかい」
「ここは宿じゃあないんだけど、まあいいさね。二階にお上がりよ」
シプリーンがこちらを見るけれど、その視線に悪意は感じない。むしろ好奇の方が強い。
未だ残っている客たちのざわめきをあとに、グリュテはセルフィオの後ろに続いて階段を上がった。シプリーンが動き、止まったままのノーラとすれ違う。
「白持ちの遺志残しか。珍しすぎるわね」
ノーラの視線は相変わらず冷たいけれど、やはりその声にも視線にも他意はなく、ただ思ったことを口にしただけのようだった。でも、どこか値踏みされている感じがして、グリュテはなんとなく居心地が悪い。
シプリーンことシプが案内してくれたのは、大きく豪華な一室だった。大人六人分、いや、それ以上ある明るい部屋だ。
高級そうな綴織りにいくつもの灯籠、硝子のほやで覆われた香炉や羽布団は薄赤と白で統一されていて、部屋の中には樹脂の香りが充満している。
「ここで少しお待ちよ。飲み物、持ってきてあげるからさ」
いって、シプは切りこみが入った布地から見える細い足についた鈴を鳴らし、部屋から出ていった。
同じ鈴でも、グリュテがつけている左手の鈴輪とは音の質が違う。どこか高貴でしゃれた銀の鈴。その音がグリュテには、なぜか耳障りなものに聞こえた。
セルフィオは疲れたようにため息をつき、羽布団に寄りかかる。
緊張が一気にほどけたのだろうか、足が投げ出され、今まで見たことのないセルフィオの砕けた姿にグリュテは驚いた。驚いて、でも気分が落ちこんでいく。
「セルフィオさん、大丈夫ですか?」
「うん。一撃は食らったけれど。刺客も例の奴じゃあなかったみたいだしね」
「例の?」
「ほら、森で逃げた」
ああ、とグリュテは思い出す。セルフィオに向け、愚か者と強い憎悪の念を向けていた男のことだろう。
「あの、お知り合いですか?」
「一番手練れだったのはあの男だから。来なかったのは運がよかった」
そうですね、と小さくつぶやいて、グリュテはちょっと迷ってから、セルフィオの前にあった枕代わりの羽根座布団に腰かける。絹でできていて、とても手触りがいい。
それにしても、と辺りを見回す余裕が出てきて、グリュテはそこいら中にある暖炉や精緻な模様が綴られた円柱などを見、ため息をついた。まさか娼館に入る日が来るなんて。
ここは、上等すぎる娼館の一つだ。不慣れなグリュテでもわかった。一瞬見た様子だとかなり客の入りもよく、働いている娼人たちの顔つやもよかったように思う。
「働くなら、こういうところの方がいいのかな」
「働く? 誰がだい?」
「い、いえ、なんでもないです」
グリュテは顔を赤らめ、急いで首を横に振った。実は野垂れ死にか娼館入りを考えていました、などと口が裂けてもいえそうにない。娼館で働くというなら、いくら高級なところでもやはり、ある程度のそういった経験をしなければならないのだから。
それを考えると恥ずかしい。ゆったりと背を布団に預けているセルフィオを、うかがうようにして見ながら思う。慣れている感じがした。
こういう場所には傭兵でも騎士でも、他の職でも男性、女性関係なく来るものは好きなだけおとずれる。彼もその一人なのだろうか。考えると、やはり胸の奥が少し疼いた。それをごまかすため、口を開く。
「あの、セルフィオさん。さっきの傭兵さんとお知り合いなんですか?」
土埃にまみれた手荷物を、汚さないよう綴織りと石の床の間に置いてグリュテは問う。セルフィオは抜いた剣をつぶさに確認しながら、うなずいた。
「『
セルフィオの声は珍しく熱を帯びており、どこか安堵した様子もある。
本当は、と不思議と高鳴る胸を押さえ、グリュテは考える。シプリーンという女性との関係を聞きたいのだけれど、勇気がどうしても出てきそうにない。
扉が叩かれ、案内人の男性が飲み物を運んできてくれた。暖かい蜂蜜酒だ。でも、その甘みにグリュテの心は落ち着かない。
セルフィオは慣れたように案内人の男性に礼をいい、なにやら話をしている。
場違いだ、グリュテはそう思って外套をまき直す。こんな絢爛な場所に、自分がいるというのがどうしようもなく不似合いな気がして。
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