3-3.かすかな胸の痛みに
一悶着の末、それでも船は無事、夜にカラーナへ到着した。生きていた船長から礼をいわれて部屋代を返してもらったり、グナイオスと名乗った傭兵から別れの言葉を告げられたりして、グリュテとセルフィオは早速、遺志残しの出張所へと向かった。
出張所は、ごくひっそりと目立たぬ、組合通りの一番奥まった角にあった。看板も小さく、やはりここでも、あまり寄りつくものはいないらしい。人気がほとんどなかった。
中に入り、グリュテは帯の隠しに入れた、身分を証明するための板金を案内人へ見せる。事情のほとんどはセルフィオが説明してくれた。それも、ほとんどが嘘だったけれど。
嘘をつくことに慣れているのかもしれない、そんなふうにグリュテが思う口振りで、案内人がいなくなったとき、ちょっぴりいたずらっ子のようにセルフィオは笑う。
中へ案内されたのは、グリュテ一人だった。こういうときまで閉鎖的でなくていいのに、そうグリュテは思うのだけれど、体制なのだから仕方ないのかもしれないとあきらめた。
通された一室に、やはり象徴媒体である
「お前か、グリュテ」
「キリルさん、お久しぶりです。お師匠様は?」
「今、仕事で出ている。久しぶりといってもまだ少しくらいしか経っていない。よっぽど大事な用件なんだろうな」
変わらずの物言いに、グリュテは苦笑する。この人は変わらない。いや、変わったのはきっと自分で、しかも悪い方に転がっている気がした。
もう一度急かされて、グリュテは慌てて事情を説明する。
自分の体のこと、夢のこと、それから
「ある男の日記では」
沈黙を破ったのは、厳粛なキリルの苦み走った声だった。
「お前と同じ症状を患ったと思しき記述がある。重度の
「はあ」
「食事をとれなくなる、というのも同じだ。その男とだけを比べればな。それにしても、お前の進行は早いな」
「なにか、死んだ人と共通してるものがあるんでしょうか?」
「それと関係しているのかはわからないが。その男は遺志残しにして珍しく、妻がいた。妻の声で死ぬよう、急かされたらしい」
「あ、わたしも声が聞こえるんです」
「自分の声か?」
「いえ、騎士さんの。セルフィオさんの声が」
キリルが息を呑んだ音が聞こえた。それからため息。とても盛大な、重苦しいため息が長く続く。
「自覚はあるのか?」
「なんのですか?」
「……わからないならそれが今、一番いい。わかれば逆に……」
兄弟子にしては珍しく、歯切れの悪い物言いだ。グリュテは首を傾げ、返答を待った。
「ともかく、急いでアーレ島に向かえ。
「でも、一回だけでしたよ? 襲われたの。なにかしてくれたんですか?」
「国の方が相手を惑わせるために動いてくれた。数人兵士側に死者が出ている。そろそろもう一度、お前たちのところに来てもおかしくはないだろう」
「そうだったんですね。でも、セルフィオさんがいるからきっと大丈夫ですよ」
「夢の方だが」
キリルは無理やり、急に舵を切るかのように話題を変えた。
「白の
「そうなんですか? じゃあ、やっぱりなにかあるのかな」
「……エコーという名に聞き覚えはあるか、グリュテ」
「エコーさん、ですか?」
エコー、と何度も繰り返しつぶやき、でも知り合いに当てはまる人物はいない。
知りません、と答えるとどことなく安心したような声で、そうか、とだけ告げられる。聞かれた意味がわからなくて、
「その人がなにか?」
「いや、いい。ともかく、お前の任務を忘れるな。アーレ島に急げ」
「わかりました。なるべく早く島に行きます」
そっけなく頼んだ、という声がして、それから声は途切れた。同時に赤い光がなくなる。
頼まれました、とつぶやいて部屋から出、案内人の女性に礼をいっておく。入り口近くにいたセルフィオと合流し、出張所をあとにした。
夜空は灰色に近い雲が多く、月は見えない。雲は遠く、海の方にまで広がっている。波は大分高く、白い飛沫を上げて、眼下に広がる小さな船を揺らしていた。
「どうだった? なにかわかったかい?」
「やっぱりその、病みたいだったです」
人気はあまりないが、それでも少なくはない。だから自然と小声になりながら、セルフィオと一緒に町を歩きつつ、キリルから聞いたことを詳しく話した。病の進行具合と
「そうか。やはり
「はい。追っ手の方も動き出してるみたいですし、困ります」
このまま無事にアーレ島につくまで、体が持ってくれるのかと疑問には感じる。
が、やはり焦りや不安などは一切なく、それこそ
カラーナの町は特に入り組んだ高台のような作りになっていて、下手に歩くとすぐに行き止まりにぶつかる。町を守る強固な防護壁と設置された弩弓の群れは、物々しくグリュテの瞳に映った。
何度も二人で道に迷いながら、なんとか酒場のある区画に出る。
そこら中に吊された灯籠が、模様を夜闇に浮かび上がらせていた。ここまで来るとかなり人気が多く、酒精の臭いも漂う。それに覆われて、魚や肉の香りがしないことは、グリュテにとってありがたいことだ。
「気づいているかい、グリュテ」
「なにがですか?」
「そのまま歩きながら、落ち着いて聞いてほしい。俺たちをつけてきている奴がいる」
思わず振り返りそうになって、でもセルフィオが背中に触れてそれをとどめた。
心臓が鳴る。変な視線や妙な気配は、やはりグリュテにはわからなかった。それを察知できるセルフィオのことが凄いと、純粋に思う。
「この先、少し進むと娼館がある。シプリーンという女性が経営している、私立の娼館だ。そこだけ橙色の灯籠があるからすぐわかるだろう。そこに逃げこむんだ」
「セ、セルフィオさんは?」
「人数からして二人、やれない人数じゃあない。俺が引きつける。背を叩いたら君は地離れの術を使って、娼館まで走れ」
「娼館になんて逃げこんだら、迷惑がかかっちゃうんじゃないですかね」
「大丈夫、シプはそういうことにも慣れてる」
親しく女性の名前を呼んで笑うセルフィオに、どうしてか胸のどこかが痛んだ。
でもそれどころじゃない、そう気を取り直し、こわばった体を支えられるように角を曲がる。人混みは多いが走れないほどではない。路地裏と思しき道がある場所まで来たそのとき、セルフィオが背中を軽く叩いた。
地の
「走れ!」
グリュテはいわれるまま駆け出した。
人にぶつかりそうになる。しかし速度は通常走る倍以上のものに変わっていて、ふらつく足をこらえ、夜闇に黄色い光を灯らせながら夢中で遠く見える橙の灯籠を目指した。
走りながら振り返る。セルフィオは雑踏の中に紛れたグリュテとは、また違う方向に向かっている。それを追う誰かの影が見えた。
今ここでグリュテが残っても、なんの役にも立てないことは自分が一番わかっている。だから、いわれたとおりに走る。セルフィオを信じて。
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