園枝と理世――2
園枝もまた、家に戻っていた。だが、肝心なはずの凍也は戻ってきていない。兄のいない日向は、園枝のすぐ隣で不安げに小さく膝を抱えている。
「やっと戻ってきたね」
待たされた苛立ちをあらわにするだけ時間の無駄、とでも言いたげに、園枝は言い出した。
「凍也は? 戻ってきていないのか」
佐奈井は尋ねるが、日向は首を横に振った。
「さっき外に飛び出していって、それっきり」
こんな時だというのに。
「何か言っていなかったのか」
峰継も尋ねる。
「ちょっと用事ができたと言って、それだけ。私はここにいろって」
「園枝さんは?」
「私が戻った時にはこの子しかいなかった。入れ違いになった、ってところ」
日向が、きつく膝を抱えた。彼女の姿が小さくなる。加賀国からの不穏な噂が漂う中で、兄の不審な動きによからぬものを感じているようだ。
「とりあえず、戻ってくるのを待ちながら話をしましょうか」
言って、園枝は日向に目をやる。
「日向も、いい?」
「いいですよ。私や兄のことは構わないで」
「ごめんなさいね」
園枝は日向の頭を撫でた。日向の不安げな顔が和らぐ。何日も一緒に過ごして、日向と理世の仲は最悪なままだが、園枝とは打ち解けている。
園枝は峰継と向き直った。
「理世から話は聞いたよね。北の加賀国から一揆勢が攻め込んできたって」
「聞いた。恐らく嘘ではない」
加賀国は、長年織田信長の勢力と敵対してきた。越前が織田信長の領地のままならば、いつか加賀国も攻め落とされる。そう恐れないほうがおかしい。
一揆が発生し、越前国の領内が混乱している今、加賀国からすれば攻め込むいい機会だ。織田信長の息がかかった者たちを一掃できる。
「ここでもしものことがあったら、佐奈井たちをどうするつもり、峰継さん?」
「何とかしてみせる」
「香菜実は?」
佐奈井が口を出した。見捨ててはいけない人がいる、と牽制するように。
だが峰継は、冷たい言葉を放った。
「今彼女の元に向かうのは危険だ」
「加賀国は呼応する民衆を取り込みながら数を増している、という噂よ。きっと一乗谷に攻め入った民衆か、それ以上の勢力になるでしょうね」
園枝もまた、佐奈井に現実を突きつけた。また万単位の人が争うことになる。大量の刀や槍が交わり、矢が飛び交う中で、たった一人の少女を見つけて助けることがどれほど危険なことか。
だが……。理世は戸惑った。峰継はかつて、佐奈井にこう言ったのではないか。慶充は佐奈井たちを守るために命を落とした。その義理を果たすために、妹の香菜実を助け出すと。
――これでは、二枚舌。
「……父さんも園枝さんも、どういうこと?」
佐奈井は戸惑っているが、声に棘があった。今にも峰継に飛びかかりそうな様子だ。
「お前を死なせたくないからだ」
一気に険悪な雰囲気になった親子を目の前にして、理世は黙り込んだ。峰継の言い分は正しい。今の状況でもし香菜実を助けに向かえば、確実に戦闘に巻き込まれる。一乗谷の時のように逃げ延びられるか、わからない。
「助けに行くって、この間言ったばかりなのに?」
佐奈井は、当然の反応を示す。子が親に騙されたと知った時らしい言葉だった。
「助けられる状況ならばだ」
「……あっ」
日向が口を開いた。
「足音が聞こえる」
待ちかねたように、日向は立ち上がる。
戸が開いた。
それと佐奈井が峰継の胸倉に掴みかかったのは同時だった。
「騙していたのか?」
「こうも言ったはずだ。お前の無事が最優先だと」
「何をやっているんだ」
凍也の声が響く。佐奈井は、しかし胸倉を掴むだけだった。揺さぶったり殴ったりはしない。古傷を抱え、常に痛みと隣り合わせの峰継に対して、佐奈井ができる反抗はこれが限度。
「やめろよ、佐奈井」
駆け寄った凍也が、佐奈井と峰継の間に割って入った。佐奈井を峰継から引き離す。佐奈井は、凍也に押し倒される形になった。
「父さんが、香菜実を見捨てるって」
佐奈井が、体の上に乗る凍也に言い放つ。文句をぶつけるように。
「香菜実?」
そういえば、凍也は香菜実の話を聞いていなかった。
「一乗谷で生き別れたの。佐奈井の、友達っていったところ」
冷静な園枝が伝える。
「それがどうしたんだよ、急に」
凍也の手から力が抜けた。佐奈井が抜け出そうとして、さらに強く押さえつける。
「いるんだ。その香菜実が、富田長繁の居城に。このままだと加賀から攻め込まれて、あいつも戦いに巻き込まれる」
佐奈井が言い張る。凍也の下敷きになりながら、必死な様子な様子が理世には痛々しかった。
「もう話は聞いたんだな。お前たちも」
「凍也は、何をしていたというの。こんな時なのに」
園枝が尋ねる。
「村の者たちと話をしていただけだ。今後どうするかを」
「本当に話しただけ? 日向や私たち抜きで」
「そうだ」
「で、どうするって」
日向の問いかけに、凍也は彼女のほうを向いた。どこか戸惑っている。
「その前に、佐奈井を離してくれないか」
言ったのは、峰継だった。
「いいのか」
「いい」
佐奈井は、峰継に対して乱暴ができないから。
凍也は言われるまま、佐奈井を押さえつける腕から力を抜いた。佐奈井は凍也の体の下から抜け出る。見ている理世は身構えた。だが佐奈井は、峰継に向かって怒りに満ちた目を向けるが、しかしもう一度、掴みかかろうとはしなかった。
「で、話を戻そうか。村人たちと話していたことだ」
佐奈井を警戒しながら、凍也は続ける。
「明日の昼、村人たちは集団で村を離れることにしたそうだ。日向も、それについていってもらうぞ」
「村を離れて、どこに向かうと?」
「とりあえずは山のほうだ。落ち着くまでそこで身を伏せる」
「こんな寒い時期にか。雪も降る」
「山に入り込んだところに寺がある。何日かだったら、多少狭くてもやり過ごすことはできるだろう」
「それについていく、と言うのか?」
佐奈井が割って入る。ついていく意思はない、とはっきりと示していた。
「どこで一乗谷と同じことが起きるかわからない、と言っているでしょう。仮にどちらかの勢力が負けたとして、敗走兵が襲ってこないとも限らない」
園枝も説得を始める。
「でも行きたいんだ」
息子の言葉に、峰継はどう言うのだろう。理世は峰継を見やるが、彼は佐奈井によって乱された着物を直すだけで、反対もしなかった。
親子の間に溝ができているのを目の前にして、理世は何も言うことができなかった。
どのみちどう動いたところで、戦いに巻き込まれるのは確実だというのに。
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