園枝と理世――1

 理世の前で、佐奈井はあからさまに怒った。数日前まで負傷して寝込んでいたとは思えないほど、しっかりと地面を踏みしめている。理世よりも頭一つ分低い背丈だというのに、理世は圧倒されて声を失った。

 ただの子どもの反抗だ。それでも理世は、香菜実を放っておいて逃げろと言い伏せることができなくなった。

 自分自身ですら、どうすればいいのかわからないから。

「加賀国の勢力が押し寄せているとすれば、連中はここも通ることになる。戦にもなるかもしれない」

 峰継が、理世の懸念を言い当ててくる。そのとおりだ。富田長繁の居城は、ここより南にある。北の加賀国から押し寄せてくる勢力にとって、ここらはただの進軍路でしかない。一乗谷と似たようなことが、ここらでも起こる。

 押し寄せた者たちは家に火を放っては、略奪を繰り広げ、敵対する者を容赦なく嬲り殺すだろう。

「……峰継さんたちは、どうするつもり?」

 佐奈井に尋ねるのが怖くて、理世は視線をそらした。

 だが佐奈井は、はっきりと答えた。

「香菜実のところに行く。このままだと香菜実が危ないから」

 さぞ当然のこと、とでも思っているみたいだった。目の前で幼子が転んだら手を差し伸べるものだ、とでも言うように。

「あんたに聞いていないのに」

 理世とて、香菜実が危険に巻き込まれるのは嫌だった。献身的で人を思いやる子が、死んでほしくはない。だがそれで佐奈井の身にもしもの事態が起こるのも納得できない。迷ったままだから、しどろもどろになってしまった。

「ごめん理世、あんたの言葉だって、今は聞いていられないんだ」

 追い打ちをかけるように、佐奈井は言い放つ。こちらが止めようとするだけなのは見越しているように。

 理世は、さらに言葉を失ってしまった。

 佐奈井や峰継は、肉親でもない。香菜実も同じだ。

本来なら自分は、この子たちと無関係なはずなのに。


 理世にとって、佐奈井たちと出会ったのは半年と少し前のことだ。越前国が織田信長に攻め込まれて、一乗谷に住んでいた佐奈井たちは戦火に巻き込まれるのを避けるために逃げていた。その一行には、慶充や香菜実もいた。慶充は、賊に襲われて手傷を負っていて、香菜実が突然に傷の手当てを頼んできたのである。

 佐奈井はおとなしい、心配性な子という印象だった。農民の子らしくよく日に焼けて、手の皮は厚くてささくれている。

そこらにいるのと変わらない、口が悪い、小柄な普通の子と理世は思っていた。でも他人をよく思いやる。理世が慶充や峰継と同行して避難している間も、佐奈井は香菜実を気遣い、峰継や慶充のためによく動いていたから、好感すら抱いたのである。互いを思いやる慶充と香菜実の兄妹もしかり。

 身分差のある慶充や香菜実の兄妹と、佐奈井が妙なまでに仲良くしている点だけが、引っ掛かっていた。

 避難先で突然に現れたのが、慶充や香菜実の父篤英だった。

 桂田長俊の家臣となった篤英は、慶充や香菜実を一乗谷に連れ戻すと言い出した。

 さらにあの男は……

 ――こいつはもらっていく。

 佐奈井までも連れていった。慶充や香菜実と仲がいい佐奈井は、兄妹を連れ戻すのにちょうどいい人質とみなされたからだ。

 息子を追いかける峰継に、理世は同行する義理はないはずだった。むしろ自分の命が狙われるかもしれない。それでも、峰継だけで行かせたくないと園枝は言い、娘である理世もついていった。

 たぶん、あんな子どもが理不尽に連れ去られたことが、納得いかなかったのだろう。勝手な理由で佐奈井の生殺与奪の権を握った篤英の乱暴も。

 峰継と同行した理世と園枝は、そのまま一乗谷にたどり着く形になった。数万の人口を抱え、果ては中国からの交易品が行き交う、あの威容を誇った一乗谷だが、理世が見たのは廃墟だった。織田信長の軍隊が越前国に侵攻し、朝倉義景の身柄を追いかけている間に建物の一棟も残さず焼き払ったというが、灰と瓦礫の山と化した谷に、理世は圧倒されるしかなかった。

 せめてもの救いだったのは、復興が始まって、そこらかしこで家が再建されていたということくらいだ。

 香菜実と峰継に追いつき、篤英の元から逃れようとしたところで……

 暴徒と化した民衆が谷の南北から押し寄せてきた。

 再建が始まっていた谷が再び焼かれる光景は、たぶん忘れることはないだろう。暴徒と化した民衆は、一乗谷で略奪を始めた。再建されたばかりの家に火を放ち、家財を奪っているのを見た。当然、敵対した一乗谷の兵たちの虐殺もした。

 その中で、慶充も犠牲になった。

 だが、予想もしなかったことがもう一つ。

 佐奈井が慶充の刀で戦ったことだ。峰継や慶充の後ろに隠れ、守られてばかりだった佐奈井が、刀を握ったとたん、彼の内に潜む鬼が目覚めた。

 佐奈井は容赦なく、慶充を殺した連中を屠った。戦場に出たことがないとは思えないほど、軽やかな動作で。

 慶充がずっと、ひっそりと佐奈井に刀の稽古をつけていたことは、薄々と知っていた。だから慶充は、死ぬ間際に佐奈井に刀を投げたのだろう。だが慶充は別に、佐奈井が戦うことを見越して教えていたわけではないはずだ。本当は、戦って欲しくなどなかったはず。

 そして佐奈井自身、戦いがまったく怖くないということも、理世は気づいていた。

 戦っている最中に、峰継に対して怯えた目を向けた。自分の内にいる鬼を、佐奈井は扱いきれなかったからだ。

 慶充に鍛えられたからといって、佐奈井はまだ子ども。強いわけではない。

 それなのに今、佐奈井は香菜実を助けに行くと言った。

 殺し合いに巻き込まれることは承知しているはずなのに。

 殺す覚悟もない者が、戦に巻き込まれたら……

「……一乗谷と同じことが起こるよ。この先」

 佐奈井の目をまっすぐに見て、理世は言う。佐奈井の目に、怯えがよぎった。両手が震え始めている。一乗谷で殺されかけた恐怖を思い出しているのだろう。

 理世は佐奈井の腰を見下ろした。かつて慶充が腰に差していた刀。

「またあんたを殺そうとする輩も現れる。そうなったらあんた、腰の刀を抜くことができるの?」

「それは……」

 すがるように、佐奈井は刀の柄に手を触れている。

 ほら見たことか、と理世は苛立った。佐奈井は、自分が誰かの死と関わるのが怖いのだ。刀を扱ったことなどない理世に、刀を握った時の感覚は知らない。それでも、佐奈井が覚悟を決めきれていないのは、わかる。

 佐奈井は、やはり普通の子だ。

「峰継さんも、わかっているんですよね。まさか本気で息子を戦の中に放り込む真似、考えていないですよね」

 峰継は、黙ったままだ。

 どうすれば得策かなんて、誰も知らない。武装した者たちが押し寄せて、自分たちが巻き込まれるかもしれないのだから。

「いっそ、山の中にでも逃げたほうが、いいのよ。とりあえず事態が落ち着くのを待って、それから」

「だめだ」

 佐奈井の両手の震えは止まっていた。固く握っている。

「香菜実を見捨てたくない。なあ理世だってそうだろう?」

 何度止めようとしても、一乗谷での出来事を持ち出して煽っても、この子は結論を変えようとはしないだろう。

「峰継さんは、どうするつもり?」

「どのみち山に隠れていても、危険は変わらない。戦から逃れた人たちを狙う輩が必ず現れる。ここに来るまでもそうだっただろう」

 今は、どうするか決めきれないのだ。

「とにかく凍也の家に戻りましょう。ここにいたって情報は入ってこないし、今後のこと、あの兄妹とも話し合わないと」

 理世は言った。

「ああ、そうだな。佐奈井も、今はそれでいいか」

 佐奈井はうなずいた。

「戻るなら、急ぐか。いつ状況が変わってもおかしくない」

 峰継に促されるまま、理世と佐奈井は歩き始める。

「理世は、どうなんだ? まだ答えてないよな」

 隣にさしかかった佐奈井は、理世に問いかける。

「私だって、香菜実が犠牲になっていいとは思っていないよ」

 佐奈井と同じだ。香菜実は今、一人だ。父の篤英がそばにいるとはいえ、あの男は彼女に害を加えかねない。

 助けられるだけの力があれば、そうしている。当たり前だ。

「ただ、あんたまで巻き込まれてはいけないから、こう言っているだけ」

 せめてもの強がりで、理世は言っていた。


こんな風に佐奈井に気をかけるのは、たぶん、死んだ父のためだ。

 佐奈井の足音を背後に聞きながら、理世は思う。

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