さらなる影は忍び寄る――3
男は駆けていた。懐には、富田長繁が織田信長に宛ててしたためた手紙を忍ばせている。粗末な野良着をまとっているのは、民衆に密使と見抜かれないようにするためのもの。
まだ出発したばかりだ。急ぎ越前国を抜けなければ。男は駆けていた。山を越えて、越前国を抜けてしまえば、後は人目を気にせずに移動できる。
恐ろしい。
男が織田信長に宛てた手紙の内容を知って思ったのがそれだった。親族を人質として差し出す代わりに富田長繁に越前国の治政を認めよ、だと。
織田信長に対する不信感は越前国一帯に漂っている。収穫の米などの大半を軍の糧食として持っていく、民を兵として村から連れ去る。越前とは関係のない土地で、越前にとって益とならぬ戦のために。夏に一乗谷を襲って朝倉義景を討ったのも、そのためだ。越前国内ではそんな噂が飛び交っている。
だから、桂田長俊は殺されたのだ。織田信長に家臣として尾を振り、越前国を売り渡したから、と。
富田長繁が織田信長に内通しようとしているという情報が、もし民衆に知れ渡ってしまえば、反感はかなりのものになるはずだ。
急ぐあまりに、男は気づかない。自分が立てる、あまりに焦った足音に怪しいものを感じた者たちの視線に。
男は、背後から何かが飛ぶ音を聞いた。背後からだ。戦場に何度も出ている男は、何の音なのか気づいて、反射的に前に跳んで伏せる。
頭の上を、矢が飛びすぎた。すぐ先の木の幹に刺さり、鈍い音が響く。
背後からの襲撃者に、男は身を凍らせた。背後を探しても、低木の茂みや岩に紛れて矢を放ったらしい者の姿が見当たらないのが、不吉さを掻き立てる。
「動くな」
飛び出してきたのは、ここらの農民らしき男二人。横たわったままの男の喉元に、一人が刀を突きつける。
「怪しい動きをしていた。お前、何か隠しているな?」
「し、知らぬ。奪える物など何もないぞ」
密使はせめてもの意地で、知らぬふりを通そうとする。当然、二人に通じるはずがなかった。
「おい、よく改めろ。この男は怪しいぞ」
さらには、男に向けて矢を放った者も現れた。
「こいつの手をよく掴んでいてくれ。暴れないようにな」
農民の男は、矢を持つ男に告げた。密使は、そのまま羽交い絞めにされる。暴れようにも、刀を喉元に突きつけられれば動きようがない。
そのまま、懐をまさぐられた。農民の手が、懐に忍ばせた紙の感触に動きを止め、そして引っ張り出す。
「手紙を持っているぞ、こいつ」
密使の前で、農民は紙を広げる。
そこには富田長繁の署名や印、そして織田信長の名。
「富田長繁の手紙だ。これ」
「何と書いてあるんだ?」
「織田信長に、越前国の統治の許しを請う、だと」
――だから引き受けたくなかったのだ。
密使の体から力が抜けていく。
逆に農民たちは、怒りで震え始めた。羽交い絞めにする男の腕に、密使の腕をへし折らんばかりの力がこもる。
「富田長繁め、よそ者に越前を売るつもりだ」
「圧政から民の解放を謳ったんじゃなかったのか」
「織田信長の支配を認めたら、よその土地に収穫を持っていかれるだけだぞ」
密使の耳に、民の怨嗟が聞こえるようだった。
「お前も加担していたんだな」
刀を握った農民が、密使の腹を刀で貫く。呼吸が詰まった。密使の腹から血が流れ、そして意識が薄らいでいく。
「すぐ皆に知らせろ。富田長繁も我々を売ろうとしていると」
農民たちのわめく声が、密使が聞いた最後の言葉だった。
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