さらなる影は忍び寄る――2
その日の夕方。富田長繁の居城で、香菜実は炊事の手伝いをしている。居城の兵たちの食事を作っていた。屋敷の広い土間には、竈がたくさん並んでいて、何百人もの食事はここで賄っている。
香菜実はここで、忙しく駆けまわっていた。
「香菜実、こっちの窯に薪の追加お願い。火を強めないと」
年上の娘に言われた。
「はい、今すぐ」
香菜実は言って、土間の一角に積み上げられている薪を取った。急いで、火が弱まっている竈の元へと向かう。
急ぐから、足がもつれた。香菜実は、あっ、と声を洩らす。
だが次には、自分よりも大きな体に抱えられていた。薪が二本ほど土間に転がり落ちて、音を立てる。
「急ぐ必要はないから」
さっき指示を飛ばしてきた人だった。
「ごめんなさい」
「そこ、ありがとう、でしょ」
ふふ、と娘は笑いかけて、土間に転がった薪を拾い上げた。
「……ありがとう、
彩乃は、理世と同じくらいの年だろう。人手が足りないからと香菜実まで厨房にまわされたのだが、それを幸いにと何かと気にかけてくれている。篤英も、ここまで香菜実の監視には現れない。
「それでよし。私も手伝うから」
二人は火の弱まった窯のそばでかがみ込んだ。香菜実が薪をくべると、彩乃は息を吹きかける。弱まった火が大きくなった。
「日中は香菜実、土まみれで戻ってきたんだけど、あれ平原で死んだ人を葬ってたってね」
彩乃が、そんなことを話してきた。香菜実の手が止まる。平原に放置したままの死者を思い出したからだ。
「どうしたんだと思ったんだけど、そんな事情があったなんて」
香菜実の動揺など構うことなく、彩乃という娘は続ける。彩乃は土まみれになった髪や肌を、女の子は身ぎれいにしないとだめと言って、湯に浸した手ぬぐいで拭ってくれた。
「優しいんだね」
「優しくなんか、ないです」
一乗谷で兄を助けることができず、置き去りにしてしまったから、せめてもの償いをしているだけだ。自己満足にもなっていない。
「結局父上に止められて、一人しか葬ることができなかったし」
「あなたは動いた。それだけでも意味はあるでしょう」
何かができたわけでもないのに。
香菜実は、薪を握る手に力を込めた。
自分は、無力だ。ただ誰かを思うことしかできない。いざという時は他人の思惑に沿って動かされる。
「言い当ててみようか。あなた誰かのことを思っているでしょう。亡くなった人もだけど、まだ生きている人も」
佐奈井の顔がよぎった。
まだ生きている、のではなくて、生きているかもしれない、だけれど。
「ここまで言われるの、初めてです」
この居城に居ついてから、彩乃とはかなり話している。体調のことを気にしてくれたり、料理の味つけが上手いと誉めてくれたりと、些細な女の子同士によくある会話ばかりだった。
まるで彩乃が姉になって、香菜実を孤独から守ろうとしているように。
「私と同い年の子」
香菜実は素直に答えていた。
「やっぱり」
「食べ物に弱い子なんです。私が何か作って持っていたら、すぐ上機嫌になる」
握り飯などを持って佐奈井に会うと、必ず笑顔を浮かべた。あまり嬉しそうに食べるから、こちらもつい佐奈井に入れ込んでしまった。炊事を取り仕切っていたのをいいことに、佐奈井のためにどれほど家から食材をくすねただろう。
「でもその子とは離ればなれになった」
忘れようとするように、香菜実は火に視線を戻した。薪を火にくべようとする。だが手が滑って、薪は自分の足元に落ちた。
「心配なんだね」
彩乃の言葉に、込み上がるものはあるが、香菜実は歯を食いしばった。
最後に見た時の佐奈井は、背中にひどい刀傷を負って、理世に背負われていた。ひょっとしたらあの傷が原因で、命を落としているかもしれない。
最悪の事態に陥っていて、しかも自分が何もできていない。
もういっそ、すべて滅んでしまっても、いいのかもしれない。男たちは身勝手な理由で戦を仕掛け合っている。今後も同じことが繰り返されて、たくさんの犠牲が出るだろう。もうそれでも構わないのではないか。
「その子もきっと、香菜実のことを思っているよ」
香菜実の目じりが温かくなる。
「……死んだかもしれないのに?」
彩乃の優しい言葉も鬱陶しくて、香菜実は冷たく言い放った。何も知らないで、この人は何を言うのだろう。
本当は誰もかもが憎かった。兄も佐奈井も、命を狙われるいわれはなかったはずだ。大人たちはいらぬ戦いを続けるばかりで、無駄な血を流すのをやめようとしない。
「香菜実が無事なのを知れば、きっと喜ぶ」
香菜実の言葉に構う様子もなく、彩乃はしゃべり続ける。
香菜実の苛立ちは募るが、彩乃を非難する気にもなれなかった。励まそうとしているだけの人に当たって、何になるのだろう。
香菜実は、足元に落ちた薪を拾った。
「ごめんなさい。こんな風にしゃべっている暇なんてないのに」
拾い上げた薪を、もう一度火にくべようとする。だがその手に、温かい雫がかかった。自分の頬を次の雫がつたう。
だめだ。こんなところで泣いているわけにはいかない。それなのに、三滴目の涙が土間に落ちた。
「……大丈夫。誰もあなたを咎めたりしないから」
香菜実は、周囲を見た。同じように女の人たちが忙しく厨房を行き来している。だが、それだけだった。手が止まって泣き始める香菜実を咎める者はいない。中には、香菜実と目を合わせて、穏やかな微笑みを浮かべる者もいる。
「死んだ人を弔おうとしたから、あなたが優しいってこと、みんな知ってる」
優しいのは、この人たちだって変わらない。
情がこらえきれなくなって、香菜実は静かに泣き崩れる。その世を、彩乃がさすった。
こんな風に泣くことができるなんて、考えてもいなかった。
「いいから、今はそのままでいても」
彩乃の背中を撫でる手は温かく、どこか力強さもあって……香菜実は拒みたいとすら思った。この人たちは優しい。返すべき恩もないのに声をかけ、いたわって……それで自分がこの人たちを大事に思ったりしたら、また失ってしまうのではないかと怖くなる。慶充や、佐奈井のように。
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