戦火の中で――1

 ――西暦一五七四年一月――

 佐奈井は、父峰継の手を取った。罵声が遠くから聞こえてくる。

 一乗谷に押し寄せてくる蜂起した民衆の、憎悪に満ちた叫び声だった。もうすでに、動乱は始まっている。暴徒は間もなく、佐奈井と峰継がいる場所まで押し寄せるだろう。

「父さん!」

 こらえきれなくなって、佐奈井は叫ぶ。

 この場にいるのは佐奈井と峰継の親子に加えて、香菜実、そして一連の戦乱の中で知り合った園枝という女と、その娘で慶充と同じ十七歳の理世。戦える者は峰継くらいしかいない。

「離れるなよ」

 父は佐奈井の手をきつく握る。もう片方の手は、腰に差している刀――足軽だった頃に使っていた――に添えられていた。だが、どこに逃げるのか決めあぐねているようだった。周囲をただ見やっている。

「香菜実、取り乱してはだめよ」

 理世が、香菜実に言いつけている。

「わかってる。園枝さんも気をつけて」

 武家の娘ゆえか、香菜実は凛とした声を出している。だが、上辺だけだ。彼女の手は震えている。怯える香菜実をなだめようと、理世は彼女の背に手をまわしていた。

「大丈夫だから。二人とも、ね」

園枝が、さらに二人を抱いた。年上の娘とその母親らしい行動。しかしこの場所が戦地になりかけている今では、三人の様子はむしろ哀れだった。

「こんな時、慶充がいれば」

 佐奈井は悪態をついた。

 慶充は、領主の元にいる。迎撃を命じられているはずだ。合流できるのか。

 ――こんな時、どうすればいい。

 一乗谷を中心に越前国を治めていた朝倉義景は、織田信長との戦に明け暮れた。莫大な戦費を賄うために民に重税を強い、無茶で無計画な作戦のために、村々から集めた多くの人員を死に至らしめた。数年にも及ぶ戦の結果は、朝倉義景の敗北。民や兵を苦しめた領主は、最終的に家臣の手によって殺され、越前国は敵織田信長の手に落ちた。

 圧政を強いられ、多くの戦死者や餓死者を出した民衆。しかし朝倉義景の死によって、その不満が消えることはなかった。敵である織田信長に寝返った、朝倉旧家臣たちへの不信は募り続ける。

 民衆にとって、朝倉義景による統治は不満の種だが、織田信長による支配は不安しかもたらさない。織田信長が越前国を支配すれば、他方面での戦のために貴重な糧食や人員を搾取するのは目に見えていたからだ。

 それなのに朝倉の旧家臣たちは、保身のために主君を裏切った。

 織田信長に寝返った朝倉旧家臣たちは、引き続き越前国の統治を命じられた。民衆の予測した旧家臣たちによる圧政は、忠実なまでに実現した。織田信長の軍勢の糧食として、相も変わらず多くを持っていかれる農村の収穫。この冬になって、餓死者は相変わらず出ている。

 その不満が、今、暴発した。

 越前国各地で暴徒と化した民は、一気に一乗谷に押し寄せている。その数、三万以上。

 南北に長細い一乗谷の、南と北から挟み込むようにして、狭い谷に入りきらないほどの領民が攻め込んでいた。

「安心しろ。連中の目的は今の領主だけ。お前を狙ったりはしない」

 峰継が励ましてくる。だが、それで佐奈井の恐怖が薄らぐことはなかった。

 また、一乗谷が戦火に巻き込まれるのか。狙ってこない、と峰継は言っているけれど、遠くからでも聞こえるこの罵声だ。蜂起した民衆は、獣のように暴れ、この土地を荒らすだろう。襲ってこないと、言えるのか。

「佐奈井!」

 呼ぶ声が聞こえて、佐奈井は我に返った。

「どうしたんだ? 香菜実」

 恐怖に怯えている場合ではない。佐奈井は峰継の手を放し、彼女に近寄った。

「あそこ。火が放たれている……」

 園枝や理世に抱かれたまま、香菜実が指差す。北のほうだ。園枝や理世も、抱き合うのをやめて、指さされたほうを見た。一筋の煙が、空に向かって上がっている。

 昨年の夏に織田信長に侵略された際、一乗谷はすでに戦火にさらされ、家のすべてが焼け崩れていた。復興が始まって、そこらかしこで家の再建が始まっている。

 その再建された家や、建てかけの家に、火が放たれたのだ。

 蜂起し、一乗谷に押し寄せた民衆は、目につくものすべてを破壊しようとしている。

「逃げるぞ。園枝、香菜実を頼んでいいか」

「もちろん」

 園枝は冷静だった。この場にいる子どもたちのように怯えてはおらず、ただ、生き延びる道を探しているみたいだった。

「まずは南に。最悪、山の中に逃げ込む」

 峰継が佐奈井の手を引いたまま、駆け出した。

「父さん、無茶はするなよ。古傷がうずく」

 峰継の右足の膝の上には、足軽だった頃に戦地でこしらえた古傷があった。無茶をすれば、今でも痛んだり痺れたりする。

「多少なら平気だ。お前をこんなことに巻き込んでたまるか」

 峰継が前を向いたまま言い放つ。敵が目の前に現れればすぐにでも戦おうとするような意気を感じて、佐奈井は父が怖くなった。

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