ある晴れた春の日に――2

 香菜実は懐から笹の葉の包みを取り出した。そのまま兄のほうへと歩み寄っていく。慶充は待っていたとばかりに、すぐそこの岩に腰かけた。香菜実と佐奈井もその岩に腰かける。

 香菜実は包みを開いた。粟や麦といった雑穀混じりの握り飯が三つ。

「佐奈井から選べよ。俺は残ったのでいい」

 慶充が先を譲ってくるので、佐奈井は遠慮なく――見た目大きそうな――一つを取った。

「いただきまーす」

 かぶりつく。雑穀混じりの飯は塩味が効いていて、しかも温かかった。呆れる兄妹をよそに、さらにかぶりつく。具としてこんがり焼けた川魚の肉が入っていた。

 香菜実の作るものは、何でもうまい。

 慶充や香菜実も、それぞれ握り飯を食べ終えた。

「おいしかったよ」

 慶充は香菜実の頭を撫でて、立ち上がった。

「腹ごしらえも終わったし、さっそくやるか?」

「うん」

 佐奈井も立ち上がる。

 近くの木の幹に、慶充が持つのと同じ長さの木刀がもう一本、立てかけてあった。慶充はそれを取り上げて、佐奈井に手渡す。佐奈井は、重みを確かめると、木刀の先を慶充に向けた。慶充もまた、木刀を構えている。さっきまでの余裕のある笑みは消え、その目は腰に差す刀のように鋭い。

 佐奈井は、ゆっくりと間合いを詰めていった。切っ先が慶充の木刀の先に触れたところで、慶充が突きを繰り出してきた。佐奈井は半身を切ってかわし、慶充のうなじを狙う。慶充は木刀を切り返して、佐奈井の木刀を防いだ。

 乾いた音が、周囲に響いた。

 佐奈井はとっさに後ろに跳んで、間合いをとる。慶充は遠慮なく木刀を振り上げた。佐奈井の頭を割らんばかりに振り下ろしてくる。

 佐奈井も木刀を振り上げた。

 二度目の乾いた音。

 佐奈井の手首に心地いい痺れが走り、慶充と鍔迫り合いになる。

 年の差も感じさせぬ佐奈井の木刀捌きに、慶充が口元を緩ませた。そして鍔迫り合いのまま、佐奈井に身を寄せる。

 木刀からもろに慶充の体重がかかる。まだ体の小さい佐奈井は、その重みに膝が折れそうになった。だが、踏みとどまる。

「このお」

 気合の声を上げて、押し返そうとする。慶充は半歩後退した。

 ――ここでっ。

 佐奈井は木刀を振り下ろして、慶充の木刀を受け流した。慶充が目の前でよろめく。佐奈井は、その腹に木刀の刀身を当てた。

「おめでとう」

 香菜実が手を叩いて、佐奈井の勝ちを称える。佐奈井は頬が熱くなるのを感じた。

「さすがだな」

 慶充は佐奈井から離れた。

「だいぶ馴染んだな」

「そうかな」

「攻撃に威力があるし、変な隙もない。戦場で敵にするのが恐ろしいくらいだ」

「どっちみち行かないよ」

 武家の子である慶充と違い、佐奈井はただの農民の子。父と一緒に田を耕すが、戦については風の噂で聞くくらいで、無縁だ。

 一乗谷のある越前国では、少なくとも佐奈井が物心ついてから、戦らしい戦が起こったことがない。

 起こるとすれば、琵琶湖がある近江国や京の都、及びその周辺だ。京の都に攻め上がろうとする勢力と、それを防ごうとする勢力。それが琵琶湖の湖畔でぶつかるのだが、越前国は、そんな激戦地から遠く離れている。

 越前国を統治する朝倉義景が一乗谷から兵を出すことがあったが、佐奈井にとっての戦は、それを見送ることくらいだ。討ち取られた兵の悲鳴を聞いたことがなければ、火を放たれて焼ける家を見たこともなかった。

「で、佐奈井は必死だな。どうしてこうも頑張るんだ?」

 慶充が尋ねてくる。

「最初に誘ったのは慶充のほうだろ」

 佐奈井は笑みを浮かべる。二年前、慶充が十歳だった佐奈井を人気のない滝に誘って、木刀を貸し与えては、鍛えるようになった。

「確かに、そうだったな。でも、続けていて嫌になったことはないのか?」

 相手は佐奈井よりもずっと体格が大きい。刀が上手く振れなかった佐奈井に対して、慶充の稽古は厳しかった。

「お前は俺に、何度飛ばされたっけな。きついとか思わないのか?」

 慶充は言いづらそうにしている。隙あり、と佐奈井は何度も慶充に着物を掴まれて、投げられた。受け身ができないまま地面に背を強打し、身動きできなくなったものだ。

「……わからない」

 佐奈井は言った。

 慶充の言っているとおりだ。佐奈井が刀の扱いに長けたところで、意味はない。戦に出るわけではないのだから。

 佐奈井は、はぐらかそうと笑ってみせた。

「ちょっと俺、しつこいからかも。一度始めたことは、なかなかやめられないみたい」

 それに、香菜実がいる。佐奈井は彼女を盗み見ていた。香菜実はさっきの岩に腰かけたままだ。どうやら作りかけの編み物を持ってきていたようで、せっせと何かを編んでいる。

「香菜実、何やってるのかな」

 佐奈井は声を潜める。問われた慶充も、声を潜めた。

「新しく手ぬぐいを作るんだ、って意気込んでいた」

 香菜実はしょっちゅう、慶充と一緒にこの滝に来る。佐奈井に、普通の同い年の友達として笑いかけてくる。さっきのようにいたずらを仕掛けてくるし、食べ物をくれたりもする。それが佐奈井には、時々不思議に思うし、密かに穏やかにもなれた。

「……顔、赤くなっているぞ。香菜実をじっと見て」

 慶充にささやかれて、佐奈井ははっと我に返った。大きな声を出しそうになって、とっさに我慢する。

「べ、別に変なこと考えていたわけじゃないんだからな」

 変なな意地を張る。これでは、馬鹿にしろと言っているようなものだ。

 しかし慶充は、あからさまに笑ったり馬鹿にしたりすることはなかった。

「佐奈井は、まだ続けるつもりなんだな」

 慶充はそう、木刀を軽く振った。

「うん。ずっとやりたい」

 慶充は、笑みを浮かべた。

 ――感心しているのかな。

佐奈井は思うが、慶充の口から思いがけない言葉が飛び出した。

「……俺の教えたことが役に立たなければいいんだけどな。戦に巻き込まれて」

 そして慶充は、腰に差している刀に触れた。

「何? どうしてそんなことを言うの?」

 不穏な言葉に、佐奈井は食らいつく。慶充は腰の刀から手を放した。

「いや、何でもないんだ。聞き流してくれ」

 ……佐奈井は無知なまま、甘い平和の中で幸福に暮らしていればいい。

 そう思っているかのように、慶充がはぐらかしてきた。

 三人の体を、春の暖かな風が撫でる。


 その年の夏、越前国は織田信長の軍勢に攻め入られ、領主朝倉義景は滅びた。一乗谷も戦火にすべてを焼き尽くされる。

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