焔の双刀

雄哉

ある晴れた春の日に――1

 ――西暦一五七三年、春――

 ――越前国、一乗谷――

 佐奈井さないは、一人で森の中を歩いていた。一乗谷の奥深くへと向かっている。数万の人口を誇る一乗谷も、ここまで来れば人気はまったくない。そもそもこの道の先は行き止まりで、谷の外のどこに通じるのでもないから、人が現れること自体があり得なかった。

 長い冬は終わった。まわりの樹木の梢には、新緑が芽生え始めている。吹き抜ける風は、頭上の枝の間からこぼれる陽射しと相まって、温かかった。道のそばには沢があって、水の流れる音が聞こえる。夏になって、その水を頭からかぶったら気持ちいいだろう。

 父峰継みねつぐは、日が暮れるまで好きにしていいと言った。同じ農民の子たちとじゃれ合うのも好きだが、佐奈井はこうして森の奥深くに入っていくことのほうがもっと好きだった。

 ……この細い道の先に、待っている人がいるから。

 草鞋を履いた足で、佐奈井は歩き続ける。大きな杉の木のそばを通り過ぎようとした、その時――。

「ばあ!」

 佐奈井の目と鼻の先に小さな人影が飛び出してきた。

「わっ!」

 みっともなく大きな声を出して、佐奈井はしりもちをつく。

 目の前にいるのは、佐奈井と同じ十二歳くらいの少女だった。黒に近い栗色の髪に、同じ色の瞳。まとっている柿色の着物は、彼女の髪や瞳の色によくなじんでいた。その着物の懐が妙に膨らんでいる。何か入れているのだろうか。

「何だよ、香菜実かなみ

 佐奈井は突然のいたずらに困惑しながら、香菜実に話しかける。香菜実は、しりもちをついたままの佐奈井に、腹を抱えて笑っていた。

「暖かくなったからって、油断しているからでしょう。それじゃあ兄さんに叱られる」

「だからって、こんないたずらはないだろう」

 佐奈井は不満をぶつけるが、彼女は構う様子もない。へへへ、と笑ったまま、小さく、白くきれいな手を出してきた。佐奈井の小さくて日に焼け、ささくれた手を掴む。

「はい、いつまでも座ってたらだめ」

 佐奈井を立たせる。佐奈井は立ち上がるが、香菜実の手を引く力が余分なまでに強すぎて、よろめいた。

「着物、また汚している」

 香菜実は佐奈井の背や尻を見ると、ぱたぱたとはたいた。

 ――佐奈井が着ているのは、継ぎあてまみれの野良着。

 二人とも一乗谷で生まれ育ったのだが、見た目からして、二人の間に身分の差がある。香菜実は武家の生まれで、佐奈井は農民の子。佐奈井の父峰継はかつて足軽として戦場を駆けていたが、足を負傷して、身分を落とした。

 しかし香菜実には、そんな身分差を気にする様子もない。だから佐奈井も遠慮しなかった。

 香菜実は、佐奈井の背をはたくのをやめた。

「おしまい。やんちゃして着物を土まみれにしたら、また峰継さんに怒られるよ」

「香菜実のせいだ」

 佐奈井は文句をぶつける。だが香菜実は笑っていた。何か隠しているような、うずうずしているような笑顔。

「行こ。兄さんが今日も待ってる」

 香菜実は佐奈井の手を取った。

 急がなくてもいいのに、香菜実は佐奈井の手を引いて森の奥へと走っていく。佐奈井もあくせく足を前に出していた。遅れたら、あっという間に足がもつれて転びそうだ。

 ――そして香菜実に、また馬鹿にされる。

 遅れないよう、佐奈井は懸命に走り続けた。あまり急ぐから、地面からせり出した木の根に、足の親指をもろにぶつけた。

「痛いっ。香菜実、急ぎすぎだよ」

 佐奈井は片膝をついて、文句をぶつける。

「ごめんごめん」

 香菜実は、腰に手を当てて笑ったままだ。全然反省していない。佐奈井ならどんないたずらも許される、とでも思っているのだろうか。


 香菜実と一緒に森の中を走っていくうちに、道の奥から滝が見えてきた。この間まで雨が降っていたから、水量が多く、その音は豪快だ。

「兄さん、きっと待ちくたびれているよ」

 香菜実がせかすように言う。

 見えてきた滝の前には、一人の少年が立っていた。滝に向かって、木刀を振っている。滝の真逆にいる佐奈井と香菜実には、完全に背を向けていた。

「兄さん、佐奈井着いたよー!」

 香菜実が声をかけると、呼ばれたその少年はこちらを振り返った。

 佐奈井や香菜実よりも年上で、背も二人より頭一つ分高い。十七歳になったばかりの少年の名は、慶充よしみつ。香菜実と同様にしっかりとした着物を身に着け、袴を穿いている。腰には立派な刀が提げられていた。

「よう、佐奈井」

 片手を木刀から放し、佐奈井のほうに振る。佐奈井も片手を上げた。

「差し入れ、作ってきたよ。おむすび」

 香菜実が声を飛ばす。そしていたずらっぽく、隣の佐奈井にも目をやった。

「佐奈井の分もあるから、一緒に食べよ」

 言われたとたん、佐奈井の口の中が唾液にまみれた。道端で待ち伏せして驚かしてきた恨みも、木の根に親指をぶつけた痛みのことも、頭から消し飛んでいく。

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