エピソード1 九章(睦月4) 通算30話
睦月が監禁されてから約四時間が経過しようとしていた。
カウントダウンの数字は、残り二時間五分ほどで、映画一本分くらいの時間しか残されていなかった。
睦月はメールを健一が受け取ってどんな行動を取ったのか知らない。
あらゆる情報をカットされ、眼に入るのはカウントダウンの数値のみ。
おかげで睦月の神経はかなりすり減っていた。
そもそもこのカウントダウンがゼロになったときにどうなるのかさえ聞かされていない。
殺されるのか解放されるのか、陣羽織桃子が仕掛けたドッキリなのか。
さまざまな考えが四時間近くの間、ぐるぐると堂々廻りする。
本当はこんな不毛なことを考えたくはなかったのだが、目の前でカウントダウンする数値をじっと見つめていると、気が狂いそうになるので、なにか考えて気を紛らわすしかなかった。
「(紅牙くん……)」
ふと睦月の脳裏にかすめた人物は、健一ではなく紅牙だった。
それは睦月の本能が、自分を助けられるのは紅牙なのだろうと訴えたからだ。
健一はどんなに頑張っても人間以上にはなれない。
鬼である紅牙なら、誘拐犯たちを蹴散らし、睦月を救出できるかもしれない。
そんな期待から浮かんだのが紅牙だったのだが、睦月が本心では誰を頼りにしているのか、はっきりと分かってしまった。
「(平時では犬飼くん。非常時は紅牙くん……か。私ってずるいなぁ)」
睦月の考えは別にずるいというものでは無かったが、極限状態で正常な思考ができないいま、睦月の自己嫌悪を止める術は無かった。
なにせこの部屋には睦月しかいない。慰める者も、相談を聞いてくれる相手も居ない。
ただひとりだ。
ひとりがこんなにも心細く、恐ろしく、辛いものだと睦月は始めて知ることとなる。
「(助けて……)」
睦月の落涙が頬を伝って膝にかかる。
一度涙腺が緩むと、もう止まらなかった。
薄暗く、音もない部屋の中から、睦月の嗚咽だけが寂しく響く。
貸し倉庫に到着した紅牙たちが最初に発見したのは、一〇インチくらいの小さなモニタで、そこには拘束された睦月の姿が映し出されていた。
音声も拾っているようで、睦月の嗚咽する声が、小さなモニタのスピーカーから微かに聞こえる。
「ひどい。こんなのひどいよ」
「青柳さんの狂言ではなさそうね。それにしても生娘じゃあるまいしメソメソしすぎよ」
「ち、ちがうよ。睦月お姉ちゃんは生娘だよっ」
「そんなことはどうでもいい!」
ゴン! という音が響き、街灯を照らす鉄柱がアメのようにぐにゃりと曲がっていた。
紅牙の拳は真っ赤に染まっており、触れると火傷しそうなくらい熱を帯びているような錯覚を覚えた。
その紅牙がモニタを掴もうとしたので、桃子が一喝して制止する。
「腹いせにそれを壊して事態が好転するとでも思ったの? 鬼龍院くんの怒りの矛先はアレに向けるべきじゃないの?」
桃子は倉庫の奥にある重機を指差した。
紅牙はあと少しでモニタを握りつぶすところだったが、なんとか思い留まり、視線を倉庫の奥に向ける。
紅牙が振り返ったと同時に、重機のエンジンがかかる。
ディーゼルエンジンの咆哮が鳴り響き、一台の見慣れない重機が無限軌道を回転させ、紅牙たちに迫ってきた。
操縦席の窓は反射材を使用しているのか、外からは黒塗りで中は伺えなかった。
その重機をひとことで現すならカニだった。
二本のアームを持ち、その先端にはモノを挟む巨大なペンチのようなものが付いており、その姿は本当に巨大なカニそのものだった。
アームの先端が高速で回転すると、まるでドリルのようだった。
人間があのアームに触れたら、皮膚はおろか、肉までそぎ落とされてしまうだろう。
「尋ねるまでもないと思うけど、あれくらい楽勝よね?」
「当たり前だ。俺の爺さんは戦争で戦車と対峙してんだ。片腕を失いはしたが、それまでに敵の戦車部隊の猛攻を半年防いだんだ」
「防いだだけなの?」
「爺さんは自慢話が嫌いだから語らねえが、戦車数十台を大破させたって話だ」
「そう。それならあんなカニみたいな重機に後れを取るようじゃ、お爺様に顔向けできないわね」
「ああ、言われなくても分かってるよ」
「紅ちゃん気をつけてね」
「心配はあの重機の運転手にするんだな。陣羽織、瑠璃を連れて先に睦月を救出してくれ」
「そうね。私たちがここにいても邪魔になるでしょうから先に行かせて貰うわ。行きましょう青木さん」
「う、うん」
桃子と瑠璃は、紅牙の邪魔にならないよう、貸し倉庫の中に入るべく走りだした。
だが、重機は桃子たちの動きを見逃さず、器用に車両とアームを操作して二人の前に立ち塞がる。
だが、それ以上は何もできなった。
バリバリという雷のような音が聞こえたかと思ったら、重機の電装系がショートし、エンジンが緊急停止したためだ。
「いまのうちに行け!」
紅牙の声に呼応して、桃子と瑠璃は重機をやり過ごした。
「ふう。これで終わりか? 終わりってことはないよな? 俺はまだ全然暴れ足りないんだよ」
紅牙は重機のアームを掴むと、支点に足をかけて踏ん張り、人間で言うと上腕部ごともぎ取ってしまった。
ブルルルっとようやく重機のエンジンがかかるが、既に半壊状態である。
一本のアームを振るって、紅牙めがけて回転させつつ突きを放つが、重機ごときの遅い動きでは紅牙を捕らえることなど不可能だった。
そうして両手でもぎ取ったアームを抱え、それをまだ生きているアームにぶつける。
チャンバラのようなものだが、巨大な鉄の塊どうしの衝突の勢いはすさまじく、文字通り火花が散っている。
重機のアームにさほどダメージはないが、衝撃を受けた運転手のダメージは計り知れない。
アーム同士がぶつかるインパクトの瞬間、身体を窓や操作棒などにぶつけ、いくつもの打撲傷を負っていることだろう。
紅牙は何度も何度も、間接めがけてもぎ取ったアームを叩き込む。
しばらくすると、重機のアームはその腕を持ち上げることができなくなっていた。
紅牙はトドメとばかりに重機を横殴りにすると、ただでさえ片手がもげてバランスが悪くなっていた重機がゆっくりと横転した。
無限軌道が空しく空回りするが、起き上がることはできない。
アームも馬鹿になっており、先端部をグルグル回す事しかできないでいる。
少なくともクレーン車かなにかで引き上げない限り、この重機が立ち上がることは不可能だろう。
「さてと、犯人の顔を拝ませて貰うぜ」
紅牙は横倒しになった重機の操縦席の扉を引き剥がす。
「なんだこりゃ!」
操縦席には誰も居なかった。正確には始めから人は乗っていなかったようだ。
ラジコンのアンテナみたいなもと、正面と上下左右の五点のカメラが設置してあり、恐らく外部からモニタで操縦席の映像を見ながらコントロールしていたのだろう。
窓ガラスに反射材を貼ったのは、中に人がいるように見せかけるためのフェイクだったのだろう。
「くそっ!」
紅牙がカメラとラジコンのアンテナをへし折り、操縦棒を全て引き抜き、それらを束にして操縦席のシートに挿した。
この重機の値段を知らない紅牙は、怒りに任せ破壊し続けているが、もしも弁償するような事態になれば、一生タダ働きしなければならない金額になるだろう。
ただ、睦月を誘拐した犯人が紅牙に損害賠償請求をするはずがないというか出来ないので、好きなだけ壊しても問題はないだろう。
紅牙が重機と遊んでいる間、桃子と瑠璃は倉庫内に侵入し、睦月を探していた。
倉庫内にはコンテナがいくつか並べてあり、恐らくこのコンテナの中に睦月は拘束されているのだろう。
桃子と瑠璃は手分けしてコンテナの中を調べたが、中は鉄材だったり、工具だったり、資材だったりと、モニタに映っていたような内装のコンテナは一つも無かった。
「人の気配がまったくないよ」
人間よりも五感が鋭い鬼族の瑠璃が呟く。
「そうね。ここもただの中継地点だったと考えるしかないようね」
桃子は少し悔しそうに相槌を打つ。
そうして情報を整理するため健一たちに電話しようとスマホを取り出すと、丁度いいタイミングで着信音が鳴った。
「もしもし。あら健一くんどうしたの? 私と離れて三〇分以上経ったから恋しくなったのかしら? そう? 私は恋しいわよ。そんなことはどうでもいいって、相変わらず冷たいのね。……そう。分かったわ。ええ。ありがとう。すぐに向かうわ」
桃子は通話を終えると瑠璃に向き直り、早く行くわよとだけ言って倉庫から抜け出した。
桃子たちに遅れてタクシーで出発した健一たちは、車中で本当に倉庫でいいのか検討していた。
倉庫に行ってもまた別の場所に行かされる可能性が高くないかという健一の意見にトリノはそうだろうねと断定した。
そうしてそれこそが誘拐犯の狙いで、タイムリミットまで自分たちを引っ張り回すのが目的ではないかという仮説を立てていた。
そうなるとこのまま倉庫に向かうんじゃ駄目だと、もう一度手紙を隅から隅まで見返していた。
「ねえねえ。健ちゃん。トリノ。この文章に『オニはカエレ』ってあるけど、どういう意味の帰れなのかな?」
「どういう意味って、そりゃ鬼の里に帰れってことじゃな……い」
健一とトリノは当たり前すぎて、つい見落としていたことを即座に思い出した。
「流石トールちゃん! 素朴な疑問ありがとう! 愛してるよ」
トリノが透に抱きついて喜ぶ。
「ど、ど、どういうこと?」
「お手柄だな透。文字通り帰れば良かったんだ。オレたちは青柳家に向かいましょう」
「そうだね。運転手さん目的地変更よろしく~」
健一たちの乗せたタクシーは、進路を変更し、一路青柳家へと向かった。
タクシー内で桃子たちに連絡した健一たちは、一足先に青柳家に到着した。
そうして母屋のすぐ脇に建っている離れの玄関前に立ち、呼び鈴を押す。
しばらく待つと玄関のドアが開き、中から一人の壮年の男性が現れた。
老人と呼ぶにはまだまだ壮健な感じだが、見た目はもう八〇を超えているように思える。
話に聞いた睦月の曽祖父で、紅牙の同居人なのだろう。
「どなたかな?」
睦月の曽祖父は、健一たちを一瞥し、そう尋ねた。
「睦月さん、それから紅牙と瑠璃ちゃんの友人の犬飼と言います」
「キミがそうか。紅牙に折られた腕はもういいのかね?」
「おかげさまで今日包帯が取れました」
「それはよかった。生憎と皆出払っていてなぁ。どうしたものか」
「紅牙と瑠璃ちゃんならしばらくすれば戻ってきます。それより睦月さんに合わせてください」
「会わせろと言われてものう」
「青柳重工特別顧問、もしくは元会長の青柳十郎さんだよね? 採石場や例の倉庫も青柳重工が管理してるのは偶然なのかな?」
ここに来るまでトリノが調べたことを並べ立てる。
「偶然じゃな。悪いがお前さん方が何を言っているのかワシにはよくわからんのだが?」
「そうですか。分かりました。それではもう警察に任せるしかありませんね。お爺さん。驚かないで聞いてください。睦月さんは誘拐されました。いまから警察を呼びます」
「警察とは穏やかじゃないね。誘拐とか言ったが、そのうち帰ってくるとは考えられんのかな?」
「お爺さん。オレたちを子供だと思って侮ってたら痛い目みますよ。オレは一秒でも早く睦月さんを助けてやりたいんです。狂言だろうが肉親の犯行だろうがそんなことはどうでもいいんです。権力に訴えるのは最後の手段だと思ってるんですが、オレが呼ぶのはただの警察じゃないですよ? 陣羽織ファミリーを敵に回す覚悟があるなら、どうぞしらばっくれていて下さい。青柳重工の株価や社員役員がどれだけ路頭に迷おうとしったこっちゃないんですよ?」
健一は睦月の曽祖父から視線をそらすことなく、一気にまくし立てた。
陣羽織の名を出された曽祖父は、仕方ないなという表情で肩をすくめた。
「ふむ。ワシの負けだ。睦月たちは良い友達をもったようだな」
曽祖父は笑顔で語りかけたが、健一たちの表情はまだ固いままだ。油断はしないという決意を感じ取れ、曽祖父はその態度を気に入った。
「こちらへ来なさい」
曽祖父は健一たちを離れの中に案内した。
離れは二部屋あり、それぞれ曽祖父と紅牙が使用しているが、押し入れの底に、隠し階段があり、そこから地下室へといけるようになっていた。
「睦月はこの中に居る」
睦月を監禁している部屋の前に立つと、曽祖父は健一たちにそう告げた。
「睦月はワシの関与を一切知らん。後はキミらに任せた。ワシのことはどういう風に説明して貰っても構わん」
曽祖父は追加でそれだけ言うと、地下室を後にした。
健一たちはドアをノックし、助けに来たことを告げ、その扉を開いた。
睦月の視界の大半を占めていたモニタに割り込むよう、健一と透とトリノが正面に立つ。
モニタのカウントダウンは一時間四五分三二秒でストップしていた。
「遅くなってごめん。紅牙たちもすぐにくるから」
健一の言葉に睦月は大きく首を振る。
「すぐにはずしてあげますからね。健ちゃんは口をお願い。
透とトリノが手分けして手足の拘束を解いてゆく。
「少し痛いかもしれないけど我慢してね」
健一は口を塞いだ布テープをゆっくり外し、テープを丸めて床に叩きつける。
「あ、あ、あり、ありがっ、ああ~~~ん」
睦月はありがとうと言いたかったのだが、感謝の気持ち以上の感情に支配され、泣く事しかできなかった。
泣いている睦月の背中を透が軽く押すと、睦月の身体は健一の胸にすっと収まった。
睦月は驚いたが、それでもまだ涙は止まらないので、健一の胸の中で泣けるだけ泣いた。
「少しは落ち着いたかな?」
泣きはらし、しゃくりあげる回数もまばらになったので、健一が優しく尋ねる。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
睦月は慌てて健一の胸から一歩下がり、恥ずかしそうに俯いた。
「これから事件の真相が分かるわけだけど、驚かないで欲しいというか、少なくとも自分を責めたりしないで欲しい」
「どういうことなの?」
「うん。まあ付いて来て貰えばわかるよ」
キョトンとした表情の睦月を連れ、健一たちは地下室から離れの部屋に向かった。
「えっ? ここは!」
いきなり見覚えのある場所にでてきた睦月は、瞳を白黒させていた。
そうして目の前には、曽祖父を囲むように、紅牙と瑠璃、それから桃子が立っていた。
どうやら紅牙たちも到着したようだった。
全員が揃ったところで今回の事件の黒幕というか首謀者が曽祖父だと聞かされ、睦月は恥ずかしさと情けなさで死にたくなった。
そうして割とクールな睦月が『大爺ちゃんのバカ~!』と大声で怒鳴ったので、流石の曽祖父もしょんぼりしていたが、誰ひとり同情する者は居なかった。
「つーかジジイ。なんでこんな馬鹿な真似をしやがるんだ!」
普段生活を共にしているだけあって、割と気心が知れているのか、紅牙の物言いは乱暴ではあるが、曽祖父に弁明の機会を与えるきっかけになった。
曽祖父がいうには、これは紅牙と瑠璃がどれだけ人間社会に馴染んだかのテストらしい。
始めは睦月に事情を話して協力して貰うつもりだったのだが、健一や桃子といったイレギュラーな人物が紅牙たちと行動を共にするようになったので、ギリギリまで事情の説明は待っており、本来なら紅牙たちが倉庫のイベントをクリアし、その次にあるイベントを実行中に睦月を解放する予定だったのだが、健一たちが別行動をして先に答えにたどり着いてしまったため、事情を説明する機会を失い、正体がバレてしまったのだという。
そうしてこのテストは紅牙と瑠璃の両親から頼まれたものらしい。
それを聞いた紅牙は即座に土下座して睦月に詫び、それから健一たちに詫びた。
「色々と言いたいことはあるけど、一つだけいいかしら?」
これまで顔色ひとつかえずに話を聞いていた桃子が、我慢ならないという表情で曽祖父に向き直る。
「なんだね?」
「あの小学生のクイズみたいな問題は何? 私たちを馬鹿にしてるのかしら?」
どうやら桃子は手紙の暗号やトリックが簡単すぎて不満な様子だ。
「それは済まなかった。なにせ最初は紅牙と瑠璃の二人でやらせるために作ったようなモノだからのう」
「青木さんは私より頭いいのよ。あれくらいすぐに解けるわ」
「それは買いかぶりすぎだよ。陣羽織お姉さんたちが居なかったら、多分ルリたちパニックになって先に進めなかったと思う。それにルリじゃ紅ちゃんが暴走しても止められないし……」
「確かにそうかもね」
「と、とにかく、もう二度とこんなことしないでよね!」
睦月はそれだけ言うと、恥ずかしいのか一目散に離れから飛び出し、母屋に戻った。
誰かが慰めるより、一人にしておいた方がいいだろうと全員が思ったので、睦月を追う者はおらず、走って行くその姿を見守った。
「要するに鬼龍院くんと青木さんを海千山千の人間社会で鍛えたいんでしょう?」
「その通りだよ。お嬢さん」
「なら私に任せておけばいいわ。二人ともビシバシ鍛えてあげるわ」
桃子は大船に乗った気持ちでいろとばかりに、胸を張って答える。
「ふむ。お嬢さん名前は?」
「陣羽織桃子よ」
陣羽織と名乗った瞬間。曽祖父の眉がピクリと動いた。
「なるほど得心したわい。確かにお嬢さんらと一緒に居れば、凡夫な人間たちと過ごす時と比べ、一〇倍は濃い密度になりそうだ」
「オレは凡夫ですけどいいんですかね?」
「このワシを脅迫した小僧が凡夫とは恐れ入る。キサマはもう朱に交わって自分が染まっていることに気付いておらんようだな」
「アハハ、そうだよケンイチ。トーコのセクハラやパワハラに耐性が付く人間なんてそうそういないんだぜ?」
「いやいや、耐性なんてついてませんよ。そんなことより一つ聞きたいことがあります」
健一は曽祖父に向き直る。
「なんだね?」
健一は曽祖父になぜ『オニはカエレ。イマすぐカエレば、ムスメはタスケテやる』という睦月の居場所を類推できるようなヒントを残したのか尋ねた。
するとそれはまったくの偶然で、たまたまそういう風に読み取れることもできてしまう欠陥メッセージだったと曽祖父は認めた。
だから健一たちが離れにやってきたとき、執拗に追い返そうとしたのだという。
本来なら犯人は謎のまま事件は収束し、数ヶ月後にまた試練というか、テストを行おうと考えていたらしい。
そうして紅牙たちが鬼の里に帰る前に種明かしをしようと思っていたのだが、最初から看破されては続けようが無く、おかげで計画は台無しだと、苦笑しながら曽祖父は呟く。
健一たちが帰宅した後も、睦月は部屋に籠っており、夕飯も食べなかった。
心配した瑠璃が睦月の様子を見に行くと、睦月は服も着替えずベッドに横になっていた。
眠っているのかと思ったが、瑠璃が部屋に入って来たのを察知したのか、ゆっくりと上体を起こす。
「睦月お姉ちゃん……」
瑠璃はなんと声をかければよいのか分からなかった。
睦月からは何の感情もなく、通常なら読み取れるはずの心情がまるでわからなかったからだ。
「心配して来てくれたのね。ありがとう瑠璃ちゃん」
「うん。睦月お姉ちゃん大丈夫?」
「身体の方ならもう大丈夫。ただ恥ずかしくて情けなくて少し死にたいかも」
「し、死んじゃ駄目たよ!」
「死なないわよ。ところで瑠璃ちゃん」
「うん。なあに?」
「一緒にお風呂に入らない?」
「えっ! えと、うん。いいよ」
瑠璃は恥ずかしそうにキョロキョロ辺りを見渡しながら、最後は頷く。
睦月と瑠璃が一緒にお風呂に入るのは、今日が初めてのことだった。
女の子同士だから問題ないと思うだろうが、鬼と人間という種族の差があり、なんとなくお互い遠慮していた。
瑠璃は単に自分の貧相な身体と比較されたくないというコンプレックスもあり、一緒に入ると自分からは言いだせなかった。
そんな二人がいま、同じ浴槽内で肩まで浸かって温まっている。
「あのね瑠璃ちゃん」
「どうしたの?」
睦月は曽祖父に監禁されている間、紅牙に助けを求めていたことを告白した。
健一にメールしたのは、健一を通して紅牙や瑠璃、それに桃子たちの協力を取り付けてくれるだろうという思惑があってのことで、最終的に誘拐犯の手から自分を救出するのは紅牙だと思っていたことなどを正直に話した。
健一のことを好きだと言っておきながら、紅牙に助けを求めるなんておかしいよね。自分はなんて曖昧で優柔不断なんだろうと。
瑠璃は睦月の話しを、ただじっと聞いていた。
睦月が全て吐き出して胸の支えが取れたかのようにスッキリした顔になったとことで、瑠璃はようやく口を開いた。
「睦月お姉ちゃんは間違ってないよ。それって火災で家に取り残された時に、好きな人じゃなくて消防士さんに助けてって願うようなものだよね?」
「そうなのかな?」
「そうだよ」
「でも実際に犬飼くんが助けに来たとき、私、とても嬉しかったんだけど、同時に少し落胆してたの。あっ、なんだ。紅牙くんじゃないんだって」
「そ、それは……。それはあれだよ。紅ちゃんだと思ってたら違ったからガッカリしたと言うか、健一お兄ちゃんだったから落胆したんじゃなくて、紅ちゃんが来なかったことに落胆したんだよ」
「そうなのかな?」
「そうだよ。絶対そうに決まってるよ」
「でもそれなら紅牙くんを見たら幻滅すると思うんだけど、離れで紅牙くんを見た時、私とても嬉しかったの。やっぱり来てくれたんだって。これはどう思う?」
「…………」
「どうしたの瑠璃ちゃん?」
瑠璃はしばらく口を閉ざしたまま浴槽内で腕を組んで考え込んでいた。
そうして深くため息を吐くと、全てを諦めた表情で睦月を見つめた。
「誘拐されて傷心の睦月お姉ちゃんには言いたく無かったけど、流石に我慢の限界だよ!」
「え? どうしたの?」
「睦月お姉ちゃんは紅ちゃんのことも健一お兄ちゃんのことも同じくらい好きなんだよ。自分で言ってた通り、優柔不断すぎるよ」
ザバッと浴槽から立ち上がった瑠璃が、人差し指を睦月の額に突き付ける。
「あはは、やっぱりそうなんだ」
どうやら睦月本人も薄々自分の気持ちに気付いていたらしい。瑠璃に言わせたのは確認みたいなものなのだろう。
「笑い事じゃないよ」
「どうして?」
「だ、だって二股だよ?」
「二股っていうけど、私は誰とも付き合ってないわよ」
「そ、そうだけど、でもなんかずるいよ」
「大丈夫よ。私の好きはライクであってラブじゃないから。なんとなく分かってたんだ。犬飼くんにしても紅牙くんにしても、ちょっといいなって思っただけで、陣羽織さんや瑠璃ちゃんみたいな一途な気持ちでは無いって。結婚とかそんな先の話なんかまるで考えてなくて、普通に喋って遊んで、それだけでいいかなって、そういう軽い気持ちなんだけど、そういうのは駄目なのかな?」
「駄目……っていいたいけど、駄目じゃないよ。そもそも人を好きになる深度なんて人それぞれだから。でも睦月お姉ちゃんの態度はずるいと思う」
「そうかもね。でもこればっかりは仕方ないの。理屈じゃないんだから」
「分かるよ。分かるから何も言えないんだよ」
「ごめんね」
睦月は瑠璃の腰に手を回してそのお腹に顔をうずめるよう抱き締めた。
「八方美人は嫌われるんだからね」
「知ってる。報われっこないって分かってる。私は紅牙くんとも犬飼くんとも付き合う資格も覚悟も無い。でも友達でいたいって思う。それじゃ駄目かな?」
「もしも、確率的に有り得ないけど、もしもの話、紅ちゃんが付き合ってくれって言ったらどうするの?」
「もちろんOKするわよ」
「ヒドイよっ!」
「たとえばの話でしょ? そんなことありえるわけないじゃない。犬飼くんにしてもそうよ。付き合ってって言われたら即OKしちゃうと思うわ」
「それじゃもし、二人同時に告白したら?」
「二人同時に?」
「そう」
「う~ん。迷っちゃう。決められそうにないわ。犬飼くんっていつもこんな気持ちを抱えてるのかな?」
桃子と透に想いを寄せられていることは紅牙と違って鈍いわけじゃない健一には分かっていることだろう。
「健一お兄ちゃんの自制心は凄いよ。流石犬飼姓って感心するくらいだよ。陣羽織さんが桃太郎の生まれ変わりなら、健一お兄ちゃんは本当にお供の犬の生まれ変わりかって思うくらい、おあずけ状態で耐えてるよ」
「どういうことなの?」
瑠璃は透から聞いた桃子のありとあらゆるアプローチ方法と、それに屈せず手を出さない健一の賢者ぶりを睦月に話した。
「その話だけ聞くと犬飼くんって女の子に興味ないの? って思っちゃうわね」
「ロリコン説もあるらしいよ。でもトリノさんとの関係は師弟みたいなものらしいし、ルリを見る目だって普通というか変な感じはなかったから違うと思うよ」
「同性愛……とか? まさか紅牙くんを!」
「それはないよ。もしそうだったら泥沼の関係になっちゃうよ」
「そうね」
瑠璃と睦月の脳裏に、恋愛相関図が浮かび上がる。
その矢印は、悲しくなるくらい常に一方通行のみだった。
「そろそろあがりましょうか」
不毛な思考を振り払うかのように睦月が尋ねる。
「あ、ルリの髪の毛を洗うの手伝ってもらっていい?」
「それは構わないけど。いいの?」
瑠璃の髪の毛を触っていいのは自分と紅牙だけだと聞いていたので、睦月は少し戸惑った。
「うん。実は今日ね。健一お兄ちゃんに偶然だけど頭をなでられたんだ。でもねそんなにいやじゃなかったの」
瑠璃が髪を触れられるのを嫌がっているのは、紅牙以外、瑠璃の髪を触れる者は引っ張ったり叩いたりと、瑠璃を苛める者でしかなかったための防衛本能からそうなってしまっていた。
そうして、紅牙以外にも瑠璃の髪を丁寧に触れてくれる人がちゃんといるのだと知ったいま、睦月に髪の毛を触れされることに、何の躊躇いもなくなっていた。
「ありがとう瑠璃ちゃん。本当に触っていいの?」
「いいよ」
睦月は瑠璃の髪の毛を一房手に取り、愛おしそうに指先で撫でる。
「すごく細くて柔らかい。これは丁寧に洗わないと髪の毛が傷んじゃうわね」
「うん。ルリ一人だと大変なんだ」
「それじゃ遠慮なく」
睦月は瑠璃と一緒に浴槽から出ると、瑠璃をシャワーの前に座らせると、自分は後ろに立って、手の平にシャンプーを広げ、それをよく泡立ててから、ゆっくりと瑠璃の頭皮になじませてゆく。
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