エピソード1 八章(睦月3) 通算29話
健一が骨折して三週間が経過していた。
通院帰りの健一の腕には、もうギブスは無く、三角巾で腕を吊っているだけだ。
綺麗に折れていたのと、若いので回復が早いのが幸いし、予定より一週間も早く、ギブスを取っても良いだろうと診断され、その場で外して貰ったのだ。
健一はギブスが取れた開放感を噛みしめながら病院を後にしていた。
まだ力を入れると痛みが走るが、動かせないというほどではない。
筋力が落ちているので、これから数週間かけてリハビリを行う予定である。
そんな晴れやかな気分でいた土曜の午前中に、健一のスマホに一通のメールが届いた。
差出人は睦月からで、サブジェクトが無いのが気になったが、健一はメールに目を通した。
先程まで晴れやかな気分でいた健一の表情が一瞬で険しくなる。
メールの内容は実にシンプルで、ただ一文。『助けて』と打ってあった。
このメールが桃子やトリノだったら性質の悪い悪戯だと片付けれらるが、睦月の性格から考えるに、これが悪戯である可能性は低かった。
また、これがどういう意味のメッセージなのか。電話ではなくメールで届いた具体性のない本文。おおよそ睦月からのメールとは思えない。
よほど急いでいたのか、短い文章しか打てない理由があったのか。
メールの返信は必要か。下手に返信したらマズイ状況なのかもしれない。
健一の脳裏に色々な考えが錯綜する。
とりあえず自分一人じゃどうしようもない。
まずは睦月の身内である紅牙と瑠璃に連絡しないといけないだろう。
それから透やトリノに協力を頼もう。
ちなみにここに名前が出てない人物が居るが、連絡の必要が無いから省いたのだ。
なぜなら、その人物は健一の傍にいるからだ。
「どうしたの健一くん? 顔色が悪いわね。呪い系のチェーンメールでも受信したのかしら?」
桃子が健一の背後からスマホのモニタを覗く。
「なあ桃子。これってどう思う?」
スマホを桃子に見せながら健一が尋ねる。
「悪戯でしょ。まったくこんなことで健一くんの気を引こうなんて考えが浅いにも程があるわ」
「睦月さんはそういう悪戯をする人じゃないだろ」
「冗談よ。真偽は別として、どちらにせよ、健一くんは放っておくことはできないんでしょう?」
「その通りだよ。あと桃子から同じメールが届いてもちゃんと探すよ」
「え? 本当に? 絶対よ。約束したわよ?」
健一は迂闊kなことを言ってしまったと後悔した。なんとなくだが、今後しばらくしたら、桃子からの狂言メールが何通も飛んできそうな予感がした。
「分かったから。それよりはまず、紅牙たちに連絡だ。桃子は透とトリノ姉さんを呼んでくれない?」
「仕方ないわね」
健一は青柳家の自宅に電話をかけ、桃子は透に電話し、透を呼ぶと共にトリノに連絡するよう透に告げた。
余程自分では連絡したくないようだ。
だが、その判断は間違っておらず、桃子が呼ぶより透が呼んだ方が、トリノはおっとり刀で駆け付けるだろう。
紅牙たちに連絡を入れ、一〇分経たないうちに、紅牙が瑠璃を背負って空から降ってきた。どうやら直線ルートで家の屋根などを走ってきたらしい。
忍者みたいだなと健一は感心した。
青柳家からここまで、徒歩で三~四〇分はかかるはずだ。
時速五~六〇キロは出さないと、この時間で辿り着くことはできないだろう。
「早速で悪いけど、これを見て欲しい。瑠璃ちゃん。これってどう思う?」
健一は、まだ紅牙の背に乗っている瑠璃に、睦月からのメールを見せる。
「……多分だけど、どこかに捕まってるのかも。間違っても睦月お姉ちゃんはこういう悪戯はしないよ」
「だろうね。紅牙はどう思う?」
「ゆ、誘拐だとぉ! ぶっ殺してやる!」
紅牙は興奮し、いまにもどこかへ飛んできそうな勢いだった。
「落ち着きなさい。鬼龍院くんが憤慨して事態が好転すると思うならそこでいきり立ってればいいわ。私たちは知恵を絞って青柳さんを探すつもりよ。それができないというのなら、貴方は勝手に匂いでも嗅いで探すといいわ」
「す、すまねえ」
桃子の容赦ない一言で、紅牙は落ち着きを取した。
「ねぇ瑠璃ちゃん。睦月さんのスマホにGPS機能は付いてるかな?」
「ついてると思う。でもそういうサービスに加入してないから、こちらから探すとなると電話会社に問い合わせないとダメかも……」
「まったく。青柳さんには鬼と一緒に暮らしてるという自覚が無いようね。緊急時なので奥の手を使うわ」
「奥の手って……」
健一は嫌な予感しかしない。
心配そうに見守る健一に桃子は大丈夫よとウインクし、自分のスマホを取り出すと電話をかけた。
「もしもし。陣羽織仙太郎の大事な大事な一人娘の陣羽織桃子ですけど。ええそうよ。お父様とお繋ぎして。もちろん大至急よ。会議中だからできない? ふざけてないで早くしなさい。娘から大事な電話があると言えば済むことよ。それくらいも伝えられないの? 責任を取れないからできない? 誰があなたに責任を取れなんて言ったの? 市民の血税をなんだと思っているのかしら? これはあなたのクビだけじゃ済まないわよ? もう一度だけ言うわ。繋ぎなさい!」
最後は命令だった。
聞いてるこっちが胃が痛くなるようなことを桃子はまくし立てていた。
恐らく警視庁の高官だという父親に電話しているのだろう。
電話に出た職員が可哀想だと、その場に居た全員が思った。
だがその甲斐あってか、しばらくすると。
「あ、お父様。桃子です。お久しぶり。ええ元気よ。お父様もお元気そうでなによりですわ。ええそう。流石はお父様。娘の事をよくご存じで。そうです。少し頼みたいことが。大したことじゃありませんわ。知り合いのスマホ番号をお伝えするので、その位置情報を教えてくださらない? いえ大したことじゃありませんわ。それよりお願いしましたから。時間がかかる? どれくらいですか? そんなに待てません。一〇分待ちます。それでわからなければお父様とはもう口を聞くことはないでしょう。それではさようなら」
桃子はそれだけ言うとスマホを切り、健一のスマホをひったくり、睦月のスマホ番号を父親宛にメールする。
「これでよし。しばらくすれば位置情報の連絡が来るわ」
「す、すげえな。只者じゃないってのは知ってたが、これほどとはな」
「陣羽織お姉さん格好いい」
「えっと。桃子にしてはよくやった。少し見直した。だがかなりやりすぎだろ。父親に対してあの態度は酷過ぎないか?」
「だってあの人、私が健一くんのことを話したら、あろうことか健一くんのことを普通だなって馬鹿にしたのよ? これは報復よ。健一くんには感謝して欲しいくらいだわ」
正直なところ、どこが馬鹿にされたのか、健一にはよく分からなかった。
むしろ普通は健一にとって褒め言葉だ。
こんなことで恨まれる桃子の父親が可哀想になると同時に、嫌われた原因となった自分はさぞ父親に疎まれているだろうなと落胆した。
「全然嬉しくねーよ。むしろオレが嫌われるフラグ立ちまくりじゃねーか!」
「あら、それって健一くんがお父様に“娘さんをボクに下さい”って言うフラグが立ったと思っていいのかしら?」
「いや、立ってない」
「どうしてよ。立ちなさいよ。あ、でもいまはいいわ。夜まで勃つのはとっといて」
「いまはそういう下品な事を言ってる場合じゃないだろ」
「いやだわ健一くん。なにを想像したのか知らないけど、そういうことを言われると本当に期待してしまうけどいいの?」
「いい加減にしないと、折角感心した紅牙たちが呆れちまうぞ」
「いや、俺は大丈夫だ」
「ルリも平気だよ」
「き、きみたちまで……」
がっくりとうなだれる健一。そんな健一たちの前に、一台の自転車が竜巻のように通り過ぎて、急ブレーキをかけた。
「おまたせー!」
自転車に乗ってきたのか透だった。無造作に自転車を置いて、大きな胸を揺らしながら駆けてくる。
続いてタクシーが止まったと思ったら、トリノが降りてきた。
「むっちゃんが誘拐されたんだって?」
これで関係者は一通り揃った。
そうして絶妙なタイミングで、桃子のスマホにメールが届く。
「場所が分かったわよ」
健一たちはGPSの位置情報が示す場所へと大急ぎで向かった。
薄暗い部屋の中で、拘束され椅子に座らされた睦月は、目の前にある大型モニターに表示されたカウントダウンする数字をじっと眺めていた。
睦月は自分が於かれている状況を冷静に分析できるくらいには落ち着いていた。
休日の朝、新聞を取りに玄関先に向かった時に事件は起こった。
いきなり背後ろから抑え込まれ、素早く口を塞がれ、両手と両足を布テープでぐるぐる巻きにされ、口にも何か詰められて車に放り込まれた。
誘拐された? と気付いた時には車中の中で、目隠しをされていたのでどこに連れてゆかれるかも分からなかった。
なにより恐ろしかったのは、睦月を誘拐した人物たちは終始無言なのだ。
睦月を捉えた時も、車中でも無言。仲間たち同士の会話も無い。
いきなり背後から襲われたので、誘拐犯の顔はもちろん、背格好や性別すら良く分からない。
複数人いるらしいことは確かだが、二人以上以外分からず、三人いるか四人いるのか、その気配すら感じなかった。
不気味がドライブが終わると、睦月は車から降ろされ、車椅子のようなものに乗せられて、どこか部屋の中に入れられた。
その余りの手際の良さに、睦月は感心するとともに、営利誘拐でこの手際なら、無事に返してくれるかもしれないという淡い期待を抱いた。
だがその期待は一瞬にして裏切られることとなる。
睦月の目隠しが外れると、暗い部屋の中、一人の男性と思わしき人物が退屈そうに座っていた。
その顔には縁日で売ってあるような鬼のお面をかぶっており、その可愛らしいキャラクターとは裏腹に、落ち着き払った態度が相反して、とても不気味なものに見えた。
それよりも恐ろしかったのは、男の背後にある大型のモニターで、そこには、画面いっぱいに数字が表記され、その数字は刻一刻とカウントダウンしている。
モニターに映し出された数値が残り時間という意味であれば、〇になるまであと六時間足らずである。
目の前の人物は、ゆっくりとスマホを取り出し、じっと画面を眺めている。
やがて、目の前のモニタが暗転し、カウントダウンの数値が右上へ移動し、代わりに文字が表示される。
モニタには『青柳睦月救出ゲーム』というなんとも悪趣味なタイトルが表示されていた。
『一度だけ助けを呼ぶチャンスを与える。誰にメールする?』
そうモニタに表示されると同時に、目の前の男が立ち上がり、持っていたスマホを睦月の目の前に付きだす。
男が持っていたスマホは睦月のモノだった。
てっきり男の私物かと思っていたのに、自分のスマホを見られていたのだ。
誘拐された恐ろしさより、スマホの中身を見られた恥ずかしさで、睦月は死んでしまいたいと思った。
なにせスマホの画面はメールの送信メール作成モードで、少なくとも目の前の男は、睦月のメールを見たかもしれないのだ。
恥ずかしくて俯いていると、不意に睦月の髪の毛が乱暴に掴まれ、顔を上向きに引き上げられる。
「んんっ!」
ブチブチと数本髪の毛が抜ける音が聞こえ、睦月の顔が苦痛に歪む。
痛みでようやく睦月は気付いた。いまは恥ずかしてがっている場合なんかでは無いと。
涙目になりながら男が突き付けるスマホの画面を凝視すると、そこには「助けて」という文面だけが記されていた。
つまりこの文章を誰かに送れというのだ。
この情報だけで助けに来てくれる人物……。睦月は思考を廻らせた。
だが、考える必要は無かった。
なにせ睦月のスマホに登録してある人物で、このような非現実的な事に対応してくれそうな人物は一人しかいなかったからだ。
男は器用に宛先のア行を示し、睦月が頷くと、ア行の候補者を表示する。
そうしてア行の一番最初に登録してある人物が表示されると、そこで睦月は頷く。
男は本当にこれでいいのかというジェスチャーをしたので、睦月は再び頷いた。
男は睦月の目の前で送信ボタンを押し、メールが送信されましたとメッセージが表示されるのを確認後、スマホを持って部屋から出て行ってしまった。
部屋には睦月だけが残され、カウントダウンを告げる数字だけが表示されている。
残り時間は五時間四八分。長いのか短いのか、睦月には判断できなかった。
GPSが示す場所へ紅牙や健一が向かうと、そこは採石場で、今日は休日なのか、重機が数台置いてあるだけで、人っ子一人居なかった。
「どうみてもここには居ないよな。隠れる場所も無いし」
健一は少しがっかりしたように呟く。
「誘拐犯がスマホをここに捨てたのなら、スマホそのものはここのどこかにあるだろうね。探すかい?」
トリノが採石場を見渡しながら呟く。
ここからスマホを探すとなるとかなり時間がかかりそうだった。
「あの~、スマホに電話かけてみればいいんじゃないの?」
不思議そうに透が呟く。余りに当たり前すぎて誰もが忘れていた。というか先入観でスマホの電源が切ってあったり、破壊されていたりを想定したので出てこなかった。
「そういやそうだな。偉いぞ透!」
健一は透の頭をポンと叩くと、睦月のスマホに電話する。とりあえずコール音は鳴っているのでどこかにあるっぽい。
だが、採石場は広くて風も吹いてるので、着信音が聞こえない。
とはいえここに二人、人間の聴力を凌駕した鬼が居る。
「紅ちゃん聞こえる?」
「ああ、だが地中から聞こえるぞ」
「ルリもそうだよ」
瑠璃はそういうと、軽業師のように身軽な動きで採石場の岩場を登ってゆく。
紅牙もそれに続いて採石場を登る。
健一は桃子と透に支えて貰いながら登り、トリノは最後に登ってくる。
「この岩の中から聞こえてくるね」
透が直径二メートルはありそうな巨大な岩の表面をペチペチと叩く。
「あれ、なんか切れ目があるよ」
岩を触っていた透が水平に走る筋のようなものを見付けた。
よく見ると岩は水平に切ってあるようで、上下に分離できるようだ。
「俺の出番だな」
「そうだな。任せた」
「これくらいしか役に立たないんだからしっかりやりなさいよ。失敗したら殺すわよ」
「分かってる。慎重にやるさ」
紅牙は岩を一周ぐるりと回ると、持ちやすそうな場所を探し、両手と腰で岩をホールドし、ゆっくりと持ち上げ、五〇センチほど浮かすと、そのまま回れ右をして岩を下ろす。
「何かあったか?」
紅牙が振り返ると、下の岩には三〇センチほどの窪みが作ってあり、そこにスマホと手紙が置いてあった。
スマホはプライバシーの問題もあるので、瑠璃に預け、中身を確認して貰ったが、助けてというメール以降に触れられた形跡はなさそうだった。
そうして手紙にはこう書かれていた。
『オニはカエレ。イマすぐカエレば、ムスメはタスケテやる』
という内容だったが、紅牙たちが大人しく帰ったとしても、それを誘拐犯がどうやって確認するのか分からなかった。
それに帰るまで睦月は解放されないのか、それすらも良く分からない。
「とりあえず河川敷に行けばいいんじゃないの?」
手紙を横目で眺めていたトリノが、突然そう呟いた。
「トリノ姉さん。何かわかったんですか?」
「いや、分かったというか子供騙しで返って怪しんだけどさ。この手紙の上下に数字があるじゃないか」
中央に大きく文章が書かれていたので気にならなかったが、トリノの指摘通り、手紙の上下の隅に、数字の羅列が記載されていた。
上には31・1234・223・285と書いてあり、下には2・134・003・222と書いてあった。
「ありますね。これって何の数字ですか?」
「いや、普通に考えたら場所を指してるんじゃないの? 上が“さいせきししょ”で、下が“かせんしき”五〇音を数字に変換したごくごく単純なアナグラムだよ。ちなみに中点は無視して二文字づつ変換すればいいよ」
トリノの説明により上の文字列が、“31(さ)12(い)34(せ)22(き)32(し)85(よ)”となる。
そうして下の文字列が“21(か)34(せ)00(ん)32(し)22(き)”となるわけだ。
「これってさぁ、どう見ても愉快犯だよね? トーコの仕込みとかじゃないの?」
「違うわよ。やるなら自分が誘拐されたことにして、健一くんに助けに来て貰うわよ」
「ああそうだった。トーコはやらないね。ゴメンゴメン」
「愉快犯だったとしても誘拐には変わりない。睦月さんの自作自演というには手が混んでて組織的だ。警察に任せた方が良くないか?」
そう健一が進言するや、全員からふざけんなとか、何を言ってるのか意味がわからないなどの罵声を浴びた。
「あのね。健一くん。これは私たちに売られた喧嘩なのよ。そうしてもう買っちゃの。クーリングオフなんてありえないの。分かるかしら?」
「そうだよ健ちゃん。睦月さんは健ちゃんを頼ってメールしたんでしょ? それじゃ可哀想だよ。それにもし攫われたのがあたしや桃子さんで、同じようなことを言ったりするのかと思ったら、とても悲しいよ」
「そ、そうだな。ごめん。オレが全面的に悪かった。前言は撤回する」
「健一お兄ちゃんは間違ってないよ。ルリもそれが一番いいと思う。でもね。できるならルリたちが出来るところまではやりたいと思う」
「うん。分かってる。河川敷に来いってメッセージがあるんだ。行くしかないよね」
健一はお礼の意味も込めて、瑠璃の頭を優しく撫でた。
「にゃっ!」
不意に頭を触られた瑠璃が素っ頓狂な声を上げる。
「にゃ?」
健一が不思議がっていると、透が飛んできて、健一を瑠璃から引き放すように手を引っ張った。
「ど、どうしたんだいったい?」
「駄目だよ健ちゃん。瑠璃ちゃんは髪の毛を触られるのが大の苦手なんだよ」
「えっ! そうだったの? ご、ごめん。知らなかったじゃ済まないけど、本当にごめん」
「健一くんってホント、セクハラの帝王よね。溜まってるのなら私がいつでも相手をしてあげるっていうのに、ロリコンというのは本当だったみたいね」
「健一おまえ、瑠璃なんかがよかったのか?」
「ちょっと待て紅牙!」
それは言ってはいけないだろうと、紅牙の口を塞ごうと健一が行動しようとしたが、それより先に、桃子と透のまるで打ち合わせていたかのようなダブルキックによって、紅牙は採石場の上からたたき落とされていた。
「このバカ!」
「死になさい」
「うわ~~~っ!」
まるで人形のように、紅牙は一〇メートルばかり落下して行く。
ぐちゃっという音が聞こえるが、数秒後には首をさすりながら紅牙は起き上がった。これが健一だったら恐らく即死だったろう。
「け、健一お兄ちゃん。髪の毛のことはね、気にしなくていいよ。ルリそんなに嫌じゃなかったから……」
と言っている瑠璃だが、ポロポロと泣いているので、健一の罪悪感はピークに達してしまった。
「すいませんでした。坊主にでもなんでもするので、許して貰おうとは思わない、恨んでも構わない、殴っても良いから、とにかく泣きやんで」
健一は土下座しながら謝罪を続ける。
「ち、違うんだよ。ルリが泣いてるのは……」
「そうよ。あの下で首をひねってる朴念仁が原因よ。だから健一くんは関係ないわ」
「そうだよ。無神経にも程があるよ。あたしだって健ちゃんに“透なんか”って言われたら泣いちゃうよ」
「ああ、やっぱりそっちか」
「健一くんは分かってて選ばずにじらすという高度なテクニックで私たちを翻弄してる女たらしだけど、鬼龍院くんは女心の初歩の初歩すら知らない愚鈍とも呼べる鈍さだから青木さんも苦労するでしょうね」
「そろそろ行こうよ。ムッちゃん放置しててもいいなら構わないけど」
「そうだった。急ごう」
健一たちは紅牙と合流し、河川敷へと向かった。
河川敷に向かう途中、健一は瑠璃に呼びとめられた。
そうして頭を触られたことは気にしていないから大丈夫ということと、過去に瞳の色でからかわれて髪の毛を引っ張られるとう苛めを受けたから触れられるのが嫌になっただけで、優しく撫でられる分には気にならないと言ってくれたので、少しだけ気が楽になった。
「オレさ、瑠璃ちゃんのこと余り知らないから睦月さんを応援するよって言ったんだけど、今後は何も手出ししないっていうか、いままでも大したことはしてないんだけど、とにかくどっちかに肩入れするってことはないから」
「うふふ。健一お兄ちゃんも意外と何も知らないんですね。ルリの最大のライバルは陣羽織お姉ちゃんで、睦月おねえちゃんじゃないんだよ」
「えっ! それって紅牙が桃子に……」
「うん、そーだよ。見てて分からなかった?」
「わかりませんでした」
「健一お兄ちゃんもまだまだだね」
瑠璃はそういうと、紅牙の元に走って、その太い腕につかまって笑いかける。
そんな甘えた瑠璃に対し紅牙は仕方ないなという表情をしながらも、笑顔を返す。
それは恋人という距離間ではなく、仲の良い兄妹にしか見えなかった。
河川敷に着いてはみたものの、河口から河上まで軽く数十キロはある。河川敷と言える場所だけでも相当な距離があり、ここで何を探せばいいのかすらよく分からないので、半分詰んだようなものだった。
「陣羽織お姉さん。さっきの手紙を見せてください」
「いいわよ」
瑠璃は桃子から手紙を受け取り、じっと見つめていた。
「何か分かった?」
「うん。恐らくだけど、この数字って少しいい加減だけど、おおよその場所を示してるんじゃないかな?」
瑠璃が言うには、31・1234・223・285とは、31.1234と223.285に該当し、小数点を無視して川幅が31で、河口から223メートルのところに辺り、2・134・003・222は、2.134と3.222となり、そこにある物体の大きさを表しているのではないかということだった。
闇雲に探しても意味が無いので、その説を根拠に、他の解釈も一通り試し、恐らく3通りくらいの意味を持つだろうということになり、3組に分かれて行動し、何か見付けたら連絡することにした。
紅牙と瑠璃はスマホを持っていなかったので、紅牙と透、瑠璃と桃子、健一とトリノに分かれて探すことにした。
ちなみにグループ分けで一〇分ほど無駄にしている。
桃子と透はトリノと組むのを嫌がり、トリノは紅牙と組むのは面倒だと言い、瑠璃は瑠璃で紅牙と桃子が組むのは駄目だというので、消去法でこのような組み合わせになった。
三組はそれぞれ数字の組み合わせで意味のありそうな場所へ向かった。
健一たちは確率的に低いと思われる場所の探索だったので、トリノのテンションは低い。
「姉さんそんなにダラダラしてたら日が暮れますよ?」
「どうせトーコたちが見付けるんだからいいじゃんか」
健一自身も瑠璃の直感と桃子の運の強さを知っているので、組み合わせ的にも大本命だとは分かっていた。
「念のためですよ。姉さんはここで休んでていいですから一応見てくるだけ見てきますね」
「おい、ちょっと待てよケンイチ! ボクをこんなところに置いて行くつもりかい」
トリノは生意気な口を聞くが、その実かなり臆病で、暗いところはもちろん。このような人気のない場所をかなり怖がる。
「怖いんだったら一緒に行きましょう」
「疲れたよ。ボクの一日に稼働できる距離を二倍以上オーバーしてるんだよ。これ以上は歩けないよ。タクシー呼んでよ」
河川敷内をタクシーが走ってくれるとは思わなかったが、トリノは梃子でも動きそうにない。置いていけば泣き叫ぶだろう。
「分かりましたよ。背負ってあげますから乗ってください」
「どさくさにまぎれてお尻や太股を触ったりするだろう?」
「どさくさというか必然的にそうなりますね。ていうか姉さんそういうの気にする人でしたっけ?」
「だってケンイチはロリコンなんだろ? ボクもほら、ロリロリだから、ケンイチがそういう性癖があるって知って触れられるとムズムズするんだよ」
「オレはロリコンじゃありませんよ。百歩譲ってそうだったとしても、姉さんは論外ですから」
「そのボクは論外って言っちゃう辺りが怪しいんだよ。ロリボディ的には瑠璃タンも凌駕するこのボクの低身長かつツルペタにロリコンが反応しないわけないだろ」
「無茶苦茶な論理ですね」
「事実だよ。実際にボクが私服で歩く姿はね。ロリコンホイホイ状態なんだぞ。何度誘拐されそうになったことか」
「誘拐ってマジですか?」
「そーだよ。だからムッちゃんの気持ちはよくわかるよ」
「だったらちゃんと探さないとマズイでしょ」
「そうだった! やろうケンチイ!」
「行きましょうトリノ姉さん」
トリノがやる気を取り戻したと思ったら、絶妙なタイミングでスマホが鳴る。
「……電話だよケンイチ」
「そうですね」
「見付かったわよ。油売ってないで早く来なさい的な内容に全財産をBETするよ」
「オレもですよ。賭けが成立しませんね」
健一が電話に出ると、案の定次の手紙が見付かったから早く来いという内容だった。
そのことを健一はトリノに説明すると、だから探す必要はないと言っただろう的な仕草で健一を伺い、自分をおんぶして運べと要求した。
トリノの格好はショートパンツというか半ズボンにノースリーブの白いブラウスだったので、パンツが見えることは無いだろうから、健一は仕方なくトリノをおんぶした。
左手が使えないので、右手だけで支えるという変則的な抱っこになった。
密着しても胸というか骨が当たって背中が痛いくらいだった。お尻も肉つきが悪いので、尾てい骨のとがった部分が腕に食い込んで居たかったりする。
少なくとも気持ちよいものでは無かった。
ただまあ空気みたいに軽かったので、楽に運べるのは助かった。
トリノを背負ったおかげで集合場所に遅れた健一は、桃子に散々嫌味を言われることになった。
そうして採石場と同じく、大岩の間に挟まれていたものは、封書に入った紙と、よくある緑色の網の切れ端だった。
「なんだいこれは? ボクたちをバカにしてるのかい? それともミスリードでも狙ってるのかい?」
「そうですね。オレでも分かるくらいですから」
「えっ、みんなわかってるの?」
「大丈夫だ。俺も分からん」
「普通に考えれば、網はネット、インターネットか何かを指してるんでしょう」
「手紙の方は?」
手紙にはバツ印が何個か付いており、それがURLか何かを示すヒントとなっているのだろう。
「こんなのIPアドレスを抽出するための間引きサインってことだろ。例の数字はIPアドレスも内包してるのさ。FTPのアカウントだろうから、ひょっとしたらパスワードが必要かもしれないけど、どうせパスワードは“オニはカエレ”とかそのあたりだよ」
「そうすると後はパソコンか。スマートフォンからではできないかな?」
「出来るけどアプリとかインストールしなくちゃいけないな」
トリノは自分のスマートフォンを取り出すが、瑠璃がパソコンを持ってると進言し、スマートフォンより少し大きなモバイルPCを取り出し、素早い指の動きで、IPアドレスとパスワードを何度か組み合わせ、あっさりと合致する。
そのFTPサーバーの中には画像ファイルが数枚入っていた。
瑠璃はその画像を保存し、ビューアで皆に見えるよう表示する。
するとそこには拘束された睦月の姿と、巨大モニタに移ったカウントダウンの数値、それから地図の画像があった。
カウントダウンの数値と、画像を撮影したタイムスタンプから現在の残り時間を算出すると、あと二時間半も残っていない。
残り時間もさることながら、睦月が本当に誘拐されており、思った以上に酷い扱いを受けていると知った健一たちは、一気にやる気を取り戻した。
「地図の場所は!」
「ベタだけど貸し倉庫みたいだよ。ここからだとタクシーで四〇分くらい。電車やバスだと一時間くらいかかるよ」
「オレが走ればどれくらいだ?」
紅牙が瑠璃に問う。
「紅ちゃんだけなら二〇分。ルリの足なら三〇分だよ。紅ちゃんが誰かを担いでルリと同じくらいだから、三人までなら三〇分で着けるよ」
「オレが……」
「私が行くわ」
健一の肩を掴んで後ろに下げ、桃子が一歩前に歩み出る。
「これは遊びじゃないんだぞ?」
「健一くんこそ私より弱いくせに何様のつもり? 王子様役をやりたいんでしょうけどまだ駄目よ。その域に達してないわ。それに怪我だってまだ治ってないじゃない。どうしても行くというなら私を倒してからにして」
桃子が健一の前に立ち塞がり、軽く構える。
この状態になった桃子は例え相手が健一だろうと容赦ないだろう。
「わかったよ。とても勝てそうにない。透たちと後から行くけど、くれぐれも無茶はしないでくれよ」
「それは私の心配をしてくれてるってことかしら?」
「それもあるけど、人質になってる睦月さんを犯人が傷付けたりしないか心配だよ」
「そんなことを心配してたの? 大丈夫よ。誘拐犯は絶対に青柳さんに手を出したりしないわ」
「その根拠は?」
「勘よ」
健一は呆れ顔で桃子を見ていたが、瑠璃も大丈夫と太鼓判を押したので、なんとなく大丈夫な気がしてきた。
「健一くん。出発する前に一つお願いがあるのだけれど」
「あまり聞きたくないけどなに?」
「失礼ね。ちょっと私をお姫様抱っこしなさい」
「……ハァ?」
いつも唐突に変なことを言うので、この程度の言動には慣れていたつもりだったが、割と非常事態ないま言うことではないような気がした。
そもそも健一はギブスこそ取れたとは言え、まだ骨がくっついたばかりで左手の筋力はかなり落ちている。
さっきトリノを背負ったのは、軽かったのと片手でなんとかなったからで、お姫様抱っことなると、両手を必ず使う訳で、ギブス取れたれの健一にはかなり苛酷な要求だった。
「ハァ? じゃないわよ。いまから私の珠のお肌を、一時的とはいえ鬼龍院くんに預けるのよ。私、初めてはなんでも健一くんじゃないと許せないの。わかるでしょう?」
言いたいことはなんとなくわかったが、普通なら恥ずかしくて赤面しそうなことをこうも臆面なく行ってしまう桃子の神経には呆れると同時に清々しさを感じた。
「つまりオレが桃子を抱っこすれば丸く収まるわけだな」
「その通りよ。前に言ったと思うけど、私、一度されたことには免疫が付くの。だからお姫様だっこも健一くんが最初じゃないと嫌なのよ」
そこまで言われるともうやるしかなかった。
健一はこれ見よがしに腕の三角巾を取り外し、桃子の前に立つ。
そうして首を少しかがめて桃子の腕を首に巻き付けて貰うと、背中と膝裏に手を伸ばして持ち上げた。
思った通り、左手に激痛が走る。
「いてててて……」
「リハビリだと思って我慢しなさい」
健一にとってみれば公衆の面前での罰ゲームだったが、桃子は満足したらしく、眼を瞑って抱っこされる自分に酔っていた。
一分くらい抱っこしていただろうか。
怪我した状態の健一にとっては永遠にも似た苦痛の時間で、これ以上は限界だった。
せっかくくっ付いた骨がまた外れてしまいそうで、実際ミシミシと音を立てている。
「もう充分だろ。マジでもう限界だ」
健一は左腕が限界になってきたので、そろそろ降ろそうとしたが、桃子は首に回した腕の力を強めて抱きついてくるので放せない。
「桃子さん。いい加減にしてください。健ちゃんまだ怪我治ってないんですよ」
我慢の限界にきたのは健一じゃなく透で、無理矢理腕を外そうとしたので、バランスを崩して三人とも転んでしまった。
「凄いなケンイチ。ラッキースケベどころの騒ぎじゃないぞ」
トリノが三人の状況を分析し、そう感想を述べる。
健一は桃子と透の二人に跨るように覆いかぶさり、右手は桃子の胸を、左手は透の胸を掴み、両膝はそれぞれの股間に触れるか触れないかくらいギリギリの位置で二人の太股と絡み合っていた。
「あら健一くん大胆ね。いいわ。健一くんが望むなら何処だって、誰に見られても平気よ」
「けけけ、健ちゃん。む、胸に、て、手が……」
「イテテテ、わ、悪いとは思うが動かないでくれ。腕が折れそうだ」
「あっうん。わかった」
健一の怪我のことを思い出した透は、恥ずかしさより健一を気遣う気持ちが勝り、その場でじっとしていた。
「紅牙ぁ~。見てないで助けてくれよ~」
にっちもさっちもいかないというか身動きすれば大惨事になると分かっている健一が情けない声を上げる。
「紅ちゃん助けてあげて」
「ああ。羨ましいはずなのに、なぜか可哀想に思えるのは何故なんだろうな」
「そりゃ実際に可哀想だからだよ。でもケンイチは凄いよ。桃子に絡まれた連中の中で、ここまで付き合ってこれたのはマジリスペクトものだよ」
「ああ、そこは同意する」
紅牙はそう呟きながら、健一を軽々と抱き抱えると、普通に立たせてやった。
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