エピソード1 四章(桃子2) 通算25話
左上腕部の単純骨折を筆頭に、全身打撲と無数の裂傷を負った健一には、全治一ヶ月という診断が下された。
これは骨が癒合するまでの期間で、完全に動かせるようになるには更にもう一ヶ月くらいかかるとのことだった。
骨折したのが左腕のみだったので、二日間の検査入院後に退院となるが、当然ながら左腕は当分使えそうになかった。
日常生活に多少の不便は生じるが、利き腕と両足が無事なのでなんとかなるだろう。
それに不便なのを良いことに、桃子や透があれこれ世話を焼きそうな予感が健一にはあった。そのことを嬉しく思う反面、恐ろしくもあった。
とりあえず金曜に入院したので日曜には退院でき、月曜からは学校に行けそうだった。
運がいいのか悪いのか。
特進クラスの健一は、届けさえ出せば登校しなくても出席扱いになるという特権があったので、入院しててもここで勉強していれば良かった。
ただ、学校以外の場所、例えば家だと、桃子や透が必要以上にからんでくるので勉強どころではなくなってしまう。
そんな理由もあり、出来る限り学校には登校しようと健一は決めていたので、日曜退院は割とありがたかった。
それともう一つ。
入院が長引けば、いま目の前で起こっているようなことが頻繁に繰り返されそうなので、できるだけ早く退院したいと願っていた。
「さあ健一くん。大きく口を開けてね。はい。あ~~~~~~ん」
けだるい午後の昼下がり。
陣羽織桃子はどこから調達してきたのか、淡いピンク色のナース服を着用し、健一のベッドに腰掛けていた。
そうして一口サイズにカットしたリンゴを自分の唇で軽く咥えると、健一の口元に運んでいた。
リンゴを剥いた傷跡をアピールしているのか、桃子の両手には包帯がぐるぐると大袈裟なくらい巻いてあり、少し血が滲んでいるようだった。
唯一自由になる健一の右手は、文字通り桃子の尻に敷かれており、動かすと桃子が変な声を上げるので、動かすことが出来ない。
そうして桃子の両腕は肩と腰にたすき掛けするように回され、背中でがっちり握られているので逃げ場はなかった。
「おまえ楽しんでるだろ?」
「ん~~」
口にリンゴを含んでいるので返事ができない桃子は、返事の代わりに頷きながら、ほとんど無理矢理リンゴを健一の口にねじこんだ。
なんとか桃子の唇を触れずにリンゴをキャッチした健一は、味もそこそこ殆ど丸のみしてしまった。
「どうかしら? 美味しかった?」
「味わう暇なんて無かったよ」
「そうなの。でも早食いは身体に悪いわよ。噛むのが面倒なら、最初にそう言ってくれれば手伝ってあげるのに。こう見えても私、怪我人にはとても優しいのよ」
桃子はそう言うと、カットしたリンゴ数個を口に含み、健一の耳元に自分の顎が触れるくらい近付いて、ゆっくりと咀嚼を始めた。
シャリ、シャリ、シャリ、とリンゴを咀嚼し、口腔内ですり潰す音が、健一の耳元に響いてくる。
三〇回ほどねっとりと咀嚼した後、桃子は口内にてすり潰したリンゴを健一の口元に近付ける。
桃子の頬には咀嚼の途中で少し溢れたリンゴの果汁が一条の線を描いていた。
リンゴの甘い香りが桃子の唇から健一の鼻腔に流れ込む。
「ちょ、ちょっとまて、それはまずい。そのプレイはレベルが高すぎる!」
だが、桃子は問答無用とばかりに動けない健一の唇に自らの唇を重ね、舌で唇をノックして口を割らせ、そこへ咀嚼したリンゴを少しづつゆっくりと流し込んだ。
「んっ、んっ、んん~ん~~」
桃子と健一の頬に、上手く移せなかったリンゴの果汁が滴り落ちてくる。
桃子は自分の頬の汁を指で拭うとその指先を健一にしゃぶらせ、自分は健一の頬の汁を舌で舐め取った。
「美味しかったかしら?」
ここで美味しいと言わなければ、まだまだ続けられそうなので、健一は「大変おいしく頂きました」と丁寧にお礼を述べた。
その返事を聞いた桃子は少し満足したのか、ベッドから立ち上がって、備え付けの椅子に腕と足を組んで腰掛ける。
丈の短いナース服からむき出しになった桃子の細くて長い太股は、白いストッキングとの相乗効果でとても色っぽかった。
「いや~面白かったよケンイチ。それにしてもトーコの変態指数はうなぎ上りに磨きがかかってるね。前はレベル一二くらいだったけど、今はもうレベル三〇はあるよ」
桃子の行為を止めるでもなくじっと観察していたトリノがやや呆れ顔で呟く。
ほんの数分前まで、この病室の見舞い客は透と睦月とトリノの三人だけしか居なかった。
桃子が居なかったので安心したのか油断したのか、透と睦月が売店に行った直後、まるで居なくなるのを待っていたかのようにナース服姿の桃子が現れた。
そうしてトリノに、
「キジってどうして死んでしまったのかしら?」と、独り言のように問う。
「そりゃあ黙ってられずに鳴いたからだよ」と、トリノが答えると、後はアイコンタクトだけでトリノに黙って見ていろと因果を含めたらしい。
そうして出来た空白の時間を利用したお見舞いという名の口虐行為が行われたのだ。
「いきなりナース服で現れたと思ったらこの仕打ちかよ。レベル高すぎだろ!」
「これはお見舞いであると同時に罰でもあるのよ。健一くんが私に断りも無く外出した揚句、骨折してしまうのがいけないのよ。しかもその理由は転んだからですって? まったくちゃんちゃら可笑しいわ。ふざけてるとしか思えないわ」
そう言われると、健一には返す言葉も無かった。
実際、昨日健一が病院に担ぎ込まれたのを知って駆け付けてきた桃子の表情は、今にも泣きだしそうで、崩れ落ちそうで、命に別状はないと聞くまでの間は、顔面蒼白で死人のように精気が無く、終始震えていた。
健一としてはもう二度と見たくない、桃子の意外過ぎる一面だった。
対照的だったのが透の反応で、病院到着までは桃子と同じく必死だったが、健一の様子を一目見ると、大したことが無いと分かったのか安堵の息を洩らし、後は普通にしていた。
柔道をやっていたので、怪我などには免疫があるのだろう。
「うん。まあ昨日は心配かけて悪かったよ」
「まったくよ。おかげで寿命が一日縮まってしまったわ。どう責任をとってくれるの? “わかった結婚しよう”なんてベタな責任の取り方じゃ許さないわよ。でもそれしか思いつかないというのなら仕方ないわ。結婚しましょう」
矢継ぎ早に桃子がまくしたてる。
「あのさ、それって寿命が縮まったとはいわないんじゃないか?」
結婚云々を綺麗さっぱりスルーして、健一は寿命の扱いについて異議を申し立てる。
「そんなことはないわ。それより健一くんのお陰で少し寝不足で疲れてしまったわ」
桃子は身を翻して、ベッドに潜り込み、そのまま横になった。
こんなところで眠られても困ると言っても聞くようなタマじゃないので、健一は脇で眠る桃子を居ないものとして、脇で笑いを堪えているトリノを軽く睨んだ。
しばらくすると、病室に透と睦月が戻ってきた。
二人が居る位置からはちょうど桃子は死角となっており、トリノの方に回り込まないと気付かれないだろう。
とはいえ黙っていても良い事は何も無いので、桃子が居ることを話そうと健一が思った瞬間、透と睦月の後ろから、帽子を被った大柄な男性と小さな女の子が入ってきた。
紅牙と瑠璃の二人だった。
そうして病室に入った紅牙が帽子を取ると、顔のあちこちに青あざや擦り傷が出来ており、一言で言えばボコボコにされていた。
重たい木刀の一振りでさえ楽に跳ね返す。そんな強靭な身体を持った紅牙が、これほど傷付くなんて健一には考えれなかった。
そんな健一の疑問は紅牙の発した言葉ですぐに氷解する。
「陣羽織に全部バレてシバかれた」
紅牙そう言うと健一に向かって深々と頭を下げた。
――話は数時間前に遡る――
陣羽織桃子は勘が鋭い。直感タイプであると同時に、思考タイプでもある。
二つのハイブリッドで、右脳左脳を並行処理できる、実に優れた頭脳を持っていた。
また、何かを取り繕うような嘘ならすぐに見抜ける。
「道路を暴走する車をよけようとしたら派手に転んで骨折してしまった。アハハ」
という健一の見え透いた言い訳など全く信じていない。
健一が嘘をついているのは明白だったので、信じる信じない以前の問題だった。
そうして睦月を送り届けることを透から間接的に聞いた桃子は、すぐに紅牙が事件に関与している疑いを立て、それを前提に、いくつかの仮説を立て、一番シンプルで分かりやすい答えである、紅牙が健一に嫉妬して襲いかかるという結論を下した。
もちろん答えが分かったからと言って、それを健一に突き付けたり糾弾しようとは思っていない。
ただけじめは取らないといけない。
陣羽織桃子は舐められるわけにはいかないのだ。
どのような理由があったにせよ、仲間を、愛する人を傷付けれて平気でいられるほど、温和な性格では無い。
桃子はほとんど寝間着のような格好で飛び出して来たので、夜が明ける間に一度家に帰ることにした。
ベッドで眠る健一を名残り惜しみながら帰宅し、熱いシャワーを浴び、動きやすい格好に着替えると、すぐに青柳家へと殴りこんだ。
そうして、玄関先で声を張り上げ紅牙を呼び出す。
出てくるまで何度も叫ぼうと思っていた桃子の意を知ってか知らずか、意外にも紅牙はすぐに表に出てきた。
まるで待っていたかのように準備が整っていた。
「来てくれてありがとうって顔をしているわね。一度だけしか尋ねないから心して答えなさい。返答次第では人間と鬼族との全面戦争も有り得るわ」
「陣羽織が来るだろうってことは大体わかってた。それで尋ねたいことってなんだ?」
「私が聞きたいことは一つだけ。健一くんを怪我させたのは“誰”かしら?」
「健一が誰かにやられたと言ったのか?」
「言うわけないでしょ。健一くんを侮ったりした殺すわよ」
「だよな。健一の腕を負ったのは陣羽織の予想通り“俺”だよ」
即答だった。
紅牙なりに考えた上での結論であり、桃子が望むなら腕の一本でも切り落として差し出す覚悟を持って答えた。
「しらばっくれるかと思ったのに残念。嘘がつけないという性格も時には困りものね。もうひとつだけ尋ねるわ。さくっと白状して罪悪感から解放されたかったのかしら?」
「そうじゃない。誤魔化せるなら誤魔化してた。そうすることが俺の罪だからな。たけどよ、例え世間は誤魔化せても、陣羽織だけは誤魔化せないって確信してたよ」
「どうしてそう思ったのかしら? 気になるから答えてちょうだい」
「そりゃ陣羽織が健一のこととなると見境がなくなるというか、例え健一が俺を庇ってもお前は真犯人を突き止めるだろうって思ってたよ。だから来てくれてホッとしてる」
「いいの? 私は鬼龍院くんを手加減抜きでぶん殴ろうと思ってやって来たのよ?」
「上々だ。それで構わない。気が済むまでやってくれ。陣羽織が俺を傷付けられないときは、自分で自分の腕を折る」
「大丈夫。それには及ばないわ。殴りやすいように、ちょっとそこに正座しなさい」
「わかった」
紅牙は正座をする間、桃子は肩に担いだ大きなバックを地面に放り投げ、その中から木製バットを一本取り出し、まずは挨拶代わりに紅牙の側頭部にフルスイングした。
まるでティーバッティングでもしてるかのような、迷いのない一振りだった。
ゴキッ! という鈍い音と共に、バットがへし折れ、破片が地面に転がってゆく。
紅牙は苦痛に顔をしかめているが、バットで殴った箇所には何の変化もない。
「ふう。やっぱり木製じゃ駄目みたいね」
手元に残った割れた木製バットを投げ捨てる桃子。
そうして今度は金属バットを取り出し、木製バットの時と同じようにフルスイングする。
キィン! という音と共に、桃子の両腕に強烈な痺れが走る。
金属バットは少し歪んでいたが、折れてはいない。
紅牙は筋肉の少ない個所を殴打されたので、結構痛かったようだ。
それに、うっすらとではあるが、内出血したらしく、皮膚が青白くなっている。
「このような形でというのが非常に残念だけど、ようやく鬼龍院くんに傷を負わせることができたわ」
「なあ。これで満足したわけじゃないんだろう?」
「当たり前よ。両手の握力が無くなって、手の皮が擦り剥けるまで殴り続けるから覚悟しなさい」
桃子の宣言通り、金属バットによる殴打が続く。
力任せのフルスイングにより、やがて一本目の金属バットがデコボコになって折れ曲がってしまう。
木製バットと同じく、一本目の金属バットを放り投げ、二本目の金属バットを取り出すと、休む間もなく殴打を開始した。
二本目、三本目と遣いものにならなくなったバットを交換し、ゴルフクラブや鉄パイプ、モンキレンチにケーブルカッター等、桃子が入手できるあらゆる凶器によって紅牙を殴り続け、紅牙もまた黙って殴られ続けた。
三〇分くらい経ったであろうか。
桃子の両手は自らの血で真っ赤に染まり、得物を握る握力も失われていた。
何度も得物を握ろうと大型プライヤーに手を伸ばすが、握ることはできず、血で滑って持ち上げることもできなくなっていた。
紅牙も首から上の打撃は堪えたようで、鼻の骨は折れ、擦り傷や青タン、瞼も幽霊みたいに腫れあがっていた。
「どうやら命拾いしたようね」
「ほ、本当に手加減無しだな。お、鬼でもここまで容赦なく攻撃してきた奴はいないぞ」
「とりあえず、今日のところはこれくらいで勘弁してあげるわ。でも私は貴方を絶対に許さないからそのつもりで」
桃子の絶対に許さないリストに紅牙もその名を連ねた。
一番最初に桃子の許さないリストに書き込まれたのは、他でもない犬飼健一だった。
つまり、桃子はある意味紅牙を認めたのだ。
「それ、捨てといてちょうだい」
桃子はグシャグシャになった凶器の残骸を血に濡れた指で差し、再び病院へと向かうべく歩き始めた。
「なあ陣羽織! 俺も健一の見舞いに行ってもいいか?」
「面白い事を尋ねるのね。怪我させた張本人が謝罪はおろか見舞いに来ないなんて許されると思ってるの?」
桃子は振り向きもせず、そう吐き捨てる。
「わかった。すぐに支度して行くよ!」
紅牙は血にまみれた凶器を、桃子が持ってきたバックに収納して片付ける。この血が桃子のか紅牙のかは分からない。なにせ鬼も同じ赤い血をしていたからだ。
凶器を全部片付けた紅牙は、家に戻って見舞いに行く準備を始めた。
――そうして話は病院内へ戻る――
桃子の両手が包帯まみれだったのは、リンゴを剥いて手を切ったなんて甘酸っぱいものではなく、紅牙を殴り続けて手の皮が剥けてしまったという、なんとも血生臭い理由だったのだ。
「桃子の包帯って……」
隣で眠っている桃子を見下ろしながら、健一は呟く。
「誤解よ健一くん。これはリンゴを剥いた時に怪我したのよ。てへっ」
眠ったままの姿勢の桃子が、まるで誤魔化すつもりが無いくらいの棒読みでそう答えると、ベッドから上体を起し、大きく伸びをする。
「と、桃子さん。どこで寝てるんですか。ずるいじゃないですか」
「だって仕方ないじゃない。健一くんが寂しがるから添い寝をしてあげてたのよ」
「けっ健ちゃんのさびしんぼ!」
「信じるなよ」
そんな三人のやりとりを見ていた睦月は、なんだか敵わないなぁと思った。
睦月だけじゃなく、紅牙や瑠璃も桃子の所業に驚いて、目を見張っていた。
「それにしても酷い顔だな紅牙。どうやったらここまで痛めつけられるんだ?」
「簡単よ。殺すつもりで殴ったからよ」
真顔で恐ろしい事を言う桃子に、病室に居た全員が戦慄した。
「陣羽織桃子!」
紅牙が一歩前に進んで桃子を呼ぶ。
「なにかしら? それから一言いっておくけど、鬼龍院くんにフルネームで呼ばれるほど、私の名前は安くないのよ?」
「それは済まなかった。あと、勝負は俺の負けだ。完敗だ」
「何を言ってるのかしら? 健一くん通訳してくれる?」
「いや、オレもよくわからん。瑠璃ちゃんわかる?」
「えっ! えと……。わかんない」
消え入りそうな声で瑠璃が呟く。
「つ、つまりだな。体力や筋力では俺が勝ってるが、精神面で負けたんだよ。こいつにはとても勝てないと思った。だから俺の負けだ」
紅牙と桃子とでは力の差は歴然で、紅牙は少し本気を出せば桃子など一瞬で病院送りとなるだろう。
それでも桃子は何度も挑戦してきた。きっとこれからもするだろう。
そうして今日、勝負だったわけではないが、桃子の本気を、心の強さを目の当たりにし、自分の精神はまだまだ未熟で、桃子の域にはまるで達してないと紅牙は悟ったのだ。
そのようなことを、拙い言葉で紅牙は皆に説明する。
「負けを認めるのは構わないけど、本当にいいの? 後悔しても知らないわよ」
「大丈夫だ。鬼に二言は無い」
「おい紅牙やめとけ、こいつ絶対なにか企んでるぞ」
「健一くんは黙っててくれないかしら? でないとお注射しちゃうわよ。もしくは健一くんが私に注射してもいいのよ」
まるで胸をおしつけるかのように、桃子は健一の背中にもたれかかり、耳元でそう囁く。
「だ、黙ってるから勘弁してくれ」
「ありがとう。それでは負けを認め全面降伏した鬼龍院くんは私たちの軍門に下って貰うわ」
ろくでもないことを言いだし始めたと、健一はそのままがっくりと俯いた。
「どういうことだ? 陣羽織の手下になれというのか?」
「手下だなんてそんな乱暴な表現はやめて欲しいわね。部下よ」
「同じ事だろ。いいか紅牙。負けたからってこちらの条件に従う理由は無いんだ。まともに取り合うなよ」
そう健一が提言するが、くそ真面目な紅牙には効果がなかったようだ。
「わかった!」
紅牙はあくまで潔く、堂々たる態度で頷いた。
困ったのは瑠璃で、軍門に下るということは、紅牙が奥賀高から吉備津学園に転校する可能性を真っ先に考え、紅牙のシャツの裾を思い切り引っ張って駄目だとアピールしたが、気付いて貰えなかった。
そこで瑠璃が取った行動は病院内に居る全員を驚かせた。
なんと瑠璃は桃子に突撃したのだ。
健一の背中にいるので、実際は健一にぶつかるような形で背後の桃子の髪の毛を掴もうとするが、その動きを予測した桃子は簡単にかわし、逆に瑠璃の両手首を掴んだ。
「やぁ。いたい~」
「奇遇ね。私も少し痛いわ」
瑠璃の手首を握る桃子の手に巻かれた包帯からジワっと血が滲んでくる。
つい数時間前に紅牙を殴り過ぎてすり剥けた手で、暴れる瑠璃の腕を掴んだので傷口が開いたようだ。
「なにしてんだ瑠璃!」
紅牙が瑠璃を羽交い絞めにして桃子から引き剥がす。
宙に浮いた瑠璃は、紅牙が居なくなるのは嫌だと泣き叫んでいた。
「あのね青木さん。何を勘違いしているか知らないけど、別に部下になったからと言って転校してこいなんて言ってないわよ。そもそもこんな鬱陶しいのが近くに居られると、殴りたくなる衝動を抑えられなくなって情緒不安定になりそうじゃない」
「いやいや、大丈夫だよ。トーコは常に情緒不安定だから、逆に安定するかもよ」
ギャハハと笑いながらトリノが冷やかす。
「本当なの?」
宙ぶらりんの瑠璃が、桃子に問いかける。
「本当よ。そんなことよりも、その捨て猫みたいな瞳で見つめないでもらえるかしら。まるで私が悪者みたいじゃない」
「…………」
「悪者みたいじゃなくて悪者そのものだろ? 冗談抜きでトーコくらい悪役が似合う女は居ないよ。なんかヒーロー物のTV番組とかに出てくる悪の女幹部役がぴったりだよ」
皆が絶句し、誰もが思ってても言わなかったことを、トリノがあっさり口にする。
その後、トリノと桃子が互いを口汚く罵り出し、エスカレートしてきたところに音も無く現れた病院の看護師長に、静かに怒られ、患者の健一と、健一の身内に近い人物で大人しくしていた透以外は、病室から締め出された。
透は看護師長のナイスな判断に感謝し、久しぶりに健一と二人でのんびり過ごせる時間を満喫することにした。
本来なら余裕で拒否する食べ物の介助(はい、あ~ん)も、先の桃子の口移しに比べたら児戯みたいなものなので、素直に透にやって貰う。
健一も楽だし、透も幼馴染の本懐ともいえるイベントをこなせたので、どちらも満足、まさに一挙両得な行為であった。
病院から締め出された桃子たちは、見舞いという目的を一応は果たしたので、これ以上慣れ合うことも無いだろうと、その場で解散することになった。
解散の理由の一つとして、昨日から一睡もしていない桃子の疲労が、そろそろ表面に出始めてきてたということが挙げられる。
人前で欠伸をするなど“おなら”や“げっぷ”と同じくらい恥ずかしいことと思っている桃子にとって、これ以上欠伸を我慢するのは限界に近かった。
先程一瞬だけ健一の隣で眠っていたが、あれは横になっていただけで、意識ははっきりしていたのだ。
「鬼龍院くんには勝ったけど、まだ青木さんとの勝負が無効になったわけじゃないのよ。ちゃんと日程を決めて連絡してよね」
桃子はそれだけ言うと、雑踏の中へと消えて行った。
それに続いてトリノも瑠璃と睦月に今度デートしようと手を振りながら帰って行った。
病院前に取り残された紅牙と瑠璃、それに睦月は、これからどうしようかとお互いに尋ね、家に帰ろうと言う三人共通の意見を採用し、てくてくと家路に着いた。
家にたどり着くと、紅牙は神妙な顔つきで、睦月の手当てを受けていた。
よくよく考えたら病院に見舞いに来た時に診察して貰えば良かったのだが、そこまで気が回らなかった。
手当てといっても消毒液を傷口に吹きかけ、埃や泥を落としてゆくだけの単純な作業で、手当てと呼ぶレベルではないのかもしれない。
それでも、自分でやるよりは、遥かにマシだろう。
「どうやったら紅牙くんに、ここまでの怪我を負わせられるのかしら」
紅牙の怪我は、切り傷の血は既に止まっていたが、青アザやたんこぶは、まだ無数に残っていた。
「聞かない方が身のためだぞ」
紅牙が普通の人間だったら百回は死んだであろう殴打を、躊躇なく繰り出してきた桃子の姿はまるで鬼神で、紅牙は思わず身震いした。
『人間は弱い。弱いがその心には凶悪な鬼を飼っておる。よいか。けしてその鬼を呼び起しはならぬぞ』
鬼族の首魁で父親でもある鬼龍院剛毅が、里を出る前に紅牙に伝えた言葉だ。
みだりに人を傷付けないための戒めのようなものだろうと思っていたが、それは大きな間違いで、その言葉は真実だった。
紅牙は里を出て、初めて恐ろしいと思う人間に出会ったが、だからと言って桃子を恨むわけでもなく、むしろいままで侮っていた自分を恥じた。
「昨日はすまなった。俺が下らない嫉妬をしたばかりに睦月や健一たちに迷惑をかけた」
手当てが終わり、救急箱を片付けている睦月の後ろ姿に向けて紅牙はそう呟いた。
睦月は一瞬動きを止めるが、そのまま無言で救急箱を片付け、紅牙に向き直る。
「謝るのは私の方よ。紅牙くんを挑発するようなことを言って怒らせ、それで犬飼くんに酷い迷惑をかけてしまった」
睦月はそう言ったあと、紅牙に対する親近感のようなものを感じていた。
似てるんだ。自分に。
紅牙と睦月は確かに似ていた。
人生経験が浅くて未熟ということ。惚れっぽいということ。嫉妬深いということ。
誰でも当てはまりそうなことだが、二人は顕著にそのレベルが似通っていた。
だから惹かれたのかもしれない。
「私ね。実は紅牙くんのことが好きだったんだよ」
「奇遇だな。俺も睦月の事、いいなって思ってたんだ」
二人はそう言うとお互いの顔を見合わせて笑った。
「でも紅牙くん。今は違うのよね」
「睦月だってそうなんだろ?」
そう、二人はお互いに惹かれてはいたが、それは密室に男女が閉じ込められたときに起こるような現象で、一過性の熱病みたいなものだった。
その熱病からようやく回復した二人だが、すでに更なる病を患っていた。
「でも紅牙くん。言ってはなんだけど、かなり望み薄だと思うわよ。それでもいいの?」
「ああ。マイナスからのスタートだな。そういう睦月もハードル高くないか?」
「そうね。まず勝ち目はないと思うわ」
二人が患った新たな病。
恋患いは、それぞれかなりの難易度で、ベリーハードな設定だった。
紅牙は桃子に、睦月は健一に恋をしている。
紅牙と睦月の初恋は、それぞれ両想いだったにも関わらず、すれ違いのまま終わってしまった。
そうして第二ラウンドとなる今回の恋は、それぞれに想い人が居り、その牙城を崩すのは、生半可な努力では足りないだろう。
それ以前に、努力でどうにかなるようなものではなかった。
紅牙の相手は健一のみだが、睦月の相手は桃子に透だ。ひょっとしたらトリノも怪しい。
こう考えると確かに睦月のハードルは高そうに見える。
だが、桃子は健一以外に見えていないところがあるが、健一はそうじゃない。
健一は桃子の事を迷惑だと思っているフシもある。また睦月に対しても普通に接してくれる。この差は大きかった。
だが、恋愛を勝負事のように考えているうちは、二人の恋が成就する可能性は限りなく低いだろう。
「一つだけ紅牙くんに聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「紅牙くんは瑠璃ちゃんの事はどう思ってるの?」
「瑠璃? あいつは家族……妹みたいなもんだな。それがどうした?」
「ううん。なにも。でも家族は大切にしてあげてね。陣羽織さんばかりに夢中になっていたら、紅牙くんが健一くんにしてしまったことを瑠璃ちゃんがやってしまうかもよ」
「瑠璃が? あいつにそんなこと無理だろ」
「本気で言ってるの? 今日もアレを見てもそう言える?」
「アレって……あっ!」
紅牙が桃子の手下になるとか揉めていた時、離れ離れになると勘違いした瑠璃は、無謀にも桃子に飛びかかっていた。
「腕力で陣羽織さんに勝てないとしても、瑠璃ちゃんには明晰な頭脳があるわ。それを悪い方向に使ったとしたら、健一くんの骨折程度じゃ済まなくなるわよ」
「脅かすなよ」
「脅しじゃないわ。本当に起こりえることよ。痴情のもつれを甘く見ないで!」
ドンと、テーブルを叩いて睦月が紅牙を叱責する。
「はいっ!」
その迫力に、思わず紅牙は身を縮めて返事をしてしまった。
「瑠璃ちゃんを大事にすること。恋愛はその次よ。それだけ約束して。私も約束するから」
「分かった。約束する」
「分かればよろしい」
睦月はこれまで誰にも見せたことのない心からの笑顔を、紅牙に見せた。
その笑顔を見た紅牙は、睦月に振られてしまった事を少しだけ残念に思った。
それくらいその笑顔には魅力があった。
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