エピソード1 三章(睦月&透) 通算24話
紅牙と桃子のファーストコンタクトから三週間が経過していた。
桃子たちは毎週水曜と金曜に奥賀高へ訪れては、紅牙に勝負を挑んでいた。
そうして睦月と健一のセコンド兼審判の元、木刀を折られて戦闘続行が不可能にれば負けというルールの元で、勝負は執り行われた。
なにせ最初は木刀を折られても素手で紅牙に挑んで、殴った自分の手首を痛めるといった事態に陥っても、絶対に降参しないので、引き分けというところで手を打ち、ようやく諦めて貰った経緯があるため、その教訓からルールが設けられたのだ。
そうして金曜の放課後である今日もまた、桃子たちは奥賀高に訪れていた。
だが、今日の勝負は少しだけ様子が違っていた。
「ハァ? 瑠璃と勝負したいだと?」
陣羽織桃子の申し出は紅牙にとって有り得ないことだった。
自分を倒すまで瑠璃には手を出すなと言ったはずなのに、この女は話を理解できない馬鹿なのだろうかと本気で心配になった。
だが、桃子から詳しい勝負内容を聞いた後では、その勝負なら瑠璃ににも充分勝機があるというか、負ける要素が見当たらない内容だった。
その勝負の方法とは、互いの学力や知識量を競うというものだった。
有名大学入試の過去問うやクイズを解いて、どちらが高得点を取れるかというもので、青鬼族の真骨頂である知識面で勝負に挑んできたのだ。
赤鬼族には腕力、青鬼族には知力と、鬼族の特性を知った桃子は相手の得意分野で勝負して勝たなければ意味が無いと考えていたからだ。
ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うこともあるが、こういう潔いところには紅牙も好感が持てた。
「どうするの? 受けるの? それとも逃げるのかしら?」
「面白い勝負だな。瑠璃はやれそうか?」
紅牙の背中に隠れてモジモジしている瑠璃は、小さく頷く。
「いいってさ」
「そう。問題はそちらでチョイスして構わないわ。勝負がダレないよう、制限時間が一時間程度の問題になるようにお願いするわ。勝負の日時もそちらで決めて構わないけど、一年後とか言われても困るから一週間以内で調整して欲しいわね。できるかしら?」
桃子の最後の台詞は睦月に向けられたものだった。
調整できるかと問われた睦月は「いいわよ」と即答する。
「ボクもルリタンと勝負したいな。出来れば勉強とかじゃなく、そうだな。麻雀とかどうだろう?」
「ルリ麻雀好き! よくネット麻雀で対戦やってるよ」
瑠璃が嬉しそうに笑顔を作る。
天使のような微笑みに、その場の全員が和んだ。
「そうそう麻雀は楽しいよね。お互いオヒキを連れて二対二でやろうよ。ボクのオヒキは当然トオルちゃん! そっちはムッちゃんでどうかな? そんで負けたら服を一枚づつ脱ぐというペナルティを設けて緊張感を演出するんだ。そうして全裸になったら負け……」
「そんな勝負やらないよっ!」
ゴン。と透のゲンコツがトリノの脳天に炸裂する。
「そんなぁ。もちろん個室でやるよ? 男子は立ち入り禁止の女子だけでの密室脱衣麻雀だよ? それならいーでしょ? ねっ?」
見た目は瑠璃よりも幼いトリノだが、その中身は脂ぎった中年のオッサンと同じで、女性陣は皆ドン引きしていた。
「透さん。この恥さらしの変態を連れて帰って頂戴」
「はい桃子さん」
柔道経験者で体力はある透は、軽いトリノを楽々と担ぎあげる。
「いーやーだー! 脱衣麻雀やーるーのー」
トリノは透に担がれて、奥賀高正門前から姿を消した。
「道化が去ったところで、改めて鬼龍院くんに挑戦するわ」
陣羽織桃子が刀を持ち運ぶ布みたいなものから、今日の日に備えて新調した木刀を取り出して構える。
「お前も懲りない奴だな」
「今日は負けないわ。我に秘策ありよ」
桃子は紅牙と決着をつけるべく、正門前から体育館裏に場所を移した。
――体育館裏。
元々この場所は不良たちの憩いの場になっていたのだが、紅牙と桃子の対決が始まってからは、とばっちりで被害をうけかねないので、不良たちは安住の地を求めてこの場を立ち去ることを強いられた。
そうして体育館を使用している運動部から、ほんの少し感謝され、対決の時間は部活を休憩し、見学する者も現れたりしていた。
二人の決闘は、まずお互いを罵倒することから始まる。
平たく言えば口喧嘩だ。
約十分くらい相手の欠点や精神的苦痛を与える言葉の応酬を行うが、ボキャブラリーの少ない紅牙が桃子に勝てるはずもなく、前哨戦の舌戦にて桃子が負けることは無かった。
そうして紅牙がキレたところでようやく腕力勝負となり、素手の紅牙と、用意可能なら拳銃での武装もアリという桃子との一戦が始まる。
とはいえこの国で用意できる凶器といえば、金属バットや鉄パイプ、それに木刀くらいである。もちろん闇ルートを使用すれば、ヤバイ武器を入手することも可能だが、警視庁高官の父と、検事の母、裁判官の祖父に、弁護士や代議士の叔父らを身内に持つ桃子には、そういった違法行為はご法度だった。
今回、桃子は秘策として、木刀の中に直径三ミリの鉄線を二本仕込み、さらにそこに通電することでスタンガンにもなるという、金のかかった極悪な装備で挑んでいた。
桃子は掛け声と共に木刀を紅牙に振り下ろし、慢心している紅牙はそれをいつものように大胸筋で受ける。
インパクトの瞬間。六〇万ボルトの電圧が木刀の先端から紅牙の身体に衝撃を与える。
ジジジジ、パリパリという鈍い電撃の音の後に、パンという破裂音が鳴り響き、煙幕のように周囲を煙が覆い、焦げた臭いが体育館裏に充満する。
「紅牙くん!」
「おい桃子やりすぎだろ!」
睦月と健一が慌てて叫んで駆け寄ろうとするが、
「紅ちゃんなら大丈夫だよ」
と、二人の脇で対決を見守っていた瑠璃が表情一つ変えずに呟く。
臆病で気が小さい瑠璃が、まるで心配などしてない表情をしていたのを確認した睦月と健一は、これ以上ない説得力のある言葉だなと、煙が晴れるのを静かに待った。
煙が晴れると、そこには上半身のシャツが焦げて無くなっている紅牙と、根元まで粉々に砕け散った木刀を握りしめ、振り下ろしたままの姿勢の桃子が居た。
紅牙には砕け散った木刀の破片が当たったのか、アザのような、燃えカスの煤のようなものが、身体のあちこちに付着していた。
だが、そんなものは紅牙にとって大したダメージでは無かった。
そのように紅牙が強靭な肉体を持っている一方で、桃子の方は強運を持っているらしい。
二人の周囲には爆発した木刀の破片が散乱していたが、桃子にその破片が当たった形跡はないのだ。
普通に考えれば煤まみれになっている紅牙と同じくらいの被害を受けてもよさそうなのに、傷はおろか煤一つ付いてないところが怖かった。
とはいえ、その強運のおかげで二人とも無傷だった。
「まったく。貴方はどういう身体をしてるの? 普通の人間だったら即死よ。即死!」
よくよく考えると、とても恐ろしいことを桃子はサラリと述べていた。
「そりゃ人間じゃなくて鬼だからな」
頭の角をさすりながら紅牙が答える。
「いつか息の根を止めてあげるから首を洗って待ってなさい。健一くん帰るわよ」
桃子はその場から早足で歩くと、健一に折れた木刀を放り投げる。
健一は木刀を受け取ると、思ったより重たくて驚いた。
よくこんなの振り回してたなと感心すると共に、紅牙の強靭さに少し恐れを抱いた。
「どうしたの健一くん。早く帰ってシャワーを浴びたいのだけど?」
「あ、ごめん。先に帰っててくれないか? 少し紅牙と話をしたいんだ」
「それは駄目よ。健一くんは私と一緒に帰らなくちゃいけないの。実は今の戦いで足をくじいてしまったみたいなの。健一くんは怪我をした女の子を置いて先に帰れと言っちゃう酷い人なの?」
「……わかったよ」
健一は桃子が足をくじいているなど、口から出まかせと分かっていた。
ただ、断ると後でうるさいということも、断ることができないということも分かりきったことなので、黙って桃子に従った。
そのやりとりを聞いていた睦月は、以前なら健一に同情していたのに、いまは傍若無人で奔放で強引な桃子を羨ましいなと感じている自分の心情の変化に気付き、驚いていた。
その日の夜。睦月のスマホに健一からメールが届いた。
大事な用があるので、紅牙を交えて話しができないかという内容だった。
メールの文面から、ただならぬ雰囲気を感じた睦月は、今から会いましょうと返信してしまった。
まだ紅牙の了解も得てないのにどうしたのだろうと思いながら、数回のメールのやりとりで、待ち合わせ場所と時間を決めてしまった。
そうして、睦月は紅牙にこのことを話さず、一人で待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所の喫茶店に着くと、そこには健一が待っていた。
「犬飼くん」
まるでお忍びで付き合ってるカップルみたいだと、少し浮かれ気味の睦月は、健一が座ってるテーブルまで小走りに向かった。
だが、向かった先で睦月を待っていたのは、軽い失望だった。
なぜなら健一の隣には、彼の幼馴染、童顔で胸の大きいというなんともアンバランスな風貌の猿渡透という女の子が座っていたからだ。
「あ、睦月さん。こっちだよ。あれ……紅牙は?」
「あの、紅牙くんはちょっと用事ができて、私に用件だけ聞いて来てくれと頼まれたの」
咄嗟に嘘を口にする睦月。
大きな瞳をもった透が、そんな睦月を疑わしげにじっと見つめている。
「そうか。本当は紅牙に直接話したかったんだけど、用事があるなら仕方がない。申し訳ないけど、ここで話したことを睦月さんから紅牙に伝えて貰えるかな?」
「いいわよ。とりあえず話してみて」
睦月は健一の向かいにテーブルに腰掛けると、レモンティーを頼んで健一の話を聞いた。
「紅牙くんにワザと負けて欲しいって……」
「ああ。いま説明した通り、紅牙は強すぎるんだ。現状での紅牙の強さは漠然としてて、かなり強いって認識なんだと思う」
「そうね」
「だけどその強さが正確に理解され始めたらどうなると思う? たとえ紅牙に悪意や人を傷付けるつもりが無くても、人々は紅牙に恐怖するよ。実際オレは今日の対決で紅牙を脅威に思った」
健一の言い分はもっともだった。
今後対決がエスカレートして、桃子の武器がどんどんパワーアップしても、それでも紅牙に効果がないと分かれば、紅牙の事を恐れる生徒が出てきたってなんら不思議じゃない。
動物園のパンダにしても、檻の外から見るだけなら問題ない。
それが同じ檻で過ごすとなった途端、もの凄い緊張を強いられるだろう。
パンダにヒグマほどの迫力はなくても、その巨大な腕や身体で体当たりされた場合、大怪我を負う可能性がある。
それと同じことが紅牙にも当て嵌まった。
なんらかの拍子で紅牙を怒らせてしまったら、そうなったら簡単に殺されてしまうだろうという恐怖が生徒に芽生えたら、紅牙との会話は途端にぎこちないものになり、腫れモノに触るような態度になったりするだろう。
プロレスラーや関取も人間の中では強いが、所詮は人間である。さらに言えば、普段接触するような機会も少ない。
学校の不良にしても、バットなどの武器を持っていれば確かに脅威になるが、仮に暴れたりしたとしても、数名で取り押さえることが可能だろう。
だが紅牙が相手となると話は違ってくる。たとえ数百人がかりでも取り押されることは難しい。紅牙とは、いや鬼とはそういう相手なのだ。
奥賀高の生徒たちが、紅牙が自分らに悪意を向けたらと想像し、その噂が流れて全校生徒に伝搬した時、紅牙たちは学校に居られなくなるだろう。
「犬飼くんの考察は間違ってないと思う。でも紅牙くんって嘘や演技が苦手なの。とてもじゃないけど、あの陣羽織さんを欺けるとは思えないわ」
「だろうね。ワザと負けたのがバレたら、桃子は怒り狂ってもっと粘着するだろうね」
「ねえねぇ睦月さん。鬼族には弱点ってないの? 角を掴んだら力が抜けるとか、新月の日は人間並みの体力になるとか、そういうの」
退屈そうに話を聞いていた透が、横から口をはさむ。
「漫画とかにありがちな設定だな。でも確かに弱点を突くのはいいな。睦月さん何かないかな?」
透と健一の疑問に対し、睦月はしばらく考えたが、まだ紅牙たちと過ごして二ヶ月と経ってないため、弱点と言われてもピンとこなかった。
思いついたのは、紅牙は正直過ぎて簡単に人を信じるので、詐欺に引っ掛かかりやすいタイプということくらいだった。
「ごめんなさい。すぐには思い浮かばないわ。いいえ、知らないと言った方が正解ね」
睦月は申し訳無さそうに呟く。
こんなことならちゃんと紅牙に事情を話して連れてくれば良かったと後悔した。
「そっか残念。今度紅牙に聞いてみてくれないかな? ちなみに紅牙的にはワザと負けることについてプライドが傷付くとか相手を侮辱した行為だとかそう言う風に考えるタイプかな?」
「そうね。いきなり八百長を持ちかけたら怒ると思うけど、事情を話せば理解してくれるとは思うわ。瑠璃ちゃんに危害が及ぶ可能性を述べたら嫌でも納得すると思う」
誰が見てもすぐに分かる紅牙の弱点の一つが瑠璃の存在だった。
それについては睦月も健一も了解していたが、桃子が瑠璃に危害を加えようとしたときのキレっぷりから、瑠璃を利用するという考えは、それこそ危険すぎる行為と言えた。
そろそろ帰ろうかというとき、健一のスマホが店内に鳴り響いた。
「もしもし。うん。いま話がおわったところだよ。遅い? いや遅いとか言われても、いまから帰るから。うん。だからそういう話は後で透に聞けばいいだろ」
健一は電話が長くなると確信したらしく、立ち上がって睦月と透に申し訳ないと頭を下げながら、席を離れて会話を続ける。
「陣羽織さんから……だよね?」
「そーだよ。帰りが遅いから心配になっちゃったんだろうね。桃子さんって実はさびしがり屋だから」
「電話しなかったから怒ってるんじゃないの? でも早く帰るってどういうこと?」
「あれ? 桃子さんが健ちゃんと同棲してるって話は聞いてないの?」
「え? ど、同棲って……」
「ん。ちがうちがう同棲じゃなかった。下宿だった。桃子さんがいつも同棲って言ってるから間違っちゃったよ」
カラカラと笑いながら透が訂正するが、同棲でも下宿でも同じ屋根の下で生活していることには変わりなかった。
健一が電話している間に、睦月は透から、桃子が健一の家に下宿する経緯を聞いた。
透の言うことが本当なら、警察や司法関係者の家系である桃子は、とある宗教がらみの事件の信者から家族を襲うという真偽ははっきりしない犯行声明がでたため、自宅だと危険だからという理由で、健一の家に転がり込んできたらしい。
透はそこまで話したところで、多分それは嘘だと思うと付け加えた。
睦月も透の言葉を信じた。
それと同時に、桃子の行動力に呆れるというか、脱帽するしかなかった。
「あの、余計なことかもしれないけど、猿渡さんはそれでいいの?」
「うーん。言いも悪いも、反対する暇もなかったし。桃子さんは不器用すぎて的外れなことばかりやってるから、それくらいハンデがあってもいいかな~って」
「ハンデと言うと、やっぱり猿渡さんも犬飼くんの事が好きなの?」
「うんまあ。健ちゃんのことは、将来結婚したいな~ってくらいには好きだよ」
それは大好きってことじゃないだろうかと睦月は思ったが、口にはださずに飲み込んだ。
「そのことを陣羽織さんは知ってるの?」
「もちろん知ってるよ。だって桃子さんが最初に言ったんだよ。“私は犬飼くんの赤ちゃんが欲しい”って。あのときは本当に焦ったよ。だってあたしにはそんな覚悟、まだ全然無かったんだから」
高校生でそんな覚悟をもって恋愛している子はいないんじゃないかと睦月は思ったが、それでも二人の想いは凄く伝わってきた。
「い、犬飼くんってモテるのね」
「そうなんだよ。自分じゃ同性にしか興味ない、百合だレズだっていってるトリノだって、勉強中の健ちゃんを誘惑して楽しんでるんだよ」
「あの雉丸さんも?」
「うん。でもトリノの好きはあたしや桃子さんの好きとは違うんだよね。でもそれが余計にムカつくんだよね」
「そ、そうなの」
睦月は少しだけ胸が痛んだ。
健一を一途に想っている彼女たちに比べ、自分は紅牙と健一の間をフラフラして、ただ流されているだけだと気付かされた。
「だから睦月さん。中途半端な態度で健ちゃんと馴れ馴れしくすると、桃子さんだけじゃなくあたしもちょっとイラっときちゃうんですよ」
いつもニコニコしている印象がある透が、刺すような視線を睦月にぶつける。
さっきトリノにムカつくといった台詞は、睦月に対して向けられたものでもあったのだ。
今の透の表情を見て、ようやく睦月は気付いた。
「あの、私は別に……」
健一の事は好きじゃないと言おうと思ったが、なかなか言葉に出来ない。
そんな煮え切らない睦月の沈黙に、透は痺れを切らす。
「あのですね。あたしは健ちゃんがどこで誰と会って話してても別に何とも思わないです。桃子さん以外はライバルになるとは思ってないんで。でも桃子さんが不安になると、それだけ健ちゃんの意識が桃子さんに傾くじゃないですか? それがちょっといやだなって思うわけですよ。わかりますか?」
「はい。とてもよく分かります」
見た目は幼く、カワイイとも言える童顔の年下少女に睦月は圧倒され、思わず敬語で答えていた。
「睦月さんがガチで健ちゃんの事が好きになったら、それはそれで構いませんよ。その時は桃子さんは言うまでもないでしょうが、あたしも全力で潰しにかかりますから。もちろん潰すっていうのは暴力に訴えるという意味じゃないですよ?」
「もちろん。わかってます」
いままで空気みたいな存在だと思って侮っていた透だったが、意思の疎通が可能なだけに、ある意味桃子より恐ろしいと睦月は思った。
「二人ともお待たせ。睦月さん悪いね。遅くまで呼びとめちゃって。暗くて危ないから家まで送るよ」
「いえ結構!」
睦月は慌てて立ち上がり、思わず二~三歩あとずさってしまった。
「えっ?」
申し出が断られたことは問題なかったが、あまりにも拒絶反応が強かったため、健一は少しばかり戸惑った。
「睦月さん遠慮しなくていいよ。健ちゃんは桃子さんのワンちゃんだから、送り狼にはなりたくてもなれないから」
ニヤニヤと微笑みながら透が呟く。
「うるさいぞ透! 睦月さん本当に大丈夫?」
「だいじょーぶです」
「健ちゃん。あたし先に帰ってるから睦月さんを送ってやってよ。桃子さんにはあたしから伝えておいてあげるから」
「ありがたい」
「ひとつ貸しだよ。今度アイスでも奢ってね。それじゃね~」
透はそういうと、二人を置いて喫茶店から出て行った。
透が健一に睦月を送って行けと言った理由。
二人きりにしても大丈夫だと思った理由。
それらの理由を睦月は分かっていた。
健一と桃子が電話で会話している間に、自分が健一に下心を抱かせないよう因果を含めたので送らせても安心だと思ったのだろう。
そうしてその考えは間違ってない。正解だった。
透の言葉によって、睦月はもう一度自分の気持ちにちゃんと向かい合わなければならないと思うに至った。
健一に送って貰うことは嬉しかったが、透の言葉が邪魔して、素直には喜べなかった。
結局自宅まで送って貰ったが、それまでに交わした会話は二言三言で、睦月は健一の降った話題に曖昧な相槌を打っただけで、うわの空であったことは健一でも気付いた。
健一は疲れてるだろうなと思い、あえて会話することは控え、黙って星空を眺めながら睦月を送り届けた。
青柳家の玄関先に到着すると、そこには紅牙が阿吽像の片割れのように仁王立ちで待ち構えていた。
前門の虎、後門の狼。
ことわざの意味とは違うが、まさにそんな心境の睦月であった。
「こんな時間まで何処へ行ってたんだ。叔母さん心配してるぞ」
「お母さん……か。紅牙くんは心配してないんだ」
なぜか憎まれ口を叩く睦月。
本心では遅くなったことを謝りたかったのに、なぜこんなことを言ってしまったのか自分でも謎だった。
「心配したに決まってるだろ!」
「ちょっと待ってくれ。紅牙は用事があって来れなかったんじゃないのか?」
「なんの話だ?」
何も聞いてないのは明白な回答だった。
睦月は紅牙に断りなく飛び出してきたらしい。
理由は分からなかったがそれは確かことのようだ。
「いや、ちょっと睦月さんに聞きたいことがあってね。夜分に悪いとは思いつつ付き合ってもらてたんだ」
「こんな夜遅くにか?」
「うん。昼間の対決の反省会っていうか、作戦会議みたいな?」
「紅牙くんには関係ないわ。余計な詮索はしないで。私がどこで何をしようと勝手でしょう?」
睦月は自分が何に腹を立てているのか分からなかった。
ただ、瑠璃というお似合いの相手が居る紅牙に心配され、あれこれ詮索されることが嫌だったのだ。
自分は紅牙くんの彼女でもないのにどうして?
その思いが心の片隅にあったからlつい紅牙に対して厳しい口調になってしまっていた。
「睦月さん。それは言い過ぎだよ」
健一がフォローするが、それは余計に逆効果だった。
「そうよ。私が全部悪いのよ。地味でなんの取り柄も無い私に男の子の友達が出来たのよ。恋愛偏差値の低い私が、少しくらい期待してしまったりするのは仕方ないじゃない」
睦月の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ、それを睦月は両手で覆った。
「健一! お前睦月に何をした!」
紅牙はいきなり泣き出した睦月を見て、動揺してしまい、何故か怒りの矛先を健一に向けてしまった。
「落ち着け紅牙。オレは何もしていない」
「したよ。優しくしたじゃない。だから私……」
グスグスと泣きながら睦月が訴える。
「健一きさまぁ!」
紅牙は睦月の言葉を思い切り勘違いしていた。
睦月は文字通り健一が優しく接したので、思わず勘違いしてしまったと自己嫌悪しているのだが、紅牙は健一が睦月に性的な何かを行ったのだと思ったのだ。
「やめろ紅牙! おまえは多分勘違いしている!」
健一の訴えもむなしく、紅牙はフックラインのパンチを放つ。健一は思わず腕を曲げてブロックしたが、その腕ごと吹き飛ばされてしまった。
まるで人形のように、地面を転がる健一。
その姿を見た紅牙はようやく我に返って健一の元に走る。
「だ、大丈夫か健一!」
「いい、い、犬飼くんっ」
紅牙が叫び、睦月はガタガタと震えながら呟く。
「だっ、大丈夫……じゃない、かも……」
健一は意識こそあったが、起き上がろうとしても、激痛で立つことができなかった。
紅牙の放った軽いパンチは、健一の上腕骨をぽっきりと折っており、有り得ない方向に曲がっていた。
「こ、紅牙は、家に帰るんだっ。むつ、きさんは、きっ、救、急車を……」
「すぐに呼ぶわ」
睦月は急いで救急車を呼んだ。
「俺が帰れるわけないだろ! 何言ってるんだ健一」
「オレは、ここで、勝手に転んだんだ。こ、紅牙、馬鹿正直すぎると、周りの人間を、不幸にするんだぜ?」
「だがそれでは俺の気が済まない」
パシン! と頬を弾く音が響く。睦月が紅牙に放った平手打ちの音だった。
「今日、犬飼くんと話したことはね。紅牙くんがいつかこういう事件を起こすんじゃないかって心配してくれて、その話をしてたのよ。犬飼くんに怪我させたのは紅牙くんだけど、それを表沙汰にして何の得があるの? 私や紅牙くんが黙って罪を償えばいいことよ。鬼族はやっぱり危険だって世間に知らしめたいの? 強い自分を誇りたいの?」
「ちがう。そんなことは思ってない!」
「だったら、黙ってて、くれ、よな。そ、その罪悪感を、背負うことが、オレへの、つ、償いだと、思えばいい」
「健一すまない。本当に悪かった」
「い、いいよ。怪我は治る。それ、よりオレとしては、ふ、二人に、仲直りを、してほしいんだけど?」
「も、もちろんだ。俺は全然構わない。ただ睦月が許してくれるかどうか」
紅牙はいままで見せたことが無いくらい情けない顔で睦月を見上げる。
「そ、そんな顔しないでよ。犬飼くんの頼みなら断れないわ。ちゃんと仲直りするから紅牙くんは家に戻ってて。それからこのことは誰にも瑠璃ちゃんにも他言無用よ」
「わかった。墓場まで持って行く」
紅牙は大きく頷くと、健一を睦月に任せて自宅へと戻った。
「ど、どうして、あんな、意地悪なこと、を、こ、紅牙に、言ったんだい?」
「ごめんなさい犬飼くん。私、取り返しのつかないことをしてしまった。悪いのは紅牙くんじゃなくて私、私が一番悪いの」
「うん。そう、だね。それが、わ、わかってるなら、もういいよ……」
「よくないよ。どうしてそんなに優しくするの。怒ったりなじったりしてくれた方がよっぽどマシよ」
「オレはね、意外と意地悪なんだよ?」
「本当、意地悪だよ」
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
睦月が呼んだ救急車が向かってきているようだ。
サイレンの音を聞いて安心したのか、健一は眠るように気絶した。
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