エピソード1 二章(桃子) 通算23話
鬼が実在しているのであれば、桃太郎伝説もお伽噺ではなく偉人伝なのかもしれない。
だが、この私立吉備津学園に新設された特進クラスに在籍する、陣羽織桃子(じんばおりとうこ♀)が桃太郎の生まれ変わりというのは本人の自称でしかない。
家系図などの物的証拠は何も無く、桃子の妄想でしかなく真偽のほどは確かでない。
なまじ美人なだけに、その性格や行動を残念に思う生徒は少なくなかった。
容姿だけなら学園一で、絹のような美しい長髪の黒髪は、髪留め等の装飾を一切してないにも関わらず、綺麗にまとまっていた。
風になびく髪の毛はまるでシャンプーのCMに出てくる女優のように一房も絡むことなくサラサラとなびいており、女生徒の羨望とやっかみの対象となっている。
目鼻立ちも整っており、少しだけ釣り目ではあるが、長いまつげとすっと通った鼻筋に、仄かな桜色の唇と陶磁器のような白い肌を持っていた。
プロポーションも抜群で、長身で手足も長く腰は引き締まっており、モデルのような体型でありながら、胸も平均以上にあるという。
また容姿だけに限らず成績も優秀で、これだけ聞けば完璧すぎると誰もが思う。
ただし陣羽織桃子の真骨頂は容姿や成績では無い。
重度の中二病で電波発言、性格も難ありで、これさえ矯正できれば、学園の女王として君臨できただろう。それくらい壊滅的に性格が良くなかった。
コミュニケーション障害というより、コミュニケーション消滅と言った方がしっくりするくらい、会話するのが大変なのだ。
その陣羽織桃子が在籍する特進クラスは、彼女が立案した“桃子の、桃子による、桃子の為”のクラスである。
問題児ではあるが、両親含めて親類縁者が権力者で成績優秀な桃子と、その仲間というか関係者を一つにまとめたクラスで、一年生一人、二年生二人、三年生一人の計四名という、まるで過疎地の小学校みたいなクラス編成になっている。
二年生でクラス委員の陣羽織桃子を筆頭に、同じく二年生の犬飼健一(いぬかいけんいち♂)、一年生の猿渡透(さるわたりとおる♀)、そうして三年生の雉丸トリノ(きじまるとりの♀)の四人の生徒が特進クラスには在籍しており、毎日毎日ダラダラグダグダと過ごしている。
最上級生の雉丸トリノは、陣羽織桃子とは親戚らしかった。
そのトリノもまた、頭の出来はかなり良い。
そうしてトリノもまた、桃子と同じくかなりエキセントリックな性格をしていた。
容姿も桃子の従姉妹だけあり、それなりに良かった。
ただ、身長が一四五センチとかなり低く、胸も殆ど無いため、見た目は小学生高学年くらいにしか見えなかった。
金髪碧眼の美少女で、少し癖のあるブロンドを三つ編みにしている。
肌は桃子と同じくらい白かったが、少しだけ残ったそばかすが、彼女を幼く見せるのに一役買っていた。
そうして桃子以上に頭が良かった。
桃子は自分のレベルを下げることはできないので、頭が悪い人間の思考が理解できなかっりするが、トリノは違った。
トリノはレベルの低いものにも合わせることができ、健一の勉強で分からないところは主にトリノが教えてやったりしていた。
桃子とトリノの二人は、日本一の国立大に楽勝で現役合格できる実力をもっていたが、性格が破綻しているため、このクラスに隔離されていた。
隔離されたというよりも、桃子自らが、権力者経由で作らせたとのだが、一般の生徒はそのことを知らない。
桃子と同じく二年の犬飼健一は、少しイケメンという以外は取り立てて特徴は無く、実に普通の男子生徒なのだが、桃子とうっかり関わってしまったが故に、目を付けられ、彼女が望むままこのクラスに無理矢理編入させられた。
そう。彼は生贄となったのだ。
そうして一年の猿渡透。一見すると男みたいな名前だが、実際は童顔の巨乳少女で、本人に自覚は無いが、一番いやらしい身体をしているという、けしからん人物だった。
身長は女子の平均より少し小さいくらいだが、胸だけは大きく育ってFかGカップくらいある、茶髪ショートのどんぐり瞳のロリ顔巨乳少女。
柔道をやってたので少し筋肉質で、若干太いふとももを本人は気にしているが、健康的で快活な印象を与える元気な女の子だった。
彼女もまた生贄みたいなもので、雉丸トリノが同性愛者で巨乳好きという困った性癖の持ち主だったため、いつも付きまとわれていた。
幼馴染である犬飼健一に助けを求めたところ、彼もまた桃子に付きまとわれており、なんだかんだで二人まとめてこの特進クラスに編入させられてしまった。
つまり健一と透は、桃子とトリノの生贄みたいなものだった。
特進クラスというからには受験を目的としたクラスなのだが、まともに勉強しているのは健一くらいで、後の三人は適当にダベったり、お茶したりと、かなりフリーダムだ。
桃子とトリノは勉強しなくても楽勝で合格できるというなんとも卑怯な頭脳を持っていたので遊んでいても問題は無かったが、透は普通の女生徒で、むしろどちらかといえば勉強は苦手なタイプの女の子だった。
彼女には進学の意思はなく、このクラスにいれば勉強しなくても卒業できるということなので、成績などはどうでもよかったのだ。
定期的に行われる試験で学校が掲げた点数以上を取ってさえれば文句を言われることはまずなかった。
またこの特進クラスは、在籍する生徒の名前が、陣羽織桃子を筆頭に、犬飼、猿渡、雉丸と、見るからに桃太郎ご一行さまなので、一般生徒たちからは「桃太郎クラス」と揶揄されえていた。
「大変です! 大変です! 大変です! 桃子さん事件です!」
猿渡透が大声を張り上げながら教室に飛び込んでくる。
「うるせえぞ透。勉強できないだろ!」
特進クラス唯一の良心、真面目な男子生徒の健一が、机から顔を上げて一喝する。
「五月蠅いのは健一くんじゃない。どうしたの透さん」
高校二年だがまだ中二病を患っている陣羽織桃子が優しい口調で透に尋ねる。
「隣町のなんとかって高校に鬼の転入生がやってきたんだって! 鬼って本当にいたんだね」
「まあ素敵。それは本当なの?」
桃子は瞳を輝かせて立ちあがった。その姿はすごく生き生きとしている。
健一はそんな桃子を見ていると、巻き込まれる前に帰りたくなった。
「なんだトーコはそんなことも知らなかったのかい? 約一ヶ月前に奥賀高に編入してきた鬼龍院紅牙と青木瑠璃のことだろ? 言った通り、一か月前の情報だよそれ」
何処から情報を仕入れてくるのか、トリノが自慢げに呟く。
「雉丸さんには聞いてません。それで透さん。他には?」
「え? 他にはなくて、それだけだけど……」
「そう。それだけなの」
「うん」
会話が終了した。
桃子の意識が透から健一にシフトして、ゆっくりと近付いてきた。
それはまるで、肉食動物が得物を狩るとき、足音を立てないよう獲物に近付く仕草に酷似していた。
健一はなんとなくだが、自分の発言次第で今後の運命が決まってしまうような気がしたので、何も言わずに席を立った。
桃子との距離は三メートルばかり。ギリギリ逃げれる間合いだ。
「あら健一くん。そんなに慌てて何処へ行くのかしら?」
「トイレだよ。いちいち断る必要ないだろ」
「そうなのトイレなの。それでは私も行くわ」
男同士ならわかるが、男女で連れションというのは珍しい。
陣羽織桃子にはあまり羞恥心というものはないらしく、逆に健一の方が恥ずかしくなってしまうことの方が多かった。
「行くのはいいが、ちゃんと女子トイレに入ってくれよ」
「あらどうして? 男子が女子トイレに入るのはアウトというか犯罪だけど、女子は男子トイレに入るのはセーフなのよ」
「確かにそんな話を聞いたことがあるよ。だがそれは公衆トイレとか、お祭りとかの非常事態とかそういう緊急時の話だろ。平時に女子トイレが空いてるときまで適用されることじゃない」
「細かいわね。どうせ個室に入るんだからいいでしょ? 誰かに見られるわけでもなし……。あっ、ひょっとして覗いてくれるのかしら? 犬飼くんの変態」
「覗いて欲しいような言い方をしないでくれ。それよりオレは常識を説いてるんだよ」
「無駄だよケンイチ。トーコに常識なんて通用するわけないだろ」
トリノのいう通り、桃子の行動を制限できる人物は、この学校には居なかった。
「そもそも健一くんだって夜な夜な電柱に向かってマーキングしてるんでしょう? 時には人間にだって……。私は忘れないし許してないわよ。それこそ犯罪よ。そんな健一くんが人にあれこれ言える立場だと思ってるの?」
「ええっ! け、健ちゃんそんなことしてるの? それじゃワンちゃんと変わりないよ」
透が驚きの声をあげる。
「してるかっ! いや、してない……よ。うん。あの桃子さん。嘘情報を発信して混乱させないで下さいませんかね?」
「それは健一くんの態度次第ね」
桃子の言うことは半分は本当で半分は嘘だった。
過去に桃子と健一の仲が最悪だった頃、桃子の理不尽な所業に発狂寸前に追い込まれ、頭に来た健一は、退学や死を覚悟して、密室で桃子に小便をぶちまけたことがある。
ちなみに密室に連れ込まれたのは健一の方で、そこで気絶させられて、気が付けがあと少しでパンツを下ろされそうになっていた。
理由を聞けば精液を採取したいから協力してと言われ、これまでかなり理不尽な目に遭ってきた健一は流石に堪忍袋の緒が切れて、精液ではなく小便を桃子にぶちまけてしまったのだ。
それは健一にとって人生最大の汚点だった。
その結果がこれである。桃子に対して一生頭が上がらなくなってしまった。
……という事実があったのだが、ここは否定しておかないと、桃子以外のメンバーから糾弾され、変態扱いされてしまう。
「もういいや」
健一は色々と諦めて、席に戻った。
「どうしたの健一くん。もうトイレには行かなくていいのかしら?」
「もういいって言っただろ。引っ込んだよ」
「そんなの駄目よ。我慢してたら膀胱炎になってしまうわ。透さん。保健室に行ってしびんを借りてきてもらえるかしら」
「しびんですか。いいですよ」
透が教室から飛び出そうとしたので、健一は慌てて透の手を掴んで引っ張った。
「そんなもん取りに行かなくていい! やっぱりトイレに行くからしびんはやめてくれ」
健一はそう言うと、逃げるように教室を後にした。
「行ったわね」と桃子。
「行ったねぇ」とトリノ。
「ど、どういうことですか?」
透だけ訳が分からないといった表情で二人を見比べていた。
「今日は暑いわね。少し風に当たってくるわ」
「面白そうだからボクも行くよ」
「えっ? えっ?」
「透さん。健一くんと留守番を頼めるかしら?」
「それは構いませんけど……」
「ありがとう。よろしく頼むわね」
「それじゃ、ちょっと行ってくるねぇ~」
桃子とトリノは二人して教室から出て行ってしまった。
あの仲が悪い二人が一緒に行動するなんて珍しいなと透は思ったが、この中で一番頭が悪いというか洞察力が無いので、二人の行動の意図が本気で分からなかった。
その後しばらくして健一が戻って来た時も、桃子が言った通りのことを伝え、久しぶりに健一と二人きりに時間をまったりのんびりと過ごしていた。
桃子たちが出かけて一時間ほどが経過し、健一の勉強も順調に進んでいた。
「そう言えば、桃子とトリノ姉さんはどうしたんだろうな?」
もうすぐ今日の授業というか予定していた自習時間が終わるという頃、思い出したように健一が透に尋ねた。
「え? だから桃子さんとトリノは一緒にでかけたよ」
「一緒にだと? おいっ! なんでそれを早く言わない」
「あれ? 言わなかったっけ? でもどうしてそれがいけないの?」
「あの二人がつるむなんて余程の事でも起きない限り無いだろ。あ~くそっ! きっと鬼が編入してきたとか言ってた学校へ向かったな。きっと俺が居たら止められると思ったんだろ」
「ああそうか! そういうことか。健ちゃんさすが」
「さすがじゃねーよ。少し考えたら分かる事だろ。よし、俺たちも行くぞ。たしか奥賀高だったな。授業が終わってたら取り返しがつかないことになりかねない」
健一は急いで支度し、透を連れて、桃子たちが向かったと思われる奥賀高に向かった。
奥賀高校の正門前で仁王立ちしているのは、吉備津学園特進クラス委員長にして、桃太郎の生まれ変わり(自称)の陣羽織桃子そのひとであった。
その数メートル離れたところで桃子を観察しているのが、彼女の従姉妹であり、三年生のくせに小学生か中学生くらいにしか見えない雉丸トリノである。
「ちょっと勇み足だったようね」
桃子たちは、かれこれ三〇分以上正門前で“鬼”の転入生が下校するのを待っていた。
更に待つこと数十分。
ようやく奥賀高の授業が終わり、生徒たちが校舎からワラワラと飛び出してくる。
正門から下校する奥賀高生は、木刀を持って仁王立ちする桃子を見て驚いたが、恐らく紅牙に用があるのだろうとピンとくると、そのままスルーして帰宅した。
紅牙の噂は近隣の学校に広まっており、力自慢や各学校の不良グループなどが、その実力を探りに来ては返り討ちに遭っていたので、このような光景はさほど珍しくはなかった。
下校中の学生たちから「まあ頑張って」とか「負けるなよ」などと、冷やかし半分の声援を受ける桃子。
「ふふっ、どうやらここに鬼が居るというのは本当のようね」
「なんだトーコ信じてなかったのかい? 自分が桃太郎の生まれ変わりだとか言ってる割に本当に鬼が居るとか信じてなかったらしいね」
「そんなことはないわ。ただ、鬼たちの覚醒が思った以上に早かったので驚いているだけよ」
「カ・ク・セ・イ! アハハ、覚醒ってなんだよ。トーコはボクを笑い殺す気かい? 鬼たちは最初から最後まで鬼だよ。覚醒もクソもないよ」
桃子はそんなトリノの悪態に返事をすることなく、黙って校舎を見つめ続けた。
すると、明らかに普通の人間とは風貌が異なる男女の集団が校舎から出てきて、正門に向かって歩いてきた。
お目当ての鬼がついに現れたのだ。
桃子の脳内にエンドルフィンやらドーパミンが多量に分泌される。
それくらい桃子は高揚していた。
なにせ目の前に本物の鬼が現れたのだ。
鬼が居るということは、桃太郎も居たといことであり(桃子の持論)、自分がその子孫に間違いはないのだという根拠のない確信が、桃子に得体の知れない力を与える。
いつものように紅牙は、瑠璃と睦月と一緒に下校していた。
正門前に近付くと、そこに木刀を持った黒髪ロングの美少女が殺気を放って立っていたので、紅牙は一瞬面食らった。
「紅牙くん。多分あの娘も……」
睦月が申し訳なさそうに紅牙の耳元で呟く。
紅牙たちの噂をききつけ、鬼に偏見を抱き、こうして退治もしくは力比べをしようとする者たちは、後を絶たなかった。
睦月はこのことを、同じ人間として情けなく思っていた。
また、これが理由で、瑠璃は一人で街を歩けないでいる。
「ああ、分かってる。さっきから殺気みたいなものを感じてるよ」
「相手は女の子だから手加減してくれる?」
「もちろんだよ。あの固そうな木刀をへし折ったら戦意喪失して逃げるだろうさ」
紅牙は正門前に立って桃子を一瞥した。
待ち受ける桃子との距離は約五メートルくらいである。
「一応尋ねるが、お前は何しに来たんだ?」
「愚問ね。鬼退治に決まってるでしょ」
木刀を突き付けながら桃子が宣言する。
「俺が退治される理由は?」
「何を言ってるのか分からないわ。鬼は退治するものでしょ?」
この二言三言のやりとりで、これ以上の会話は無駄だと、頭の弱い紅牙でも理解できた。
「ここじゃ下校する生徒の邪魔になる。場所を変えよう」
紅牙が背を向け、校庭の隅に移動しようとした時のことだった。
先手必勝とばかりに、桃子がダッシュで駆け寄ってきた。
だが不意打ちも紅牙の予想の範囲内だった。
だが、想定外だったのは、その標的は紅牙ではなく、明らかに戦う意思のない瑠璃に向けられていたことだった。
「うしろっ! 不意打ちっ、注っ意しろ~~~っ!」
二~三〇〇メートルほど先から、不意打ちを警告する声が聞こえる。
もちろん紅牙は桃子の不意打ちに気付いており、素早く振り返る。
誤算だったのは、桃子の攻撃目標が自分ではなく瑠璃に向けられているということだ。
桃子が瑠璃に狙いを定めているのが分かると、紅牙はグラウンドの土が二〇センチは窪むほどの勢いを付けて軸足を蹴って、瑠璃を守るべく桃子の木刀の切っ先に立ち塞がる。
桃子の突きは瑠璃に命中する前に、紅牙の大胸筋が受けきった。
ドスン!
と鈍い音が聞こえるが、それは突きを入れた桃子の尻もちの音だった。
紅牙の胸に当たった木刀は、その固い筋肉により、竹刀がバラけたように、木刀を縦三枚に割って、その破片が地面に散乱していた。
これほどの強い突きを出せる桃子も凄いが、それを受けきる紅牙は更に凄いと言えた。
「オイ! これはいったいなんの真似だ!」
不意打ちよりも、瑠璃に対して攻撃しようとしたことに紅牙は怒りを露わにしていた。
「なぜですって? 複数の敵を相手に戦う場合、各個撃破が基本でしょう? そうして弱いと思われる方から叩くのは基本中の基本じゃない」
尻もちをついた桃子は、怒る紅牙から目を反らすことなく見上げ、恥じる様子も無く凛とした態度で答える。
桃子はこの期に及んで紅牙を恐れてはいなかった。
卑怯なことをしたという自覚も無い。
そのことは桃子の態度で紅牙にも伝わり、余りにも堂々としているので、桃子の行動が果たして卑怯だったのかと思わず考え込んでしまった。
「どうしたの? 鬼のくせに何を迷ってるのかしら? ここで私をやらないと、何度でも退治に来るわよ」
よせばいいのに桃子は紅牙を挑発する。
「こっ、このっ!」
紅牙が握り拳を固めて振りあげる。
「ま、待ってくれ! ゼハッ、悪かった。ハッハッ、オレが全部責任を取るから、ゼヒッ、か、勘弁してくれ!」
先程、遠くから危険を知らせた人物、犬飼健一が息も絶え絶え紅牙と桃子の間に走り込んで、深々と頭を垂れる。
「なんの真似よ。健一くんが責任を取るってどういうことかしら? この鬼にオカマを掘られてもいいってこと? そんなの駄目よ。絶対に許さないわよ」
不貞腐れた口調で桃子が呟く。
「いっ、いいから桃子は、だっ、黙ってろ!」
ゼーゼーと呼吸を整えながら健一は一喝する。
「紅牙くん。聞いてあげたら? 多分話が通じる人よ」
睦月は紅牙の振りあげた手を掴んで、ゆっくりと下に降ろす。
「わかった」
紅牙だって女性を殴りたくはない。ただ振りあげた拳を下ろす理由を考えていたので、健一の登場はありがたかった。
「ありがとう。え~と、紅牙……くん?」
「紅牙でいいよ。お前は?」
「オレは犬飼健一。同じ二年生らしいから、オレの方も健一で」
紅牙たちは、健一の提案に乗って、近くのファミレスでお互いの誤解を解くことにした。
「ところで健一。あいつらはあそこでいいのか? 別に隔離しなくても俺は平気だぞ?」
紅牙が離れた席に座った桃子と透を伺いながら尋ねる。
「はは、ちゃんと会話は聞こえてると思うから大丈夫だよ。同席させて発言までさせると収拾がつかなくなるからね」
紅牙はじっと自分を睨みつけている桃子と、それを宥めている透を伺うと、それもやむなしと思った。
「確かにそうかもね」
睦月もまた、健一の意見に同意する。
紅牙たちが座る広いテーブル席には、紅牙と瑠璃と睦月が並んで座り、その向かい側に、健一とトリノが座っている。
桃子と遅れてきた透は少し離れた席でこちらに聞き耳を立てている。
本当は桃子だけ隔離したかったのだが、それでは可哀想というか、勝手にこちらに来てしまいそうなので、透を付けて隔離していた。
「それでは改めまして、ウチのバカがご迷惑をおかけしました」
健一はファミレスに来るまでにトリノから経緯を聞いていたので、始めに非礼を詫びた。
「別にいいよ。俺に対して向かってくる奴は別に問題ないけど、瑠璃に襲いかかる奴は初めてみたからちょっと驚いたというか、それが頭にきただけだからよ」
「ルリとっても怖かったんだよ」
紅牙の腕にしがみついて座っていた瑠璃が、ようやく口を開いた。
「怖い思いをさせて本当に申し訳ない」
「瑠璃ちゃんかわいいねぇ。お姉ちゃんとイイとしない?」
「えっ、なに?」
瑠璃が怯えて紅牙にくっつく。
「トリノ姉さんも離籍しますか?」
「あはは、やだなぁケンイチ。冗談だよ冗談。場を和ませようと思っただけだよ」
てへっ、と舌を出すトリノだが、とても冗談には見えない。
「それで貴方たちは何者なのかしら?」
なかなか話が進まないので、睦月が促す。
「あ、すいません。えっと……」
「青柳睦月よ」
「失礼しました睦月さん。我々は吉備津学園の生徒で、あそこの桃子を始めとした問題児を集めたクラスの者です」
健一はクラスの成り立ちや桃子の奇行や妄想壁などを説明し、今後は迷惑はかけないと約束した。
「ふうん。桃太郎の生まれ変わりか」
紅牙が興味深げに桃子を見つめると、丁度桃子と視線が合い、中指を突き立てられる。
桃子は紅牙に打ちのめされたことを根に持っているようだ。
「ごめん紅牙。桃子には後でちゃんと言っておくから」
「別にいいさ。瑠璃に手を出さない限り、俺はいつでも相手になってやるぜ」
「いや、確かに桃子は強いけど、それは人間の中でだよ。さっき少しだけ見させて貰ったけど、紅牙とガチでやって万に一つとして桃子が勝てるとは思えない。それで桃子が怪我でもしたらちょっと困るんだよ」
「ん? 健一はあいつが好きなのか?」
「いや、好きというか、放っておくとなにするか分からないから心配なだけだよ」
「にゃはは。逆にトーコは健一のことが好きで好きでたまらなくて、色々とアプローチしてんだけど、あの性格だから見当外れなことばかりやってんだよねぇ」
ケラケラとトリノが笑う。
「あの、もしよかったら鬼について教えて貰えないかな? 桃子は鬼イコール悪とか思ってるけど、紅牙はいい奴だし、瑠璃ちゃんはその、たしかに見た目は鬼というか小悪魔というか、とても可愛いけど人見知りが激しそうだし、睦月さんは人間そっくりだし」
「そっくりもなにも、私は人間よ!」
珍しく大きな声を出して睦月が否定した。
「えっ! 鬼じゃなかったの?」
「健一おまえ酷い奴だな。睦月はどうみても人間だろ」
「あ、うん。確かに人間っぽいなとは思ってたけど、紅牙たちと一緒に居たから彼女も鬼なのかなって……。言い訳するわけじゃないけど、それくらいオレたちは鬼についての知識がないんだよ」
「なるほどね。確かに鬼について教えてあげないと、犬飼くんのように私まで鬼だと誤解されてしまうこともありそうね」
睦月は鬼たちの生態や身体能力、それから鬼たちが置かれている現状と、紅牙たちがこの町に来た理由などを健一たちに説明した。
この話には健一はもちろんのこと、トリノが大いに関心を持ち、幾つも質問していた。
睦月では分からないことは、紅牙や瑠璃がフォローしたが、トリノの質問がかなりマニアックでディープな内容になると、ついには紅牙も降参してしまう。
残った瑠璃が奮戦し、質問のすべてに答えていた。
元々ネット上やチャットなどでの議論は大好きな瑠璃だった。
瑠璃は上手い具合に質問や発言を促してくれるトリノの話術の前に、いつの間にか饒舌になっていた。
「なるほど。瑠璃ちゃんが物知りだね。流石青鬼族きっての秀才さんだ」
「えへへ。そんなことないよ」
「それにしても、勿体ないなぁ」
トリノは鬼たちの才能が活かされず、田舎の町で封鎖されていることに不満を漏らす。
自分だったら鬼たちを雇ってベンチャー企業を立ちあげて、電脳世界を支配してやるのにとかうそぶいていた。
一時間ほどの会談で、お互いの誤解というか立場を理解した紅牙たちと健一たちは、迷惑をかけたからという健一の奢りで、会計を済ませて表に出た。
桃子には、瑠璃を退治したかったらまず紅牙を倒してからという条件で納得させる。
不意打ち闇打ち寝込みを襲うのも、なんでも有りという条件付きで桃子は納得した。
そうして、何かあった時に連絡が取れるようメルアドの交換をしようとしたが、紅牙も瑠璃もスマホは持ってなかったので、健一は睦月にメルアド交換を依頼した。
「別にいいわよ」
「全然よくないわ。ここはクラス委員長である私と彼女がアドレスを交換するのが筋でしょう」
「犬飼くんや雉丸さん、それに猿渡さんなら問題ないけど、貴女とだけはお断りよ」
きっぱりと睦月が言う。確かにそうだよなと健一は無言で頷く。
「ふうん。そんなこと言って、貴女の下心が手に取るように分かるわ」
桃子がライバル心を燃やした瞳で睦月を凝視するが、睦月は何故睨まれているのか理解できなかった。
「はいストップ。二人共、ちょっとこっちに来てくれないか? 少しの間だけ二人を借りるよ」
状況を察した健一は、桃子と睦月を連れてファミレスの入口から少し離れた場所に移動する。
「健一くん。これは一体どういうつもりかしら?」
「どうしたの?」
桃子と睦月がほぼ同時に声を発する。
「いや、桃子に誤解があるので解いておこうと思って」
なんとなくだが似たような雰囲気を持つ女の子二人を前に、健一はため息をつきながら無用な誤解を解こうと試みる。
「これはオレの想像に過ぎないんだけど、睦月さんは紅牙の事が好きなんだと思うよ」
「い、犬飼くん! いきなり何を!」
睦月が顔を真っ赤にして慌てふためく。
その分かりやすい態度と表情を見た桃子は、健一の推測が正しいと即座に理解した。
「あらそうなの? でもあの赤鬼は青鬼のことが好きなんじゃないの? ひょっとして貴女、横恋慕してるの? 地味な顔してる割にやるわね。略奪愛ってやつ?」
「違うわよ。なに言ってるのよ貴女は!」
睦月が前のめりになって桃子に食い下がる。大人しい子かと思っていた健一は意外な一面を見た気がした。
「すいません睦月さん。あのさ、桃子は黙っててくれないかな?」
「健一くんって外では偉そうよね? 校内じゃ私に頭が上がらない癖に。外弁慶って新語ができちゃうわ。ううん外面がいいのよね」
なじるように桃子が呟くが、それほど嫌というわけでもなさそうな、なんとも妙な雰囲気だった。
「うんそうだね。それよりそういうわけだから、オレと睦月さんがメルアドを交換したところで何か色恋沙汰が発生することはありえないから。桃子が恐れていることは起こらないから大丈夫だよ」
「あら健一くん。ひょっとした私ってその女に嫉妬してるとでも思われてるのかしら?」
もの凄く心外だとばかりに桃子は健一に詰め寄ってくる。
「う、うーん。まあそうなるかな? 違うの?」
「当たり前じゃない。もちろん浮気は許さないけど、嫉妬なんてしてないわ。どうみたって私の方が美人でスタイルも良くて成績も優秀なはずよ。負ける要素が見当たらないわ」
桃子は睦月の隣でこれみよがしに胸を張って自身の素晴らしさを説く。
確かに桃子の言う通りだったが、睦月は何故か怒る気にはなれなかった。むしろ桃子に対して憐れみの感情すら抱きつつある。
「ふう。陣羽織さん。貴女がどういう方なのかおぼろげながらわかりました。犬飼くんの苦労が容易に想像できるわ」
睦月は眼鏡を外して、眼鏡の曇りを拭きとりながら呟く。
眼鏡を取った睦月は、切れ長の釣り目が凛々しい、なかなかの美人だった。
コンタクトにしたらモテるだろうなと健一は思った。
「健一くん。鼻の下が伸びてるわよ。眼鏡を取ったギャップ萌えごときで簡単にときめかないでくれる? 貴女も安い誘惑は大概にしておきなさい」
「言ってる意味が分からないわ。私はただ眼鏡が曇ったから拭いただけよ」
睦月は眼鏡を装着して桃子ににじりよる。桃子も負けじと距離を詰める。
「二人とも待ってくれ。ごめん睦月さん。オレが全面的に悪かった。紅牙のことを言えば桃子が変な邪推をすることもないかと思ったんだ。考えが甘かった」
健一の言い分は睦月にも痛いほどよくわかっていた。
それだけに、話の通じない桃子を毎日相手にしている健一に、同情せずにはいられなかった。
「分かってるわ。だから紅牙くんたちから離れて、こんなところで話をしてるんでしょう。どこかの誰かさんと違って気配りができる人で好意を持てるわ」
「どこかの誰かさんって私の事かしら? それにやっぱり健一くんに好意を寄せてるじゃない。二股かけるつもりなの? そんなの許さないわよ」
「違うわよ。貴女は犬飼くんと女性が雑談してるだけで嫉妬しちゃう狭量で独占欲の権化みたいな人なのね。そもそも貴女と犬飼くんの関係はなに? 恋人なの?」
「恋人よ」
「ええ~~っ!」
即答する桃子とそれを聞いて驚く健一。
健一と桃子は、健一の了解も無しに恋人になっていたらしい。
「恋人なら彼氏の事をもっと信用してあげれば?」
「もちろん犬飼くんのことは信頼し信用もしてるわ。だけど、信用できないのは貴女のような泥棒猫たちよ」
「もういい。もういいから。メルアド交換も無しでいいよ。あともう彼らに関わるのはやめよう。そうすれば何の問題も無いだろ。なっ!」
「何を言ってるの? 折角鬼を見付けたのよ。退治するまで徹底的に戦うに決まってるじゃない」
「この人の暴走を事前に連絡して貰わないと困るから、アドレス交換は必須みたいね」
「わかった。じゃあそうしよう。桃子もそれでいいよな?」
「いいわ。でも一つだけ条件があるわ」
「わかった。とりあえず言って……」
健一が言葉を言い終わる前に、桃子の唇が健一の唇を奪っていた。
恐らくこれが桃子の条件なのだろう。
「なっ! あなたたちこんなところで何を!」
突然、路上でキスをした健一を桃子を間近で見た睦月は、自分の事では無いのに恥ずかしくなって、顔を赤らめた。
それでも二人のキス行為から目を反らすことができなかった。
「ふうっ」
まるで喉の渇きを潤した後のように、桃子は満足げに吐息を洩らした。
「い、いつも、いつもいきなりだな!」
唇を奪われた健一も、こういうことが初めてではないという物言いで抗議する。
睦月は二人の奇妙な関係に当惑しながらも、少しだけ羨ましく思った。
「いつまで呆けてるの? メルアドでもなんでも交換すればいいわ」
その一言で睦月は我に返った。
桃子はそんな睦月を見て、満足げな表情で微笑むと、トリノや透が待つ場所まで歩き始めた。
「あの、大変見苦しいものをお見せして申し訳ない」
健一が深々と頭を下げる。
「い、いえ。大丈夫よ。そ、そうそう。メルアドを……」
何が大丈夫なのか分からないが、睦月は咄嗟にそう声を発し、慌ててスマホを取り出し、健一とメルアドやスマホ番号を交換した。
「あの犬飼くん」
「なにかな?」
「その。紅牙くんのこととかで相談とかしてもいいかな?」
「もちろんだよ。メールでも電話でも構わないよ。瑠璃ちゃんは確かにカワイイけど、あの二人って兄妹って感じだよね。オレは断然睦月さんを応援するよ」
「あ、ありがと……」
ようやくメルアド交換を済ませた二人は、皆が待つ場所へ戻ると、そこからまた奥賀高組と、吉備津学園組の二手に分かれて帰宅する。
「それにしても面白い奴らだったな。陣羽織桃子のリベンジが楽しみだぜ」
帰り道、紅牙が桃子たちの印象を述べる。
どうやら紅牙は桃子との再戦を楽しみにしているらしい。
「ルリあの人キライ。ずっとルリたち睨んでたんだよ。でもトリノさんはのお話は面白かったよ。今度チャットするんだぁ」
瑠璃はちゃっかりPCのアドレスだかをトリノと交換していたようだ。
「そ、そういえば睦月はその、健一と何を話してたんだ?」
そっけなく尋ねたつもりだろうが、気になっているのがバレバレな態度に、睦月は少しだけ可笑しくなり微笑んだ。
「メルアドを交換したのよ」
「それは聞いたけどよ。それだけにしては、その、少しばかり長すぎなかったか?」
「気になるの?」
「そんなことは……ある。気になる」
流石は嘘を付けない赤鬼族である。あっさりと降参した。
睦月は少し意地悪をしすぎたかなと反省し、健一と話していた内容を一部割愛しながら話して聞かせた。
「路上でキスかよ。すげえな。あんな美人とキスできるなんて健一のやつ羨ましいな」
「紅ちゃん。あんな変人がいいの?」
「そうね。紅牙くんの趣味を疑うわ」
「違う違う。あんなのとは死んでも付き合いたくねーよ。健一はご愁傷さまだけどよ。でも美人には違いないだろ?」
「ルリの方がカワイイよっ!」
ムキになって反論する瑠璃だが、論点が少しズレている。
「自分で言うか? 確かにカワイイ勝負なら勝てるかもな。でも美人度では、どう足掻いたってお前の負けだ」
「あと五年もしたら、ルリの方が美人になるよ。胸だってどーんって大きくなるし」
「ハイハイ。なれるといいな」
「なるもん。ぜーたいなるからね」
瑠璃はプイっと顔を背けてむくれる。そのむくれた表情もまた可愛かった。
「…………」
美人とかそういう話になると、睦月には無縁の話だったので黙っているしかなかった。
紅牙と瑠璃がじゃれている間、睦月はもしも自分が桃子みたいに紅牙にキスを迫ったらどうなるだろうかなど空想していた。
そうして何一ついい結果にならないと結論が出ると、美人は得だなと桃子を羨ましく思った。
それはまるで紅牙が健一を羨ましがった理由と別の意味で似ており、睦月は思わず苦笑してしまった。
また、桃子と健一の関係は、睦月と紅牙の関係に少し似てるなと思った。
ファミレスで桃子と一緒に居た、透という名の胸の大きな女の子は、健一の幼馴染だと聞いた。
その幼馴染が健一に好意を寄せていていると仮定したなら、桃子を知ることで、紅牙を瑠璃から自分に振り向かせることができるのではないだろうかという考えが、睦月の中に芽生えてきた。
そんな脳内シミュレートを行っている間に、睦月たちは自宅にたどり着いた。
紅牙に声をかけられ我に返った睦月は、驚きのあまり玄関先で躓きそうになった。
「危ないっ!」
倒れそうになった睦月を、紅牙が楽々と抱き止める。
「あ、ありがとう」
「よそ見なんて珍しいな」
「そうね」
睦月は紅牙に会釈すると、靴を脱いで自分の部屋に戻った。
紅牙は少しだけ玄関先で瑠璃と雑談したのち、離れの部屋へと戻って行った。
睦月は夕飯までの空き時間に勉強をして、食後は家族を交えて紅牙たちと雑談し、お風呂に入って自室へと戻った。
普段ならここからまた勉強を一~二時間ほどやってから就寝するのだが、今日は勉強はやらず、スマホを握りしめてベッドに腰掛ける。
ベッドの奥、壁を背にして体育座りの格好で腰掛けた睦月は、スマホを膝に置いて健一宛にメールを打ち始めた。
考えてみると男の子にメールを出すのは初めての経験だったので、文面をどうすれば良いのかかなり迷った。
書いては消して、書いては消し、五回の書き直しの末、ようやく文面が完成した。
そうしてその完成した文面を何度も読み返し、誤字やおかしな表現が無いか確認し、思い切って送信ボタンを押した。
ちなみにそこまで要した時間は一時間弱である。
また、送った直後に、初めての相手に送るメールにしては少し文章が長すぎでは無かったかと思い始めたので、送信したことを激しく後悔した。
送信後、スマホをにぎりしめ、正座して返信を待ったが、十分程待っても返事が来ないので、今日はもう来ないだろうと諦め、ベッドに横になってスマホを胸の上に置いた瞬間、ブーンというマナーモード特有のバイブレータが作動し、踊るようにスマホが震えた。
「ひゃうっ」
思わず変な声を出してしまった睦月は自分で自分の口を押さえる。
スマホを拾い上げ、恐る恐る宛先を見ると、健一からのリプライだった。
ちゃんと返信がきたことにホッとしたのもつかの間で、どんな内容なのか少し怖くなり、しばらく開くことができなかった。
それでも内容が気になり、読まずに寝ることなどできそうになかったので、睦月は覚悟を決めて健一からの返信を読んだ。
元々睦月が送ったメールが今日の出来事についての感想と、今後ともよろしくといった内容だったので、健一のメールもそれに返事をするメールで、こちらも最後にこちらこそよろしくとった内容になっていた。
当たり障りのない普通のメールであったが、睦月は爆弾解除に成功した工作員みたいに、安堵のため息を洩らした。
睦月は、メールの文面に“おやすみなさい”と書き加えるのを忘れていたのを思い出し、返信メールのお礼を述べ、“それではおやすみなさい”と付け加えて送信する。
今度は三分と待たずに返信がきて“もう寝るのですか。早いですね。おやすみなさい”と返事があった。
睦月は思わず“まだ寝ないのですか”と尋ねるメールを送ると、健一から“少しだけ勉強して寝ます。でないと大学落ちちゃいますから”と返事が来た。
その後、健一の志望大学を尋ねたり、今の偏差値や得意科目や苦手な科目を聞いたりしていたら、いつの間にか数十通のメールのやりとりを行ってしまい、時刻も午前〇時を回ってしまっていた。
睦月は慌てて勉強の邪魔をしたことに対するお詫びのメールを入れる。
最後に健一からメールが来て“気にしないで。息抜きになった。返信無用”とフォローまでしてあったので、睦月は恥ずかしい思いにかられ、スマホを枕元に放り投げてそのまま布団を頭からかぶって就寝した。
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