エピソード1 一章(睦月) 通算22話
短めの梅雨が開け、少しづつ日差しが暑くなり始めた六月下旬の初夏。
鬼龍院紅牙の一日は、幼馴染の青木瑠璃を叩き起こすところから始まる。
本来、こういう役目は逆だろうと紅牙は思わないでもないが、人間社会で生活する際、瑠璃の保護者役になると決めた手前、文句も言わずに居候している青柳家の離れの小屋から母屋へと向かう。
青柳家には紅牙と同じ年の娘がおり、名前を睦月(むつき)といった。
肩まで伸びる黒髪に、眼鏡をかけた線の細い娘で、地味な感じはするが素材は良いのでお洒落をすれば人目を引く美人になるだろう。
青鬼の血を引く人間だからなのか、知的な感じがする。
口数は少ないが無口というほどではない。ただ、感情の起伏が少ない娘だった。
話しかけても会話がなかなか続かないので、紅牙は睦月の事が少し苦手だった。
ちなみに睦月の曽祖父にあたる人物が鬼族で、戦後の混乱時に自警団を組織して治安維持に努めたことから、人間から厚い信頼を得たらしい。
曽祖父は瑠璃の遠縁にあたり、齢九〇を超えてなお壮健な青鬼族の翁であった。
紅牙はその翁が住む離れの小屋に部屋を間借りしていた。
建物は異なるが、同じ敷地内のため、朝夕はテーブルを囲んで食事を共にし、弁当などは母屋に住む睦月の母親が作ってくれた。
紅牙が母屋の呼び鈴を押し玄関を開けると、青柳家の一人娘である青柳睦月が、制服姿で階段から下りてくる。
ほぼ毎日変わらない時間、規則正しい生活をしているなと、紅牙は感心する。
だがそれは睦月も同じ思いで、毎日同じ時間に瑠璃を迎えに来る紅牙の事を好ましく思っていた。
そのため瑠璃に対して軽い嫉妬心を抱く自分に嫌悪し、紅牙に対する態度がつい冷たくなるのだが、そのような事情があるなど鈍い紅牙は知る由も無い。
「おはよう紅牙くん」
「おはよう睦月さん。あれ? ひょっとして髪留め変えた? うん。凄く似合ってるよ。とても綺麗だ」
「…………」
紅牙の賛辞は正直嬉しかったが、自分を美人だとは思っていない睦月にとって、それは悪い冗談にしか聞こえず、それが恥ずかしくて何も言えず、むしろ怒ったようなこわばった表情のまま、靴を履いて無言で玄関から出てゆく。
紅牙はそんな睦月の葛藤も知らず、嫌われてるなぁと肩を落とす。
「まったく、誰に似たのかしら。お爺ちゃんかしら? 愛想が悪い娘でごめんね紅牙くん。瑠璃ちゃんを起しに来てくれたのよね。いつものようにお願いしてもいいかしら」
睦月の母親が菜箸を片手にエプロン姿で台所からやってくる。
「おはようございます。嫌われるのには慣れてますから大丈夫です」
紅牙は軽く頷くと、靴を脱いで瑠璃の部屋へと向かった。
「う~ん。嫌ってる……というわけではなさそうなんだけどね」
そう言う睦月の母親の呟きは、紅牙の耳に入ることはなかった。
紅牙は瑠璃にあてがわれた部屋の前に立つと、礼儀上数回ノックする。
もちろん返事は無い。
それから何度か声をかけ、全く反応がないことを確認してから部屋に入る。
瑠璃は紅牙より二つ年下の少女で、鬼族の町では兄妹のように殆どの時間を一緒に生活していた。
本来人間社会には紅牙だけで行くはずだったのだが、その話を聞いた瑠璃は自分も絶対に行くと宣言し、あの手この手で画策し、根回しを行い、本当に行けるよう手配してしまった。
瑠璃の家系は青鬼族の中でも秀才と呼ばれ、一族のIQは一八〇ほどあり、記憶力、応用力、そうして政治力は他のどの青鬼よりも秀でていた。
赤鬼族の性格は真面目で勤勉であるが、青鬼族は対照的に怠惰で不真面目ある。
もちろん全員がすべて杓子定規な正確ではく、赤鬼族にも怠惰な鬼は居り、青鬼族にも勤勉な鬼は居る。傾向としてそういう性格が多いというだけだが、瑠璃はまさに青鬼の性格を体感させてくれた。
青鬼族は、いかに効率的に怠けられるか追求する余り、時として赤鬼族以上に勤勉になる場合がある。
そんな青鬼族の瑠璃が夕べ何をやっていたのか知らないが、今朝は机に突っ伏したまま眠りこけていた。
瑠璃の場合、毎回寝ている場所が異なる。
ベッドで寝ているのは稀で、床のあちこちで寝ていることが多い、前に一度、部屋のドアにもたれかかって眠っていたので、紅牙がドアを開けた瞬間、廊下に転がってきたこともあるくらいだ。
瑠璃が眠る机の脇には、ノートPCが置いてあり、付けっぱなしの画面には意味不明な文字の羅列が刻まれていた。
意味不明な文字の羅列は、プログラミング言語を知る人が見れば意味はあるのだろうが、後半部分はどうみても半分眠っていたとしか思えない連続した単語の表示が続いていた。
恐らく何かプログラムでも組んでいて、途中で寝てしまったのだろう。
「起きろ瑠璃。学校へ行くぞ」
紅牙は返事が無いことは折り込み済みで、形だけ声をかけ、頭についた二本の角を、指先で摘まんで思い切り引っ張った。
「にゃ~~~~~~~~っ! にゃにするの~~~!」
角を引っ張る紅牙の手の甲に、瑠璃の鋭い爪が何度も襲いかかる。
バリバリバリッという音が部屋中に響き渡る。
本気を出した猫程度に凶悪な爪での攻撃だったが、強靭な身体を持つ紅牙にはくすぐられてるようなもので、その手には傷一つ付いてない。
これがもし人間の柔肌なら、瑠璃の爪によって掻き毟られた箇所から鮮血が飛び散っていただろう。
この大怪我を誘発しそうな寝ぼけ攻撃があるので、瑠璃を起す役目は紅牙以外に務まらないのだ。
「にゃ~~~ん。痛い。痛いよ!」
角から紅牙の手をどかしてもらおうとジタバタ身じろぎする瑠璃。いくら寝起きが悪いとは言え、完全に覚醒しているようだ。
「目が覚めたか?」
「覚めたよ。覚めたから放してよ~」
紅牙が角を持つ手を緩めると、瑠璃は部屋の隅まで距離を取り、紅牙を威嚇した。
まだ少し寝ぼけているようだ。
目の前に居るのが紅牙だと気付くと、警戒を解いてそのままベッドにぽよんと腰掛け、そのまま横に倒れる。
「おやすみ~~」
「寝るな!」
紅牙は再び瑠璃の角を掴もうと迫ってくる。
「今日は休むぅ~。だって昨日寝たの四時過ぎなんだよ」
瑠璃は角を両手で隠して、触らせないように頭を抱えてイヤイヤと首を振った。
「知るか。どうせゲームでもやってたんだろ」
「違うよ。ゲームを改造してたんだよ。運営にバレないよう所持金やアイテムを増やすプログラムを組んだんだよ。これでルリたち億万長者だよ!」
うふふふと微笑み、得意げに瑠璃が宣言する。
「ゲームの中で金持ちになっても仕方ないだろ」
あきれ顔で紅牙が呟く。
「ふっふっふ、紅ちゃんはなにも知らないんだねぇ。ゲーム中のアイテムやなんかはRMT(リアルマネートレード)といって……」
瑠璃は紅牙は何も分かってないなという風に人差し指を宙にかざし、説明を始める。
「その話は長くなるのか? あと五分で準備しないと本当に置いて行くからな」
「いっ、行くよ! すぐに着替えるから紅ちゃんは外で待ってて!」
紅牙の無慈悲な一言で、我に返った瑠璃は慌ててクローゼットに走る。
「わかった。三分だけ待ってやる」
紅牙がそう言いながら部屋を出てドアを閉める。
「そ、そこに居てよ。ぜっ、絶~~対に先に行っちゃ嫌だよ」
いまにも泣き出しそうな声が瑠璃の部屋から聞こえてくる。
「どこにも行かないから早く着替えろ」
「うん! わかった」
瑠璃は人見知りが激しく、青柳家以外の人間が怖いので、一人で通学することが出来ない。
瑠璃は鬼族の中でさえ少し浮いたところがあり、部屋からあまり出たがらず、家にこもってやりたいことをやるという鬼族には珍しい引きこもりであった。
本来人間に恐れられる対象である鬼が、逆に人間を怖がっているというのは滑稽だなと紅牙は思ったが、瑠璃は女の子で、少し前まで引きこもりだったのだ。
腕力も人間と大差ない青鬼族の瑠璃が、見知らぬ人を恐れるのは当たり前なのだろうと思い直し、着替えが終わるのを黙って待っていた。
「紅ちゃんお待たせ!」
しばらくすると制服に着替えた瑠璃が部屋から飛び出してくる。
華奢な睦月よりも更に細い体で、肌の色は雪のように白かった。
蒼く長い髪を側頭部に生えた角のところで赤いリボンで結んだツインテールの髪形は、幼い顔立ちの瑠璃に良く似合っていた。
瞳の色は赤く、鬼族でも珍しい色をしていた。
紅牙は瑠璃の瞳を気に入っていたが、本人はそれが原因で鬼の子供たちに苛められた過去があるので、あまり好きではなさそうだった。
ちなみに、紅牙も髪の毛は茶髪に近い感じの赤褐色だったが、この程度の髪の色なら、人間でも良く見かけ、別に珍しくも無かった。
瞳の色も黒に近い茶色で、日本人の標準と大差なかった。
容姿の面では紅牙の方が、瑠璃以上に人間に近かった。
逆に瑠璃の容姿は鬼の中でも異彩を放っていたので、人間社会では奇異の目で見られることが多く、紅牙の付き添いが無ければ怖くて外出できないというのは無理からぬことだろう。
瑠璃の年齢は紅牙の二つ下で、本来なら学年は違うはずなのだが、紅牙の学年の授業程度なら幼少期に通過した頭脳をもっており、なにより紅牙と離れることを極端に嫌がったため、年齢を多少誤魔化して、同学年ということにしていた。
瑠璃にとってみれば、学校内であっても紅牙から離れることは恐怖だったのだ。
「それじゃ行くか」
「うん」
紅牙は瑠璃を連れて玄関先まで行き、睦月の母親が作った弁当を二つ受け取り、お礼を言って学校へと向かった。
身体能力では赤鬼族の紅牙に何一つ勝てない青鬼族の瑠璃であったが、勝てないまでも追従できる能力が一つだけあった。それが俊敏さである。
力のない青鬼族は戦いを避けるため、素早さだけは赤鬼族並みに速い。
そうして、遅刻しそうになっている紅牙と瑠璃は、通学路を爆走し、前方に睦月を見付けると、急ブレーキをかけて並んで歩く。
睦月に追い付いたということは、ここからは歩いても遅刻しないということだったからだ。
「おはよう睦月お姉ちゃん」
「おはよう瑠璃ちゃん」
睦月は瑠璃に対して軽く会釈をする。
瑠璃の隣で歩く紅牙は、玄関先で朝の挨拶は済ませていたので、軽く手を上げニカっと微笑んだだけだった。
睦月は今朝のやりとりで紅牙に嫌われたかと思っていたので、余り気にしてない様子の紅牙を見てホッと胸を撫で下ろしていた。
曽祖父が鬼とはいえ、青鬼族で角を折った老人のため、見た目は人間と変わりなく、他の鬼もそんなものだろうと思っていた。
そんな認識でいた睦月だったが、精気漲る赤毛の若鬼、赤鬼族首魁の息子である紅牙と引き合わされた時は、心臓を鷲掴みにされたのかと錯覚するほど、その姿が網膜に焼き付き、しばらくその場で固まってしまった。
睦月は始め、その荒々しい風貌に恐れを抱いたのだと思った。
だが、生活の一部を共に過ごすようになり、紅牙の人となりを知るにつれ、その感情は恐怖ではなかったのだと気付く。
紅牙と瑠璃が仲良くすればするほど胸が痛み、瑠璃に対して嫉妬心を抱いてしまうこの感情は、紛れもなく紅牙に恋焦がれている証拠だった。
そのことに気付いた睦月は、この感情がそれ以上育つことを恐れ、出来る限り紅牙たちと距離を置き、そっけない態度で接してきた。
だが、そんな睦月の努力も空しく、紅牙は睦月と仲良くなろうと思考錯誤しながら踏み込んで来る。
いっそ感情の全てを吐きだして楽になってしまおうかと睦月は思うが、断られるのは明らかで、それによって紅牙との仲がギクシャクするのは、耐えられる自信が無かった。
紅牙を先頭に教室に入ると、クラスメイトがワラワラと寄ってくる。
目当ては紅牙ではなく、彼の後ろで小さくなっている瑠璃だった。
転入当初、このクラスには事前情報として鬼族についての対応マニュアルやガイドライン配布、宣誓書にサインをさせたりしていたが、実際に二人の鬼族を見た時の驚きの声は、両隣の教室はおろか、さらにその隣にまで聞こえたほどだった。
だが、二人の外見に慣れ、紅牙の裏表のないざっくばらんな人柄や、人見知りしたり、人間を怖がる瑠璃の内気な性格等は、クラスメイトに好意的に働き、僅か一週間ほどで二人が居るのが当たり前という雰囲気を作り出す事に成功していた。
そうして、瑠璃の醸し出すイノセントな雰囲気と、青い髪と赤い瞳に小さな口元から少し覗く八重歯というか犬歯は、クラスの男子はおろか、女子まで巻き込んで萌え旋風を巻き起こした。
“まさか青鬼の正体が天使だったとは思わなかった”
“それに引き換え赤鬼はなんというか思った通りだ”
これがクラスメイト、いや学校中の生徒や教師の共通見解だった。
瑠璃や紅牙がクラスのアイドルというか人気者になれたのは、人間と鬼という種族の隔たりがあればこそであり、始めから紅牙と瑠璃はお似合いのカップルだという前提があったのが大きかった。
二人をワンセットで愛でることで、抜け駆けなどできない、普通の人間には侵すことができない純粋なアイドルとして瑠璃や紅牙を祭り上げることに成功していた。
むしろその二人と生活を共にしている睦月に対して、少なからず嫉妬や妬みのようなものがあった。
睦月は何度かクラスの女子に呼び出され、紅牙との関係を聞かれたりしていたが、紅牙と一緒に住んでいると言っても離れで曽祖父と暮らしており、殆ど喋ることも無いと答えると、女子たちは満足したような、それでいて物足りないような顔で睦月を解放した。
「オマエらそこに立たれると教室入れないだろ」
「いつものように入ってくればいいじゃん」
「今日は一五人がかりだ」
「いいけど、前の奴が圧死してもしらねーぞ」
クラスの男子と紅牙が行う、朝一番のレクリエーション。教室に入ろうとする紅牙を力で押し留めようとするものだ。
もちろん意地悪でやってるわけではなく、単なる力比べみたいなものだ。
このクラスは三一名で構成されており、男子は一六人で、女子は一五人在籍している。
これは紅牙と瑠璃を含むので、男子一五人がかりというのは、クラスの男子対紅牙ひとりという図式になる。
「睦月さん。瑠璃を頼むよ」
「いいけど気をつけてね」
「紅ちゃん頑張って!」
睦月は瑠璃を連れて、廊下の隅に移動する。
そうして教室の入り口に固まった男子たちを、まるでマネキンでも片付けるかのように持ち上げて身体を浮かせて足場を奪い、楽々と教室に入ってゆく。
一〇人ほど担ぐとさすがに持てる場所がないので、残りの五人はそのまま力ずくで押して、男子生徒が仰向けに倒れ込んでゲームオーバーとなった。
クラスの女子が紅牙に称賛の歓声をあげながら、クラスの男子たちには情けないなどブーイングの声を上げる。
しばらく教室内が騒然としていたが、担任教師が現れて、鬼龍院で遊ぶなと一喝し、なんとか騒ぎは収まった。
とはいえ毎朝恒例の行事みたいなものなので、担任教師も本気で怒っているわけではない。隣近所のクラスに迷惑がかかっているので、体面上怒るしかないのだ。
昼休み。紅牙と瑠璃と睦月は、机を並べて弁当を食べていた。
紅牙たちが編入してきた当初、同じように一緒に食べていたが、すぐに自分は一人で食べたいと睦月がいうので、その意見を尊重した。
鈍い紅牙は気付けなかったが、めざとい瑠璃は恐らくクラスメイトの誰かに抜け駆けズルイとか言われて辞退したんじゃないかなと、推測したことを紅牙に洩らした。
すると紅牙はクラスメイトの前で
「俺たち鬼族は家族を大切にする。もちろん人間もそうだと思ってる。そうして家族はできれば同じ飯を食いたい。でも睦月さんは恥ずかしいのか昼食を一緒に食べてくれないんだ。皆はどう思う?」
――といた演説をぶちかました。
それにより、一緒に食うべきだ。食べてやれよという多数の声と共に、クラス公認で一緒に食べざるを得なくなってしまった。
睦月は余計なお節介をと思いながらも、涙が出そうなくらい嬉しかった。
睦月に文句を言った女子グループには、瑠璃の方から、紅ちゃんはなにも知らないし、そういうの気にしないから大丈夫だよ。とフォローがあったので、それ以降三人で昼食を食べることに文句を言うものは居なくなった。
その日の夕飯後、風呂から上がった紅牙は離れに戻り、母屋には睦月と瑠璃が残された。
紅牙を見送った後、瑠璃は相談したいことがあると言って、睦月を部屋に誘った。
就寝前のハーブティーを一口飲んだ後、瑠璃は話を切り出した。
「睦月お姉ちゃん、聞いて下さい」
「どうしたの」
「最近の紅ちゃんって酷いんですよ」
「酷いって、紅牙くんに何かされたの?」
紅牙に限ってそんなことはないと思いつつも、瑠璃の可愛さの前に、思わず魔が差したのかもしれないと、睦月は顔を紅潮させた。
「違うんです。されたんじゃなくて、そのぉ、してくれないんです」
「えっ! してくれないって。な、何をかな?」
睦月は平静を装いながらも、心中は穏やかでなく、心臓の音が瑠璃に聞こえるのではないかと思うくらいドキドキと鼓動を刻んでいた。
「あのですね。シャンプーですよ。あとリンスも! 全部一人でやれって言うんですよ」
「シャンプーとリンス?」
「そうです。こっちに来る前はいつも洗ってくれたのに、こっちに来たらもう駄目だ。一人で洗えるだろって、酷いと思いませんか?」
「えっと。いまは一人で洗ってるの?」
「はい。でもシャンプー中は目を開けられないから怖くて丁寧に洗えないんです」
「あの、私でよければ洗ってあげてもいいけど?」
「ありがとうございます。でもお気持ちだけ頂きます」
「一人でちゃんと洗える?」
「えっと。睦月お姉ちゃんが嫌だって訳じゃないんですよ。でも、ルリの髪を触っていいのは、ルリと紅ちゃんだけなんです」
瑠璃は蒼いツインテールの髪の毛を愛おしそうに撫でながらそんなことを言う。
「そ、そうなんだ」
ほんの少しだけイラっときた睦月だが、それを表情に出すことはしない。
結局その後も、瑠璃の愚痴というかノロケ話のようなものに付き合わされた睦月は、合計一二回ほどイラっときて、そのうち三回は思わず舌打ちまで発してしまった。
唯一の救いは、瑠璃の話から紅牙はまだ瑠璃を異性として認識してはおらず、手間のかかる妹くらいにしか思って無さそうだということである。
シャンプーの件にしても、下宿を始めて一緒に入ろうとしたら睦月の母親にやんわりと別々に入った方がいいんじゃないと言われてかららしい。
つまり紅牙にとって瑠璃の裸は見慣れたもので、性的に欲求するようなものではないようだ。
瑠璃から聞いた話によると、鬼の生殖能力や性欲はそんなに強くなく、まだ生理を迎えてないような子鬼に欲情するような鬼は居ないらしい。
また、鬼の生理周期は半年に一度で、それを逃すとまた半年待たなければならない。
睦月は生理痛が半年に一度で済むのは羨ましいなと思ったりしたが、子作りを行う場合は大変かもしれないと思い直した。
実際鬼の繁殖は難しいことが多く、その数は減少の一途をたどっている。
ようやく瑠璃から解放された睦月は、少し喉が渇いたので、台所へと向かった。
その途中、リビングから庭を見ると、怪しい人影を見かけたので、慌てて身を潜める。
そうして窓際に移動して再び外を覗くと、庭に居るのは不審者ではなく紅牙だった。
安堵した睦月は、何をやっているのだろうと、紅牙を観察すると、紅牙は片手で逆立ちしたり、一トンはあろうかという巨大な置き石を担いでスクワットしたり、それを片手で持ち上げたりしている。
どうやら身体を鍛えているようだ。
こうして赤鬼族の怪力を目の当たりにすると、教室でのレクリエーションは、本当にただの遊びに過ぎないんだろうなと睦月は思った。
睦月は今でも十分強いはずの紅牙にこれ以上のトレーニングが必要なのだろうかと真剣に考えた。
考えても良く分からないので本人に直接聞こうかと思ったが、自分から声をかけるほどの勇気はない。
そんな葛藤中。コンコンというアルミサッシのガラス戸を叩く音が聞こえてきた。
なんだろうと顔を上げると、目の前に紅牙が立っていた。
驚いた睦月は、覗き見していたバツの悪さから、顔を紅潮させオロオロとその場で立ちすくむしかなかった。
紅牙が窓の外でガラス戸を開けてくれないかというジェスチャーをするので、睦月は慌てて戸を開いた。
「どうしたの睦月さん。ひょっとして五月蠅かったりした? だとしたら申し訳ない」
紅牙が庭からペコリと頭を下げる。
本当に礼儀正しくて気を遣うひとなんだなと、紅牙に対する睦月の評価が、またひとつ上がってしまった。
「喉が渇いただけ。紅牙くんのトレーニングとは関係ないわ」
「ならよかった。でも驚かせたのは事実だからな。今度から早朝にやるようにするよ」
「いまでも十分強いのに、どうしてトレーニングしてるの?」
「えっ! うーん。身体を鍛えるのが好きなんだ。えっと。睦月さんは頭いいけど勉強するよね」
「別に頭はよくないわ。それに勉強しないと頭は良くならないわよ」
「それと一緒だよ。俺たち赤鬼族は身体が資本だからね。鍛えなくても人間より腕力は強いけど、それじゃ熊やゴリラなんかの獣と一緒だよ。折角強靭な身体に恵まれたんだから、そこから更に錬磨すれば、誰かが危険な目にあったとき、救える命の数が更に増すかもしれないだろう。そういう時に後悔しないよう鍛えておけって親父からも言われてるし、俺もそう思うから好きでやってるんだ」
「そう。偉いのね」
そっけない返事をしたが、紅牙に対する好感度はキャパシティを越えてしまい、睦月の乙女心は爆発寸前で、何故こうも格好良いのだろうかと眩暈がしてきたほどだ。
「少し待ってて」
睦月は冷蔵庫へ向かい、ミネラルウォーターのペットボトルを二つ掴んで、リビングに戻った。
「どうぞ」
睦月は紅牙にペットボトルを差し出す。
「ありがとう睦月さん。実は喉がカラカラだったんだ」
紅牙はペットボトルの蓋を栄養ドリンクのCMで見たような感じで片手で開ける。
そうして豪快に喉に流し込んだ。
「生き返ったよ。ありがとう睦月さん」
睦月はそんな紅牙が一息つくのを待ってから、声をかけた。
「あの、紅牙くん」
「ん、なんだい?」
「もしよかったらなんだけど」
「うん」
「“さん”付けじゃないほうがいいかな」
「えっ! ひょっとして睦月さんって呼び方は嫌だった? それは申し訳ない。それじゃなんて呼ぼう。睦月ちゃん?」
「ち、違うわよ。そうじゃなくて」
「それじゃ睦月くん?」
「……紅牙くん。わざとやってるの?」
睦月は眼鏡を人差し指でクイっと持ち上げて、責めるように呟く。
「ああ、呼び捨てでいいってこと?」
「そうよ」
「よかった。嬉しいよ睦月。いつか睦月って呼びたかったんだ」
「それならどうして最初からそう呼ばなかったの」
「初対面の相手を呼び捨てにするなんて、相手に失礼じゃないか」
「確かにそうね」
どこまで真面目なんだろう。
睦月は可笑しさを堪えきれなくなり、クスっと微笑んだ。
「うん。思った通り、笑うと睦月はカワイイな」
「紅牙くんってたまに私を褒めるけど、それって本気で言ってるの」
「当たり前だろ。赤鬼族に詐欺師はいない。嘘つくのが下手なんだ。疑うなら瑠璃に聞いてみるといい」
「そう……」
「そうだ。俺からも睦月にお願いがあるんだ」
「お願いって?」
「俺のことは紅牙って呼んでくれ」
「そっそれは無理!」
「なんでだよ? 俺が睦月と呼ぶからには、睦月は俺を紅牙と呼ぶべきだ」
「それはそうかもしれないけど、少し待ってくれない? 人間には心の準備というものが必要なの」
「そうなのか? それじゃ仕方ないな。いつでも好きな時に呼びたくなったときでいいんで呼んでくれよな」
「そうさせてもらうわ」
睦月がそう言った時、リビングにある掛け時計が、深夜〇時を告げるジングルを鳴らした。
「おっと、もうこんな時間か」
「寝た方がいいわね。おやすみ紅牙くん」
「おやすみ睦月」
紅牙は軽く手を振って、離れの小屋へ帰って行った。
睦月は紅牙が小屋に入るまで見守り、それから戸を閉めて自室へと戻った。
部屋に戻った睦月は、しばらくの間、湯あたりしたようにボーっとベッドに横になっていた。
紅牙が自分の事を親しみを込めて睦月と呼んでくれたことは、思っていた以上に破壊力があり、まともに顔を見ることすら困難になりそうだった。
睦月は紅牙に惹かれてゆく自分を認めたものの、こんなにも早い速度で好意が膨らみ、溢れそうになるとは予想外だった。
紅牙と瑠璃が人間社会で研修する期間は一年間で、始めは一年なんてあっという間だと思っていたが、紅牙たちが人間社会にやってきて、睦月の家に下宿するようになってまだ一ヶ月弱しか経過してない。
残り一一ヶ月、自分の気持ちを抑えたまま生活できるのだろうかと、今更ながら睦月は不安になってきた。
名前を呼び捨てで呼んで欲しいなんて頼まなければ良かったと後悔したが、「睦月」と「睦月さん」では呼ばれた時の高揚感に雲泥の差があり、一度その幸福を味わってしまうと、もう後には戻れそうになかった。
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