第18話


「そ、それ本当なの? 本当に本当にそんなこと言ったの?」

 事情を聞いた透は、驚きと同時に、汚物でも見るような視線を健一に向ける。

「あーあ。ボク知らないよ。ケンイチも迂闊だったね。その場の雰囲気で言っちゃったんだろうけど、トーコには冗談とか通用しないよ」

「マジで?」

「当たり前じゃない。健ちゃんのバァカ~~~~~~~ッ!」

 珍しく透が怒りを露わにして、健一をグーで殴った。

 格闘技経験者だけあって、腰の入った稲妻のようなフックが健一のわき腹に突き刺さる。「がっ、かはっ!」

 健一は身体をくの字に折り曲げながら、教室の端まで転がってゆく。

「サイテーだよ健ちゃん。見損なったよ」

 瞳には大粒の涙を浮かべながら、吐き捨てるように透が呟く。

 教室の隅でぶっ倒れた健一は、自分がそれほど酷い事をしたのだろうかと自問しながら、わき腹の痛みに耐えていた。

 立ち上がる気力を失った健一の元に、トリノがトコトコ歩いてくる。

 そうして健一の目の前で立ち止まると、しゃがみこんだ。


「ご愁傷さまだねケンイチ。ひとつだけアドバイスするなら“愛してる”宣言が実は冗談だったなんてことは絶対に言わないことだね」

 両手を合わせてナムナムと呟きながら、トリノは健一を見下ろしている。

「い、言ったらどうなりますかね?」

「ケンイチの命の保証はできないね。ボクは逆上したトーコを止めるだけのスキルは持ってないし、止めるつもりもないからね」

「桃子がオレの台詞を冗談だって気付いてくれる可能性は?」

「ないねぇ。トーコの脳内でのケンイチは、自分にラブラブで少し鬱陶しいくらいの存在になってるんじゃないかな?」

「オレが桃子に鬱陶しがられてんの?」

「多分ね。きっと目覚めたら、“気安く話しかけないで”とか“あんな台詞で私が喜ぶとでも思ってるの”みたいなことを言うね。絶対だよ」

「どうすればいいですかね? 何かよい知恵はありませんか?」

 健一はすがるような瞳でトリノを見上げた。

「そうだね。とにかく時間が必要だね。数ヶ月とか一年くらい経ったあたりで“他に好きな人が出来た”とか“キミへの愛が色あせてしまった。すまない”なんて台詞でゴリ押しすれば半殺しくらいで済むんじゃないかな?」

「それでも半殺しか……」

「健ちゃんにトリノ。桃子さんが目を覚ましそうよ」

 慌てて透たちに視線を送ると、確かに横になった桃子が身じろぎをして、うわごとのような言葉を発していた。

「ケンイチ。急いで保健室に行くんだ!」

「え? なぜですか?」

「気絶したトーコを心配して先生を呼びに行ったということにしとくから早く!」

「というか出てっていいんですか?」

「むしろ居ない方がいい」

「分かりました」

 健一はトリノに言われるがまま、教室を後にした。


「あら? ここは……」

 瞳を開けると桃子の視界には、心配そうな表情をした透が目に入ってきた。

「桃子さん。気が付いたんですね!」

「なんだ。生きてたのか。つまんない奴だなトーコは」

「透さん……。健一くんはどうしたの?」

 てっきり健一の膝の上で眠っていたのだろうと思っていた桃子は、少しがっかりしたように尋ねす。

 ちなみにトリノのことはまるで眼中にないというか、視界には入っているものの、背景と同じものと認識し、意識外に置いているようだ。

「あのね桃子さん。健ちゃんは保健室に行って保健の先生を呼びに行ったんだよ」

「あらそうなの。それなら仕方ないわね」

「ボクたちが戻ってきたらケンイチが気絶したトーコを襲ってたから驚いたよ。まさかケンイチにそんあ甲斐性があるなんてね~」

「トリノは黙ってて! 違うんです。桃子さんが気絶したからどうしようって……。いったい何があったんですか?」

「なにが、ですって? 貴女たち、健一くんからなにも聞いてないの?」

「聞いたよ。ケンイチを背後から襲おうとしたトーコが、慌てて立ち上がったケンイチの頭部に顎をぶつけて、脳震盪を起こして気絶したんだって? 馬鹿だなあ」

「そう。なにも聞いてないようね」

 やれやれと呆れたように桃子は首を振り、桃子はゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫ですか桃子さん?」

「もちろんよ」

「アゴ痛くない?」

「痛くないわ。それ以上喋ると、貴女の顎を二つに割るわよ」

 手刀をトリノの顎に突き出し、桃子が凄む。

「冗談だよ。冗談。それにしてもケンイチのヤツ遅いな~」

「そのようね。少し様子を見てくるわ」

「あ、あたしが見てきますよ」

「大丈夫。心配には及ばないわ」

 桃子はそう言うと、一人保健室へと向かった。


 健一は誰もいない保健室に一人佇んでいた。

 その面持ちは暗く、自身の失言を反芻してはため息を何度も洩らす。

 保健室のドアが開いたので、保健の先生が戻ってきたのかと振り向いたら、そこには桃子が立っていた。

「あっ……」

 健一は呆けたように呟くことしかできず、二の句は紡げなかった。

「まるで病人ね」

 桃子は健室に入り、健一の目の前に立つ。

「ああごめん。保健の先生いなくて、ちょっと途方に暮れてた。それにしても、いきなり気絶したから驚いたよ」

「私もよ。まさか目が覚めたら健一くんではなく透さんが介抱してるなんて。一瞬何が起こったのか分からなかったわ」

「ご期待に添えなくてごめん」

「あの二人はいつから居たのかしら?」

「桃子が倒れた直後くらいだよ。まるでずっと様子を伺っていたかのようなタイミングだったよ」

「冗談ではなく、本当に伺っていたんでしょう」

「いや、それはないと思うよ」

「それについてはどちらでもいいわ。それより健一くん」

 さて本題とばかりに桃子が健一に向き直り、鋭い視線を向ける。

「なっ、なんでしょう」

「さっき私に囁いた言葉だけど」

「うん」

「あれは本気だったのかしら?」

「確認してくるってことは、本気か嘘か半信半疑ってわけなのかな?」

 これはもしかして冗談だと言えるのかと健一は一瞬喜んだが、

「いいえ違うわ。まさか冗談だったなんて言わないわよねという確認よ」

 という桃子の一言で、奈落の底に落とされてしまった。

「ちなみに冗談ですと言ったら、オレはどうなるのかな?」

「どうなるか知りたいの?」

 桃子は微笑むが、瞳はまるで笑ってなく、冷たい氷を見ているようだった。

「冗談かそうでないかは、桃子の判断にゆだねるよ」

「そう。うまく逃げたわね。でも勘違いしないでよね。あんな言葉くらいで私が舞い上がるとでも思ったら大間違いよ。むしろ迷惑だわ」

「わかってるよ」

 トリノの言う通りの反応だったので、健一は少しだけおかしく思った。

「笑ってるの? 余裕のつもりなのかしら?」

「そういうわけじゃないよ」

「確かに私の従者たる健一くんが、私に身分不相応な恋心を抱くのは、時間の問題というか、充分に想定される事態ではあったのだけれど、突然だったから驚いただけなの」

「気絶するほど驚くんだ?」

「違うわ。あれは違うの。そう幽霊! 窓の外に幽霊がいたのよ」

「ゆ、幽霊?」

 嘘をつくにしてももう少しマシな嘘がありそうな気がする。

 少なくとも陣羽織桃子なら同じ嘘でももっと強引で、納得はできなくとも反論しようがない言葉で誤魔化せるはずだった。

「そう、私ってそういう心霊現象が苦手なの。だから幽霊を見てびっくりして気絶したのよ。悪い?」

「……いや、悪くはないし、そういうことにしといてもいいけどさ。ただ、そんなんで鬼退治とかできるの?」

「そうね。もう無理かも知れないわ。いままでは強がっていたけど、実は鬼と対峙するの、とても怖かったのよ」

「そうだったんだー。知らなかったー」

 感情のこもってない棒読みで、健一は答える。

「健一くんが一緒だったから戦えたのよ」

「なるほど。うん。怖い事はしない方がいいよ。オレも桃子に危険なことはして欲しくないし、オレもそういう危険な行為とは無縁な人生を歩みたい」

「そろそろ潮時かもしれないわね」

 まだなにも始めてないような気がするが、健一にとって願っても無い提案だったので、茶々を入れるつもりはない。

「そうだな。そろそろ潮時かもしれないな」

「引退しても問題ないかしら?」

「ああ、桃子はよく頑張ったよ。そろそろ休んだ方がいい」

「健一くんがそう言うんじゃ仕方ないわね」

 桃子はそういうと、保健室のベッドに向かった。

「どうしたの?」

「ちょっと来てくれる?」

「いいけど……」

 健一はすでにベッドに腰掛けている桃子の隣に座った。


 しばらく沈黙が続いたので、気になった健一が桃子に視線を送ると、目が会った瞬間に桃子が健一に覆いかぶさってきた。

 そうしてそのままベッドに倒れ込み、健一の上に桃子が跨る格好になっていた。

「えっと。これはなに?」

 桃子の長い髪の毛が、まるで健一を縛る拘束具のように、全身に広がっていた。

 石鹸とシャンプーのいい匂いが健一の鼻孔をくすぐる。

「そういえば、私が上になるのって、初めて出会ったとき以来かも……」

「そういう誤解を招くような事を言わないで欲しいな」

「だって事実でしょう? 違うのなら反論を聞きたいわ」

 確かに桃子の言う通り、出会ってすぐに健一は桃子を押し倒し、胸に触れ、唇にも触れたが、それらは全て事故であり、不可抗力であった。

「あの時と違うのは、これが自分の意思で行っているか否かということくらいよ。それって非常に些細な違いに過ぎないわ」

 桃子の顔が健一のすぐ近くに迫る。

「故意か偶然か、そこが一番重要な差異だと思うぞ」

「結果的には同じことだわ」

 健一はそれ以上言葉を発することができなかった。

 何故なら健一の唇は桃子の柔らかな唇によって塞がれてしまったからだ。

「んっ……んむっ……」

 突然の出来事に、健一は瞳を見開いたまま茫然としていた。

 唇に触れるだけのフレンチキスだったが、それでも桃子の息を殺した声と、恥ずかしそうに閉じられたまぶたから伸びる長いまつげは美しく綺麗で、相手が桃子であると分かっていても、こみ上げる喜びのようなものがあった。

 正確な時間は分からなかったが、三〇秒から一分程度、キスは続き、桃子は名残惜しそうに押し当てた唇を放し、少し湿った唇を、舌で軽くなぞった。


「ぷはっ、はっ、はぁ、はぁはぁ……」

 ずっと息を我慢していた健一は、丘に上がった素潜りの素人みたいに荒い呼吸を行う。

「ムードもなにもないわね。健一くんの唾液が顔にかかったわ」

 桃子は自分の頬に飛び散った唾液を指先で拭うと、それをペロリと舐める。

「おかえしよ」

 桃子は再び健一の唇を奪うと、今度は自分の唾液を健一の口に流し込んだ。

 生温かい桃子の唾液はすぐに健一の唾液と交り合い、溶け合って喉の奥に流れてゆく。

「ふう……」

 唾液を流し込んだ桃子が、満足げに吐息を洩らす。

「健一くん。次はどうしたいの?」

「次はって、も、もういまので充分だよ。これ以上は理性が持たない」

「まだ理性が残ってたの? 凄い精神力だわ。本当に健一くんは女の子のプライドをズタズタにする達人よね。どうすれば獣のように本能で行動するようになるのかしら?」

 桃子はそういうと、制服のボタンを外し始める。

「なに脱ごうとしてるんだよ」

「え? 着たままがいいの? そう。そうだったんだ。健一くんって意外とマニアックなのね。でも着衣プレイは服がシワになりそうだから今日は我慢して。ねっ?」

「ねっ、じゃないよ。そうじゃなくて、なんで発情してるの? 理由を説明してくれ」

「鬼退治を引退するって言ったじゃない」

「うん聞いた」

「はぁ、本当に忘れてるみたいね。前に引退する条件を教えたはずだけど?」

「引退する条件……」

 健一は記憶の糸を手繰り寄せる。しばらく記憶の底に潜り込み検索した結果、ようやく思い出した。

「あっ!」

「うふふ。そうよ。ようやく思い出したみたいね。引退するには次の世代に継承し、望みを託さないといけないのよ」

 確かに桃子は言った。

 桃太郎のやめるには、その役目を子孫に託さなければならないと。

 そのために健一の協力が必要であると。

 子孫とはすなわち自身の子であり、要するに子作りするところから始めなければならない。

 桃子は引退する決意を固め、いまはそのための準備を行っているに過ぎないのだ。

「やっぱり引退はやめよう。問題を先送りにしたり、子供の世代に迷惑をかけるわけにはいかないという気になってきた」

「そんな酷いわ。健一くんは私が危険な目に遭っても平気だというの?」

「オレより強いじゃないか。それに危険な行為をしなければ危険な目には遭わないと思うよ」

「それでは鬼退治なんてできないわ」

「それこそ、ここ数週間なにもしてない気がするけど」

「明日からやるわ」

「そんないきなり使命に燃えなくても。それに鬼退治とかしてたら勉強できなくなって桃子と一緒の大学に行けなくなるじゃないか」

「そ、それは困るわね」

「オレが受験に失敗して、フリーターになってバイト先の女の子と仲良くなってそのまま付き合ってもいいなら鬼退治してもいいよ」

「なにふざけたこと言ってるの。冗談にしても笑えないわ」

 無意識なのだろうが、桃子の両腕が健一の首を抑えて軽く絞めていた。

「あの、首が締まってくるしいんですけど……」

「え? ああごめんなさい。手が勝手に動いたみたい。でも健一くんが悪いのよ。急に変なことを言うから」

 健一の首には桃子の手形がくっきりと残っていた。

 痛む首をさすっていると、保健室前の廊下を誰かが走る足音が聞こえた。

「あのさ、誰か来たみたいだよ。このタイミングでやってくる連中はオレが知る限り二人しかないけど、どうする?」

「……少しくらい気を利かせればいいのに。まあいいわ。仕方ないわね」

 桃子は脱ぎかけた制服をちゃんと着て、ベッドから降りた。

 健一がベッドから起き上がるのとほぼ同時に、保健室のドアが開いた。


 保健室に入ってきたのは予想通り透とトリノだった。

「え? あの……」

 透は保健室のベッドから降りてきた健一たちを目の当たりにして硬直していた。

「やややっ! お楽しみでしたか。でも処女と童貞だと色々大変だったんじゃない?」

「ええっ! うそぉ! け、健ちゃんたちが、そんなぁ……」

 透が顔を真っ赤にしながら慌てふためく。

「残念ながらまだ処女よ」

 すごく不機嫌そうな口調で桃子は吐き捨てると、そのまま保健室を後にした。

 カミナリみたいな勢いでドアが閉じられ、しばらく保健室がビリビリと揺れていた。

「た、助かった……」

「ケンイチはヘタレだなぁ。ここで一発トーコにキメておけば、ひょっとしたら優位に立てたかもしれないのになぁ」

「マジですか?」

「駄目だよ。健ちゃんの馬鹿! そういうことは結婚してからじゃないと」

「というかケンイチは性欲ないのかい? それともやっぱり同性愛者なのかい? そうならボクたち趣味が合いそうだね」

「いや違う。なんだろう。もう意地になってるというか、絶対に誘惑に負けないみたいな心境にはなってる気がする」

「なにへっぽこアスリートみたいなこと言ってんだよ。据え膳は食べないと駄目じゃないか」

「でも毒が盛ってあるって分かってて食べる奴はいないでしょう?」

「健ちゃんひどい。桃子さんに毒なんてないよ」

「じゃあ食べてもいいのか?」

「それは駄目だよ!」

 健一はどうすればいいんだと思いながらも、とりあえず桃子の誘惑を回避できた自分の精神力の強さに酔っていた。



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