第17話
特進クラスが設立されて二週間が経過した。
四六時中顔を突き合わせていると、お互いの力関係みたいなものが分かってくるようだ。
かなり簡単に説明すると、桃子は健一には強いが、トリノには弱い。
そのトリノは桃子には強いが、透に弱く、その透はトリノに強いが、健一に弱い。
健一は透には強いが、桃子に弱いという、じゃんけんみたいな相関図になっていた。
桃子と透、健一とトリノの関係は対等というか不干渉というか、とにかく目立った対立のようなものは無かった。
特進クラスと言えば聞こえが良いが、まるでやる気のない文化部のように、出席もまちまちで、基本的に全て自習のため、授業中だろうが平気で教室の外に出たり、校庭や校外にまで外出することもあった。
毎日真面目に出席しているのは健一くらいで、トリノは基本的なことを健一に教えたら、後は余程の事が無い限り自分で考えさせるようにしていたので、空き時間は透にちょっかいを出していたり、どこかへ出かけていることが多い。
透はまだ一年ということと、元より勉強嫌いもあり、健一が心配になるくらい、全くと言ってよいほど勉強していなかった。
桃子やトリノと違って透の頭は凡人以下なので、ちゃんと勉強しないと進学できないと何度か健一は説教したが、進学するつもりはなく卒業出来れば問題ないと言って遊び呆けていた。
珍しく教室には健一と桃子だけが居た。
健一は勉強の手を休め、背中を反って大きく伸びをする。
すると、真後ろに桃子が立っていた。
健一は背中を反った状態でさかさまになった桃子を見上げていたが、どの角度から見ても綺麗な奴だなと、改めて桃子の美麗さに舌を巻いた。
「調子はどう?」
「そうね。悪くはないわ。雉丸さんたちが居ない今は特に静かで心地好いわ」
「そりゃよかった」
健一は机に向き直り、問題の続きを始めようとした。
「ねえ犬飼くん」
健一の肩に両手を置いた桃子が、耳元でそう囁く。
「うわっ! ち、近いよ陣羽織さん」
「私たちが同棲を始めて半月が過ぎたわ」
同棲という言い方はどうかと思ったが、指摘しても無駄なので健一は聞き流した。
「へぇ。そうなんだ。早いものだね」
「そうね。ところで犬飼くんは、どうして夜這にこないのかしら?」
シャーペンを持つ手に力が入り、ペン先がボキリと折れた。
「あ~、夜這ね。そうだね。トリノ姉さんの宿題が忙しくて忘れてたよ。そのうちね」
「忘れてたということは、思い出したいま、例えば今夜とか期待してよいのかしら?」
「あ~今夜は無理かな」
「では明日はどうかしら?」
「明日も無理っぽい」
「明後日は……」
「多分無理」
「うふふふふふ、ふふふふ、ふっ、ふん!」
健一の肩に触れる桃子の両手は得物を掴んだ猛禽類のように、がっちりと爪を立てて食い込んでいた。
「イテェ! イタッ! 陣羽織さん。痛い。もの凄く痛いよ」
「あらそう? 私の方が何倍も傷付いているというのに、肩をつねったくらいで痛がるなんて、犬飼くんは堪え症が無いわね」
「いや、そもそもなんで夜這しなくちゃいけないんだ?」
「犬飼くんは年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしていて、間違いが起きない方が間違ってると思わないの?」
「思わないよ。むしろよく耐えてると褒めて欲しいよ」
「え?」
「あ、いや、今のは無しで、聞かなかったことに……」
聞かなかったことにして欲しかったが、とてもじゃないが出来そうにない雰囲気だった。
「へぇ。ふうん。そうなんだ。犬飼くんも人並みに性欲を持て余して、我慢してたんだ」
勝ち誇ったように桃子が呟く。なぜかとても嬉しそうだ。
「そうだよ。悪いかよ」
「ううん。そんなことはないわ。むしろ言ってくれればちゃんと手伝ってあげるのに」
「全力でお断りします」
「一時の気の迷いでもなんでもいいから、欲望に身を任せてしまうのもいいものよ?」
「恐ろしい事をサラっというね」
「そう? 私は自分に素直なだけよ。それはそうと犬飼くん。普通の女の子みたいなウブな質問をしてもいいかしら?」
「陣羽織さんの普通っていうのがどれくらいなのか、とても気になるから是非頼むよ」
「失礼ね。まあいいわ。質問の内容なんだけど、性格とか考えず、純粋に容姿だけで判断した場合、私と透さんと雉丸さんの誰が、犬飼くんの好きなタイプに近いのかしら?」
予想以上に普通の女の子らしい質問だった。ある意味予想を裏切られたので健一は驚き、それと同時にとても答えにくい内容だったのでしばし言葉を失った。
「……お、驚いた」
「驚くような質問では無いはずよ? さあ答えて」
「そうだね。三人の事をまるで知らず、写真だけを見せられて、この中から誰か選べと言われたら……」
「言われたら?」
「たぶん、いやほぼ間違いなく陣羽織さんを選ぶんじゃないかな?」
「そうね。それが当然の選択よね」
嬉しがったり照れたりせず、顔色一つ変えない桃子を見るに、どうやら本気で当然の選択と思っていたらしい。
「それがどうかしたの?」
「別に。ただ聞いてみただけよ」
ぷいっとそっぽを向く桃子。その仕草は少し可愛いなと健一は思った。
「そうだ。オレからも質問していいかな?」
「犬飼くんが私に興味を示すなんて珍しいわね。いいわよ。どんな恥ずかしい質問だったとしても、怒らずに答えてあげるわ」
「質問というか確認なんだけど、陣羽織さんが桃太郎の生まれ変わりとかいう話はもう終わったことでいいんだよね?」
「何を言ってるの? ふざけないで! いくら温厚な私でも怒るわよ」
「怒らないって言ったじゃないか」
温厚というワードに対しても言いたいことが山ほどあったが、それよりもまず怒っていることに健一は突っ込んだ。
「怒らないって言ったのは、恥ずかしい質問だった場合の話よ。こんな人格を否定し、挑発して貶めるような発言を許すわけにはいかないわ」
「えっ! ちょっと待って。それじゃまだ桃太郎伝説は継続中なの?」
「当たり前じゃない」
「オレはてっきりこの特進クラスの面子でグダグダやって過ごして高校生活を終わるのかと思ってたんだけど?」
「まだ“猿”と“雉”の生まれ変わりが見付かって無いわ」
「いやそれならもう透とトリノ姉さんでいいんじゃない? このクラスだって一般の生徒からは桃太郎クラスって言われてるくらいだし、むしろそうなるべく集まったとしか思えないんだけど?」
「……確かに犬飼くんの言うことにも一理あるわ。透さんが“猿”の生まれ変わりかもしれないという疑念を少しではあるものの考えないではないわ」
「だったら問題ないじゃん。透とトリノ姉さんで妥協しよう!」
「千歩譲って透さんはよくても雉丸さんは駄目よ」
「駄目って、そりゃ陣羽織さんの好みで選んでるからでしょ?」
「そうよ。でもそれって、かなり重要なことなのよ」
「いや、生まれ変わりって言ってるくせに自分の好み優先って矛盾してない?」
「してないわよ。桃太郎というトップに対して犬、猿、雉という部下がいるの。桃太郎である私に刃向うような輩が雉の生まれ変わりな訳ないじゃない」
確かにそれは一理あったが、それで言いくるめられたらいつまで経っても“雉”となる人材が見付つからない気がするので、健一は食い下がった。
「トリノ姉さんはまあその、ご意見番みたいな位置でいいんじゃない? ワンマン過ぎると部下も付いてこないよ? それにキジってなんか参謀役っぽい感じがするよね?」
「そうかしら?」
「そうだよ。オレや透は大した知恵はないけど、陣羽織さんとトリノ姉さんが議論すれば、きっと素晴らしい答えが見るかるはずだよ」
「犬飼くん。私を丸めこもうとしてない?」
「そんなことはないよ。この特進クラスに四人揃った意味を考えてごらんよ。トリノ姉さんだけのけものってなんか変だと思わない?」
「別に思わないわ。むしろあの子がイレギュラーなのよ。でも、そうね。犬飼くんがどうしてもというのなら、少しくらいは考えてみてもいいわ」
「ありがとう陣羽織さん」
「桃子よ」
「え?」
「犬飼くんはいつまで私の事を陣羽織さんと呼び続けるつもりなの? 雉丸さんのことだっていつの間にか“トリノ姉さん”とか呼んでるし、嫌がらせなの? それともそういうプレイなの?」
「いや、別に意地悪しているわけでも、何かのプレイをしているわけでもないけど、なんとなくだよ」
「犬飼くんのそのなんとなくのせいで私はずっと傷付いてきたのよ。どう責任を取るつもりなの? この精神的苦痛は計り知れないわ」
「初耳だよ。言わないとわからないよそんなことは」
「いま言ったわ。さあどうするの?」
「陣羽織さんはどうして欲しいのさ?」
「親しみと愛情と真心を込めて名前で呼べばいいじゃない」
「桃子さん、でいいのかな?」
「犬飼くんと私は同級生よね?」
「陣羽織さんだってオレのことずっと犬飼くん呼びじゃないか。そうだよ。それがあるからオレも陣羽織さんと呼ばずにはいられなかったんだよ」
「それじゃなに? 私が悪いっていうの?」
「そうじゃないけど、陣羽織さんが犬飼くんって言い続けてたらオレの方も陣羽織さんって呼ぶしかないじゃない」
「どうして?」
「なんだろ。呼称の等価交換的ななにか、そういうのが働いたんじゃない?」
「分かったわ。それじゃあ健一と呼べばいいのね。健一くん」
「ケンじゃないんだ?」
「あれはまだ健一くんのことを良く知らなかったから勢いで呼べたのよ」
「どうしてそうなるのか分からないけど、まあいいよ」
「健一くん」
「はい」
「ねぇ健一くん」
「え? どうしたの?」
「あのね健一くん。私が健一くんって言ったら普通は“なんだい桃子”とか言うものじゃないの?」
「あ、そういうこと。ごめんごめん。ちなみにオレの方は呼び捨てで構わないの?」
「構わないわ」
「ありがとう。桃子」
「れ、礼には及ばないわ」
珍しく桃子の顔が紅潮していた。
「桃子って呼ばれるのが恥ずかしいならやめようか?」
「か、構わないわ。むしろ慣れるためにも連呼してもらえるかしら?」
「連呼って、桃子、桃子、桃子、桃子、桃子、桃子、桃子桃子桃子桃子桃子桃子桃子桃子……」
「い、いつまで連呼してるの。もういいわ。お腹一杯よ。本当に健一くんは極端ね。腰が抜けそうになったじゃない」
「名前を呼ばれただけでそうなるものなの?」
「なるわよ。いまの私は生まれたての小鹿と同じくらい足元がおぼつかないわ。押し倒すならいまがチャンスよ」
「そうだね。いつまでも桃子をじらすは可哀想だし、いまなら透たちも居ない。それに学校の授業中というのもまた格別だよね」
健一は席を立って、桃子の腰に手を回し、軽く引き寄せる。
「愛してるよ桃子」
何気なく口にした一言。
健一にしてみれば、一連の流れから生み出された軽い冗談の台詞だった。
だけどそれは桃子に対して絶対に言ってはいけないNGワードであり、冗談の一言で済ますことを許されない禁句だった。
「にゃにゃっ! にゃにおぉ~~!」
桃子はこれまで聞いたことも無いような素っ頓狂な声をあげ、そのまま目を回して気絶してしまった。
腕の中で急に気絶した桃子の重みが片手にすべてのしかかってきたので、健一はバランスをくずして、教室の床に倒れこんた。
その際、桃子の頭部や全身を守るように両手で抱き抱えるように倒れたので、健一は両肘、両膝を思い切り床にぶつけることになった。
「いって~~~」
衝撃が骨に直接響き、痛みが全身に駆け巡る。
「なになに? いま大きな音が聞こえたけどどうしたの?」
「たっだいま~!」
最悪のタイミングで透とトリノが教室に戻ってきた。
「けけけ、健ちゃん! なな、なにやってるの!」
「なにしてるって。トオルちゃんだって分かってるくせに~。ゲヘヘ、健一も大胆だね~。そういうのはウチでやればいいのに。ああそうかウチじゃ刺激が足りなくなったんだね」
「いや、まあ、とりあえず助けてくれ。桃子が気絶しちまった」
「桃子さんが気絶って、け、健ちゃん。まさか薬品とかで……」
「トーコを気絶させるなんて健一いつの間にそんなスキルを身に付けたんだい? 正直ヒグマを素手で眠らせるより大変だと思ったけど。どんな狡猾な罠で陥れたんだい?」
「最初から全部説明するから、とにかく助けてくれ!」
両肘、両膝を思い切り打ちつけ、痺れにもにた感覚が全身に走っている健一は痛みで身動きがとれなかったので、透たちに助けて貰った。
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