第8話
陣羽織桃子への放尿事件から数日が過ぎた。
退学はもちろんのこと、死すら覚悟していた健一だったが、意外な事になんのお咎めも無く、事件翌日欠席しただけで二日目からは普通に通学していた。
学校に行こうと思ったのは、透から陣羽織桃子が休学届を出したという知らせを聞いたからだ。
陣羽織桃子がプールの更衣室で小便まみれになって気絶していた件については緘口令が敷かれてはいたが、またたく間に全校生徒に知れ渡ることとなった。
ただし、その犯人についての憶測はタブーとなっていた。犯人捜しはもちろんのこと、その噂をした者は、陣羽織家に消されるという噂により、話題にあがることは無かった。
「ねぇ健ちゃん。結局陣羽織先輩って何がやりたかったの?」
「知らん。知ってても教えたくない」
健一と同じ学校に編入した透は、ほぼ毎日のように健一の部屋に寄り道し、一~二時間ほど時間を潰し夕飯を食べてから帰るようになっていた。
透の母親は外資系コンサル会社の幹部社員のため、二二時以降に帰宅することが通常運転であり、夕飯を食べてくるため家に一人で居るのは退屈だという理由かららしい。
恐らく編入前も同じ生活を送っていたのだろうが、別段追い返す理由も無いのでそのままにしていた。
「ねぇねぇ健ちゃん」
「さっきからなんだ」
「陣羽織先輩の事件ってさ、犯人はズバリ健ちゃんなんでしょ?」
「ちがう。オレはそんな変態じゃない」
「そうなの? 絶対健ちゃんだと思ってたんだけどな~」
「どうしてそう思う。あいつを疎ましく思ってた奴なんて幾らでもいるんじゃないか?」
「そうかもだけど……」
「それより余り詮索するな。何処で誰に聞かれてるか分からないんだぞ」
「あははまさか。盗聴器でも仕掛けてあるっていうの?」
「いやそれは……いやまて!」
そのまさかをやるのが陣羽織桃子じゃないかと健一は思い出し身震いした。
健一は唇に指を当て、透に喋るなとジェスチャーを送り黙らせる。
そうして窓際に立って一気にカーテンを開けた。
――だが、当たり前だが窓の外には誰も居なかった。
少しだけ梯子かなんかで窓に貼りついて会話を聞いてるんじゃないかと思った健一だったが、杞憂に過ぎなかったようだ。
「どしたのん?」
「いや、なんでもない」
その後しばらくして夕飯を食べ、透を玄関先で見送った健一は、すっかり油断した状態で部屋へと戻った。
「あの事件の犯人が自分だって白状したら殺すつもりだったけど、よく我慢できたわね」
「お、おまっ、なんで?」
いつの間に侵入したのか、健一の部屋に陣羽織桃子が腕を組んで仁王立ちの姿勢でふんぞりかえっていた。
桃子が部屋に侵入していたことより、その格好に健一は驚いていた。
なにせ桃子が着ているものと言えば紺色の布一枚。いわゆる競泳用水着だったからだ。
家に来て着替えたのか、このままの格好でここまできたのかとても気になったが、とてもそんなことを尋ねられる雰囲気ではなかった。
「余り大声を出さない方がいいわ」
「な、なんて格好してんだよ」
喉の奥から絞り出すようなかすれた声で健一呟いた。
「あのね犬飼くん。私これから一方的に喋るけど、途中で質問とか茶々とかいれないでね。わかったなら一回だけ返事していいわよ」
陣羽織桃子の口調とその瞳は恐ろしいほど澄んでおり、それがまた常軌を逸した感じがしてとても逆らう気にはなれなかった。
「……わ、わかった」
「ありがとう。それじゃまず始めに、私が犬飼くんとの接触に時間をおいた理由はわかるかしら?」
「…………」
健一は黙ってろと言われた気がしたので無言でいた。
いたのだが――。
「あのね犬飼くん。私の質問には答えていいのよ。というか答えなさい」
「わかったよ。それで質問の答えだけどわからないよ」
「そう。それはね。私の中に芽生えた犬飼くんへの殺意と怒りを鎮めるためには、どうしてもまとまった時間が必要だったの」
「…………」
再び無言でいると、
「あのね犬飼くん。相槌くらい打ってもいいのよ」
「あ、うん。そうなんだ。それで少しは怒りは収まったの?」
「ええまあ少しはね。なんとか堪忍袋にギリッギリ収まってるという感じね。でも今後の犬飼くんの態度次第ではどうなるか分からないわ。あと私、絶対に犬飼くんを許さないから。一生許さない。一生涯よ? わかった?」
「分かったよ」
「そりゃ犬飼くんは転生前は犬ですもの。つい本能で所構わずマーキングしたくなるという生理現象は理解しているつもりよ。でも私は犬飼くんの主人よ? その主人を相手にそういう行為をするのは不敬だと思わなかったの?」
「そうだね。軽率だったよ」
「あら。ひょっとして反省しているの?」
「やりすぎたとは思ってるよ」
「そう。それじゃ償ってくれる?」
「いいよ。なにをすればいい」
「まずはそこで犬みたいに四つん這いになってくれるかしら?」
健一は桃子に言われた通り、四つん這いになる。
すると桃子は健一の背中に腰を下ろした。
いわゆる人間ベンチだ。
てっきりこの姿勢で腹や尻を蹴られたりするのだろうと思っていた健一にとって、この行動は予想外だった。
だが、健一に座るということは、マウントポディションを取るということの比喩で、主人は自分なのだと暗に言い聞かせているのだとしたら、この行動にも納得がいった。
「座り心地はどうですか?」
「そうね。悪くないわ」
桃子はそう言うと健一の背中で足を組み換える。
本来なら屈辱的な姿勢なのだろうが、水着姿の女の子が背中に乗ってると言うのは、普通だったら絶対にあり得ないシチュエーションで、そういうプレイなのだと思えば、それなりに楽しめるだろう。
だが健一がその境地まで達するには、まだまだ若すぎた。
「ねえ犬飼くん。いまどんな気分?」
「うん。少し重たいかな」
「失礼ね。私そんなに重たくないわよ。それに質問の答えになってないわ」
「そうかい」
「分かったならちゃんと答えなさい」
「そうだな。色々思うところはあるが、強いて言うなら憂鬱な気分だ」
「意外な回答ね。悔しくはないの?」
「別に……」
「覇気が無いわね。そんな反応じゃつまらないじゃない」
桃子は健一から立ち上がり、その身を翻して、ベッドに腰掛け直す。
「もうこの姿勢はしなくていいのか?」
「お好きにどうぞ」
「それじゃ遠慮なく」
健一は腰をさすりながら立ち上がると、椅子を引いてそれに座る。
「他に何か用事ある?」
「いまはないわ」
「わかった。用があるなら声をかけてくれ」
健一はそう言うと、カバンの中から教科書とノートを取り出し、目前に迫った中間テストの勉強を始めた。
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