第7話


「さてと……」

 怒りに任せて健一を気絶させたまでは良かったが、その先を考えていなかった桃子はひとまず健一をベンチの上に横たえた。

 とりあえず怪我をしていないか確認するためシャツのボタンを外して肌着をめくって鳩尾を確認する。

 軽く肋骨付近を触診し、骨に異常が無い事を確認する。アザにはなってはいるが、数日もすれば消えるだろう。

 呼吸や心臓が止まってないか確認したが、とりあえずどちらも大丈夫だった。

 ある意味きれいに気絶してくれた。

 鳩尾の一撃は悶絶する苦しみを与えたが、顎へのクリーンヒットは脳を揺らし、脳震盪を起こさせ、それが健一を気絶させた直接の要因だった。

「意外と頑丈なのね。少しだけ見直したわ」

 健一の上体を半裸にした桃子は、鳩尾からヘソまで指先でなぞってみる。

「う、ううん……」

 健一が軽くうめき声を上げたので、桃子は慌てて手を引っ込めた。

 だがそれは覚醒しつつあるわけではなく、単なる反射現象だと知ると、今度は手の平で腹部を撫でてみた。

「お腹を見せて服従のポーズを取るなんて、犬飼くんってなんだかんだ言って私に忠誠を誓ってるじゃないの。そうだ証拠写真を撮っておかなくちゃ!」

 桃子はスマホを取り出し、だらしない格好をした健一の姿を撮影する。

 あらゆる角度から撮影した写真の枚数は数十枚余に及び、時間も数分ほど経過したが、それでも健一はまだ気絶したままだった。

「そうだわ。犬飼くんが志半ばで倒れた時のために子種を保存しとかないと」

 などと凶悪なことを思いついた桃子は、躊躇なく健一のベルトを外し、スラックスのジッパーを下ろして手早く脱がせる。

 そうして迷うことなくトランクスに手をかけた。

 勢いよくトランクスを引きずり降ろそうとした瞬間。桃子はその手をガシッと掴まれた。

「なっ、なに、やってんだ、よ……」

 ようやく覚醒した健一が間一髪のタイミングでトランクスを脱がそうとしていた桃子の腕を掴んでいた。

 それは防衛本能が目覚めたと言っても過言ではない、無意識の行動だった。

「ようやくお目覚め? それはそうと手を放してくれない?」

「そ、それは、こっちの台詞、だよ。その手を放せよ」

「いやよ」

「いやよじゃねーよ。アンタ自分が何やってんのかわかってんの!」

「わかってるわよ。毎日毎日無駄打ちしている犬飼くんの精液を少し分けて貰おうとしただけじゃない。それくらい構わないでしょ?」

「構うよ! いいわけあるかっ! 脳味噌腐ってんのかアンタは!」

「さっきなんでも協力するっていったわよね? あれは嘘なの?」

「出来ることと出来ないことがあるって言ったろ?」

「これってできないことなの? そんなに難しいこととは思えないけど?」

「た、確かに出来るけどさ。それって人に見せたり、ましてや無理矢理するようなものじゃないだろ」

「ああもう。なに言ってるのかさっぱり分からない。出来るのに出来ないって矛盾したこと言わないでよ」

「訳がわからねーのはこっちだよっ!」

 健一は泣きたくなるのを堪えながら必死で叫んだ。

「本当に面倒なひとね。もう一度気絶させた方がいいのかしら?」

「そうだ! そういやオマエいきなり不意打ちしただろ。滅茶苦茶痛かったんだぞ」

「嘘ね。痛みを感じる前に気絶しちゃったじゃない」

「気絶する前に痛みを感じたんだよ」

「どちらでもいいわよ。それより早くその手を放しなさい」

「放したらオマエ脱がすだろ」

「当たり前じゃない」

「脱がして、その先はどうするつもりなんだ?」

「知ってるわよ。さきっちょつまんでゴシゴシしてあげればいいんでしょ?」

「誰がゴシゴシするんだよ」

「もちろん私がやるわ……と思ったけど、犬飼くん起きたんだから自分でやってくれるかな?」

「できるかっ!」

「できるわよ。どうせ毎日してるんでしょ?」

「アホか! 例え毎日してたとしても、人前で自慰行為とかできるかよ」

「できるわよ」

「できねえよ。そう言うオマエはできるのか?」

「なにを言ってるの? 女の子はそういうことしないわ」

「えっ、しないの?」

「しないわよ」

「する人もいるって聞いたぞ?」

「誰に聞いたの?」

「誰にって……」

「ふん。どうやら下らない雑誌で得た偽情報に踊らされてるようね」

「いや違うね。透から聞いたから間違いない」

「あの転校生が?」

 咄嗟についた嘘だったが、桃子は信じたようだ。

「そうだ。クラスの三人に一人はしてるって言ってたぞ」

「ふうん。そうなの。で、それがどうかしたの?」

「どうもしないっていうか、オマエが女の子はしませんみたいなこと言うから違うってことを証明したんじゃないか」

「ねえ犬飼くん」

「な、なんだよ」

「さっきから犬飼くんが私を“オマエ”とか“アンタ”って呼んでる気がするのは気のせいかしら」

「正解だよ。気のせいだと思ったら耳鼻科に行くことをお勧めするよ」

「どうして私が犬飼くんにオマエ呼ばわりされなければいけないの?」

「そりゃアンタがやることなすこと滅茶苦茶だからだよ。僅か二日で馴れ馴れしさというか理不尽さが時間と共に二倍じゃなくて二乗されてゆくペースで加速してんだよ」

「私のどこが理不尽だというの? ただ合理的なだけよ」

「それじゃどうしてオレの精子を欲しがるんだよ。理路整然とした説明を要求する」

「それはさっき説明したじゃない」

「聞いてねーよ。いつだよ!」

「犬飼くんが気絶している間に決まってるじゃない」

「聞こえるかよ。馬鹿にしてんのか。それともアンタは寝てても人の声とか記憶しとける便利な耳をもってるのか?」

「えっ? 犬飼くんは聞こえないの?」

「いや待てよ。まるで寝ていても聞こえるのが当たり前みたいに言うな」

「当たり前って、私聞こえるわよ? 普通は聞こえるんじゃない?」

「マジで?」

「この件で嘘をついて私が何か得するの?」

「いや、普通は聞こえないだろ。多分一万人に尋ねたとしても聞こえないという回答になるぞ。眠ってても周りの声が聞こえるって眠れないだろ」

「リアルタイムで聞こえるわけじゃないわ。起きた瞬間に耳が拾った音声が脳内に高速で展開されると言えば分かりやすいかしら?」

「それ真面目に本当だとしたら超能力とかの類じゃないか?」

「超能力とは思わないけど本当のことよ。なんだったら今度試してみてもいいわ」

「試すっていわれても寝たふりしてるかもしれないだろ」

「そこまで疑うのなら睡眠薬でもなんでも使って構わないわよ」

「わかったよ。とりあえずその話はそこまでにしよう。それより記憶している間の記憶がない凡夫のオレに分かるように説明してくれ」

「あのね犬飼くん。私は一度言ったことを二度と喋りたくない人なの」

「ふっざけんなよテメー!」

 怒りがマックスに達した健一は、ついに桃子をテメー呼ばわりした。

「ふざけてないわよ。会話なんてそんなものよ。一期一会の精神で挑まないと後悔するってことよ」

「できればオマエと一期一会で二度と会いたくなかったよ」

「またオマエって言った。それにさっきはテメーっていったわね」

 不毛な言い争いが延々と続くかと思われたその矢先、更衣室のサビ付いたドアが軋んだ音を立てて開く。

「キ、キャー! せっせんせー」

 恐らく体育かなんかの授業でたまたま更衣室の傍を通った生徒が、部屋から響く不毛な言い争いに気付き、思わす覗いてみたのだろう。

 逆光で顔は良く分からなかったが、その生徒は悲鳴を上げながら体育教師を呼びに走ったらしい。

「なあ陣羽織さん」

「なあに犬飼くん」

「ここはひとつ休戦してココから逃げないか?」

「私は別に平気よ。やましいことなんてひとつもないし、服もちゃんと着てるわ」

「オレが恥ずかしいんだよ。いいのか? このシチュエーションだとオマエがオレを襲ったと言えば処分を受けるのはオマエだぞ」

「平気よ。例え誰がどれだけ目撃しようと、私が犬飼くんに襲われたって言えば、たとえそれが事実と異なろうとも真実になるんだから」

「そうなのか?」

「そうよ」

 恐らく本当なのだろう。

 桃子の余裕の表情が、それが事実であることを物語っていた。

「オマエの矜持的に嘘をつくのは問題ないのか?」

「不本意だけど目的のためなら多少の嘘は許容するわ」

「そっか……ちくしょう。なんなんだよいったい。くっそー、悔しいなぁ」

 生まれて初めて心から人を憎んだ。どうにかして桃子をへこませてやりたいと思った。

 健一はもうその事しか考えられなくなっていた。たとえ退学になったとしても構わない。

 先日チンピラが言っていたことが、いままさに現実のものになろうとしている。

 だがこれ以上陣羽織桃子に振り回されるくらいなら退学して定時制の学校にでも通ってそこから大学へ行ってもいい。

 この悔しさをバネに猛勉強してやるという決意のようなものが、健一の脳裏に芽生えてきた。

「どうしたの犬飼くん? もしかして泣いてるの?」

「ちげえよ。それよりやってやるよ」

「なにをやるの」

「いいから手を放せよ。精液でもなんでもくれてやるよ」

「もういいわよ。もうすぐ人が集まってくるでしょ? そんな中で採取は難しいから今度でいいわ」

 桃子はそう言うと、トランクスを掴んでいた手を放し、膝に付いたほこりを払いながら立ち上がった。

「早く服を着たら?」

「ちょっと向こう向いてろよ。それくらいの気配りは出来るだろ?」

「仕方ないわね」

 桃子は更衣室の入り口付近まで歩き、ドアを少し開けて外の様子を伺う。

 健一はその間に身だしなみを整えると桃子の後ろに立った。

 そうしてギリギリ接触しない程度まで近付き、唯一むき出しにした股間の一物を指でつまむと、桃子のお尻に向けて放尿を開始した。


 かなり緊張していたので、最初はチョロチョロとしか出なかったが、数秒後には勢いよく小便が排泄される。

 桃子が異変に気付いたのは放尿を開始して数秒後で、臀部に生暖かい液体が染み込んできてからだった。

 神経を外の様子に集中していたため、臀部の異変に気付くのが遅れたのだ。

「えっ、ええっ! い、犬飼くん! あ、あなた、たた、なにをやってるの!」

 想定外の出来事だったため、桃子の反応は遅れに遅れた。

 慌てて振り返ると、今度は前のスカートに健一の小便が引っ掛かる。

「いやっ、汚いっ!」

 よけようと思ってもドアは引き戸で外に出ることもできない。

「こ、このぉ」

 桃子が健一の股間を蹴りつけようと足を上げた瞬間。コンクリートの床一面に広がった小便の滴が、桃子の軸足を滑らせ、豪快に尻もちをつかせる。

 咄嗟に受身を取るが、その結果として小便の水たまりに両手をつき、這いつくばる陣羽織桃子。

 長く美しい髪が床に垂れ、小便の水たまりに浸り、その水分を吸い取ってゆく。

「う、うそ!」

 慌てて髪の毛を床から拾い上げようと両手を伸ばすが、今度は頭の上に暖かい液体が流れてくる。

 桃子は恐る恐る見上げると、放物線を描いた黄金色の液体が、頭上に降り注いでいる事実を認識した。

 その液体は桃子の美しい顔に流れ込み、激しいアンモニア臭が鼻孔を刺激し、目に入ったため両目を開けることも叶わなかった。

 なにもしなければ臀部だけで済んだのだが、なまじ回避しようとしたばかりに、桃子は健一の小便を全身で浴びる羽目になった。

 こうなってしまっては、桃子にできることはひとつしかなかった。

「い、いやあぁぁぁ~~~~ぁ~~~~!」

 それは悲鳴をあげること。

 陣羽織桃子という人間の、人生初となる悲鳴であった。

 そうして有り余るショックに桃子はそのまま失神してしまった。

 放尿を終え、色んな意味でスッキリした健一は、気絶した桃子をそのままに、更衣室から脱兎のごとく逃げ出した。


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