第6話
昼休み終了前の予鈴が鳴る頃、健一と桃子はプールの更衣室に居た。
ロッカーが並ぶ更衣室にあるべきプラスチック製のすのこは、シーズンオフのため全て取り外されており、冷たいコンクリートの上に、簡素なベンチがひとつだけ置いてあった。
桃子はそのベンチに腰掛け、健一に隣に座るよう要求する。
「もうすぐ昼休みが終わりそうなんだけど?」
「いいから早く座りなさい」
健一は桃子の意図がわからぬまま隣に座った。
「それでどうするの?」
「本当はもっとちゃんとした場所が良かったんだけど……」
「なんのこと?」
「うん。でもいいの。覚悟はできたわ」
「覚悟ってなんの?」
「本当に分からなくて聞いてるの? それとも気付かないフリをしてるのかしら?」
「いや本当に分からないよ!」
「女の子が人気のない場所で覚悟が出来たと言ったら答えは一つしかないでしょう。それくらい想像できないの? それとも犬飼くんって女の子には興味ない人なの? ま、まさか同性に興味がある人だったの?」
「オレはホモじゃねえよ! って…… え? それってまさか?」
「そ、そうよ。犬飼くんが想像した通りの事よ。本当に鈍い人ね」
顔を真っ赤にして桃子が答える。
その瞬間。健一の脳裏にインターネットの画像やTVのモニターでしか見たことが無い淫靡な情景が鮮明に描かれる。
健一の想像に間違いがなければ、陣羽織桃子はここでセックスをしましょうということらしい。
「まさかとは思うけど、さっき言ってた転生者っていうのは、陣羽織さんの赤ちゃんというオチ……ですか?」
「そうよ。私の子供っていうのが絶対条件で父親は特に犬飼くんじゃなきゃダメってわけじゃないんだけど、犬飼くんにはもう半分傷モノにされちゃってるじゃない? だったら全部されたって構わないと思ったのよ」
桃子はそう言うと瞳を閉じて身体を固くする。
思春期真っ只中の健一にとって願っても無い脱童貞のチャンスではあったが、相手が相手だけに、ここで手を出してしまったら一生後悔するという確信めいた予感があった。
「陣羽織さんっ!」
「どうしたの? しないの?」
「その、昨日の事で自暴自棄になってるのなら謝る。そうじゃないならもっと自分を大切にしないと駄目だよ」
「どういう意味?」
「真面目に質問するから真面目に答えて欲しいんだけど」
「なにかしら?」
「陣羽織さんってオレのこと好きなの?」
「嫌いじゃないわ」
「それじゃ好きってことで。それでどれくらい好きなの?」
「そうね。ペットの犬程度には好きよ」
「ペットって……。今後彼氏彼女の仲に発展する可能性はあるかな?」
「それはないわ」
「それじゃ結婚とかも?」
「ありえないわ」
「なるほど。つまり陣羽織さんはペットに孕まされたいという特殊な性癖を持った変態だったのか」
「な、何を言ってるの。違うわよバカ。本当にもうバカバカ。犬飼くんが次の転生者に託したいっていうから協力してやってるんじゃない」
「それ本気で言ってるの?」
「もちろんよ」
これ以上ないというドヤ顔で桃子が答える。
「それじゃ妊娠するまでやりまくって構わないっての?」
「いいわよ」
「妊娠したらどうするの? 学校は辞めるの?」
「別に辞める必要はないでしょ。そりゃ産前と産後の数週間は休まざるをえないでしょうけど、それくらいよ」
「腹ボテで学校に通うって……。父親は誰だってことになったらどうするの?」
「もちろん犬飼くんですって答えるわよ。当たり前でしょう。犬飼くんは自分のしたことの責任も取れないの? 赤ちゃんに申し訳ないと思わないの?」
陣羽織桃子の脳内では、もう妊娠出産は既定路線っぽい感じになってるようだ。
「俺や陣羽織さんはよくても、オレたちの身分じゃ学校的にはマズイよね?」
「それは大丈夫よ。なんとでもなるから」
ニコニコと微笑みながら桃子が杞憂に過ぎないと告げる。恐らくその通りなのだろうと健一は納得したが、お腹の大きくなった桃子の父親だと他の生徒たちに噂されながら過ごす学生生活を思うと胃がキリキリと痛み出した。
「陣羽織さんなら確かになんとかできそうな気はするけど、普通は結婚でもしない限り不純異性交遊でアウトだよね?」
「そういうものなの? それなら結婚するわよ。それでいいでしょ」
妊娠も凄いが、結婚ですら目的のための手段に過ぎないと考えているフシがあり、健一はこれ以上会話を続けると、本当にマズいことになると身体が警告を発し始めた。
手始めで両手と背中に嫌な汗が流れてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。さっき、そうさっき結婚はありえないって言ったよね? あれはなんだったんだ?」
「あの質問の流れだとそうなるのよ。でも実際問題結婚するしかないと分かった以上そうするしかないじゃない」
もの凄い論理であり、常識的な考えを持った健一には到底理解できない思考だった。
「仮に、いや仮の話だけど、もし結婚した場合、陣羽織さんが嫁に来てくれるの?」
「冗談言わないでよ。犬飼くんの婿養子に決まってるでしょ」
「やっぱり」
「そこは譲れないわ」
「アハハハハ……」
もはや健一は笑うしかなかった。人間、恐怖や怒り、呆れ等を超越すると笑うしかない。
「どうしたの? なにがおかしいの?」
「いやもう言ってることが滅茶苦茶なのに、当の陣羽織さんは至って真面目だからさ。もう笑うしかないだろ」
「犬飼くん。いくら貴方や私の宿命が苛酷なものであっても、現実逃避は良くないわ」
「陣羽織さんが現実逃避したくなるようなことばかり言うからだろ」
「ああ言えばこう言う。犬飼くんって反論ばかりで何一つ建設的なことは言わないのね。全て受身でヘタレだし、いまだって私が覚悟を決めてしてもいいと言ってるのに、指一本触れようとしないなんて、正直がっかりだわ」
「がっかりしてくれて結構だよ。陣羽織さんの言う通りオレはヘタレだから、陣羽織さんのお供は務まらないから他を当たってくれないかな。きっとオレなんかよりイケメンで忠実な犬候補が見付かると思うよ」
「だから替わりはいないの。何度言えば分かるの? たとえヘタレでも犬飼くんはお供の犬の生まれ変わりなの。私が桃太郎の呪縛から逃れられないように、犬飼くんもそれは同じなのよ。どうしてそれが分からないの?」
「分かるわけないだろ。そもそもそんな妄想話には付き合ってられないよ」
「妄想ですって……。犬飼くん。それ本気で言ってるの?」
「もちろん本気だよ」
「そう。犬飼くんは特別だと思っていたんだけどな……」
陣羽織桃子はそれだけ呟くとしばらく沈黙していた。
やがてゆっくりと立ち上がり、健一に背を向ける。
ようやく諦めてくれた。そう確信した健一は晴れ晴れとした表情で立ち上がり、桃子が更衣室から出るのを待った。
待ったのだが、桃子は微動だにしない。
どうしたのか気になるが、健一に背を向けているので桃子の表情は伺うことができない。
やがて、「ふう」というため息にも似た呼吸と共に、槍を突き出すかのような軌跡で桃子の細い足が健一の鳩尾に伸び、固い踵が抉り込むように突き刺さった。
――ドスッ!
「かっ、かはっ!」
横隔膜が収縮し、肺の中にある酸素が全て絞り出され、呼吸することも叶わず、一瞬にして酸欠のような状態に陥る。
身体をくの字に折るよう前かがみになると同時に、健一の胸部に激痛が走る。
桃子の踵が健一の鳩尾から引き抜かれ、コンクリートの地面を踏みしめたと思ったら、今度はその足を軸にして身体をねじって半回転し、真っ直ぐに伸ばして腕の先にある掌底で健一の顎を打ち貫く。
――ガッッ!
まるで首が一八〇度回転するようにねじれ、そのまま倒れ込む健一を、桃子は膝を上げて太股で支える。
僅か二撃。時間にして約五秒(攻撃アクションのみだと一秒)で健一は気絶させられた。
これは別に桃子が桃太郎の生まれ変わりだから強いわけではなく、剣道に柔術、それから空手などを幼いころから修練してきた結果の賜物であり、けっしてチートとかではない。
天賦の才はあったが、桃子は努力して強くなったのである。
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