第3話
「ただいま」
健一が家に帰ると、見知らぬ靴が玄関に置いてあった。
白地に赤いラインの入ったスニーカーで、大きさから女性のものだと分かるが、母親の物とは思えない。
「おかえり健一。お隣の透ちゃんが遊びに来てるから早く行ってあげなさい」
健一の母親が、キッチンの奥から声をかける。
「透が? 珍しいな」
透とは、健一の隣に住んでいる一つ歳下の女の子で、小さい頃はよく一緒に遊んでいた。
典型的な男女の幼馴染のテンプレ通り、小学生高学年から体つきが女性っぽくなり、それを意識し出すとまともに遊べなくなり、いつしか交流も少なくなり、いまでは通学時に会った際に挨拶する程度の仲になっていた。
そんな幼馴染の突然の訪問に、健一は少し戸惑っていた。
「透はオレの部屋に居るの?」
「当たり前じゃない。でも透ちゃんが遊びに来るなんて何年ぶりかしらね。今頃エッチな本とか物色されてるかもしれないわよ?」
「そんなもの置いてねえよ!」
そう言いながらも、健一は足早に自分の部屋へと駆けて行った。
自室前で少し深呼吸し、ドアを開ける。
部屋を一望するが特に物色された形跡はなく、透は健一のベッド上に寝転んでおり、スマホをポチポチと操作していた。ゲームでもやっているのだろう。
透はTシャツにホットパンツとボーイッシュな格好をしていたが、健康的な太股と、腰から尻にかけてのラインは女性らしくなっており、思春期真っ盛りの健一には刺激が強すぎる姿だった。
「あ、健ちゃん。ずいぶん遅かったね。待ちくたびれちゃったよ」
透は寝ころんだままゴロリと回転し、こちらに向き直る。
そのとき割と大きな胸がぶるんと震え、Tシャツの中で振り子運動を繰り返す。
身体はもう立派な大人だったが、顔つきはまだ幼さが残る童顔で、丸くて大きな瞳に、茶髪のショートヘアが良く似合っていた。
「おう。久しぶりだな。とっ、透」
健一はできるだけ平静を装いながら、カバンを机に置いて、椅子に腰かける。
とりあえず透と呼んでも嫌な顔をされなかったので、このまま呼んでも平気らしい。
「ねえねえ。健ちゃんの部屋ってあたしの部屋の隣だったんだね」
「そうなのか?」
「うん。あたしの部屋って昔はパパが書斎として使ってたんだけど、いまは居ないからあたしが使ってるんだよ」
建売住宅とはいえよくあるペンシルハウスだ。
家の作りはほとんど同じか左右対称で隣家との間が極端に狭く、健一の部屋の向かいにある透の部屋は、僅か一メートルばかりの隙間があるだけで隣接している。
カーテンを開けてよく見ると、透の部屋となった窓のカーテンはオレンジ色になっている。前は何色だったか覚えていなかったが、交換してあるのだけは健一にもわかった。
「ふうん。透の父さんって単身赴任でもしてるのか? 言われてみれば、ここしばらく見てない気がするけど」
「えへへ。えっとね。健ちゃんは初耳かもしれないけど、つい先日、ウチの両親が正式に離婚しちゃったんだよ」
「なんだって!」
健一は椅子からずり落ちそうになるくらい驚いた。
「一年くらい前からお父さんとは別居してたんだよ。知らなかった?」
「すまん。まったく知らなかった」
ずり落ちそうになった椅子に腰かけなおしながら健一は答える。
「別にいいよ。それに離婚したと言っても一年以上別々に暮らしてたから、フーンそっか~って感じなんだけどね」
カラカラと笑いながら透は言うが、その表情には一抹の寂しさのようなものが漂っていた。
「そ、そうか。それは大変だったな」
「まあそれはいいんだけどね。ひとつ困ったことがあってね」
「なんだ? 金か? 金はないけど、オレにできることなら協力するぞ」
「違うよ。そういうんじゃないよ。離婚が決まってあたしはママと一緒に暮らすことになったわけなの」
「あっ、そうか。引っ越しとかするのか? だったら手伝うぞ」
「違うよ。家は慰謝料代わりにママが貰ったから引っ越す必要はないんだけど」
「なるほど。で、何が困った事なんだ?」
「だからね。苗字が変っちゃうんですよ。ママの旧姓に戻るの」
透がモジモジと恥ずかしそうにつぶやく。
「え? それが困ったことなのか?」
「そ、それは直接関係ないんだけど……」
「だったら何が困ってるんだよ!」
要領を得ない透の答弁に、健一は少し苛立ちを覚え、思わず声を荒げてしまった。
「そ、そんなに怒らないでよ」
「すまん。だがはっきり言わない透も悪い」
「うん。だからね。離婚して苗字が変わると色々と面倒なんだよね。学校で根掘り葉掘り聞かれたりとかさ」
「そんなの一時的なモノだろ」
「そうかもだけど、ウチの学校って女子高でしょ。しかも入学してみたら、思った以上にお嬢様学校でさ、そういう噂話とかず~~っと引きずるんだよ。あとちょっと苦手なタイプな人とかいたりして、いい加減うんざりしてたんだ」
「よくわからんが大変そうだな」
「そーなのよ。もう大変なの。あたしの性格でこの学校は無理だな~って思ってたところに離婚されちゃったの。それでもう面倒だからこれを機に転校しようかと思ったのよ」
いやーまいったとばかりに、透は頭を掻きながら照れくさそうにつぶやく。
「離婚を機に転校って、そんな馬鹿な理由で転校とかできんのか?」
「できるよ~。いまは少子化で生徒数減ってるからあたしみたいな事情だったら経済的な問題とか適当にでっち上げれば割とすんなり編入できるよ。というか、もうしちゃったんだけどね。えへへ」
「マジかよ」
「うん。だからそういうわけで、先輩になる健ちゃんによろしく言っておこうと思って、今日は挨拶に来たんだよ」
透が健一を意識するよう、上目遣いに見つめる。
「先輩?」
「うん。学校では犬飼先輩って呼べばいい? それとも健ちゃんのままでいい?」
「って! ウチの学校に編入すんのかよ!」
健一は椅子から立ち上がって、透を指差す。
「だって家から近いし、健ちゃんも居るし、それにもう編入手続き終わってるし~」
ベッドの上をゴロゴロと転がりながら、透は不満げに呟く。
なにがだってなのか分からないが、すでに手続きが終わっているのであれば、健一には口出ししようがなかった。
「まあ反対する理由はないからいいけどさ。とりあえずどれだけ力になれるか知らんが、不慣れな間は頼ってくれていいよ」
「ホントに? ありがと健ちゃん」
透はベッドから飛び起きて嬉しがった。
「そういえば苗字が変ったとか言ってたけど叔母さんの旧姓はなんて言うんだ?」
「えっとねぇ。ちょっと恥ずかしいんだけど、“猿渡”っていうの」
「ふーん。それじゃ猿渡透になるのか。オレが犬飼だから犬猿の仲になったりしてな」
「ええ~! 健ちゃんとは仲良くしてたいよ」
「冗談だよ。ここ数年疎遠になってたけど、これからよろしくな」
「う、うん。ありがと健ちゃん」
「ああっ!」
健一の脳裏にいやな予感と言うか確信めいた未来予想図がイメージされる。
「どしたの健ちゃん?」
「だ、だめだ透。ウチの学校に来てはいけない」
「どうしてだよ。健ちゃんあたしのこと嫌いなの?」
「そうじゃない。透が心配だから言ってるんだ」
「どゆこと?」
健一は今日の出来事を話そうかと思ったが、桃子に固く口止めされているので、事情を説明するわけにはいかなかった。
それに苗字が“猿渡”だからといって、桃子が透を猿の生まれ変わりだと決めつけてスカウトするとは限らない。
健一は杞憂に過ぎないかもと思ったが、用心し過ぎるということはないので、透に注意を促すことにした。
「すまん透。もう編入することになったんだから、やめろというのは言いすぎた。ただ一つだけ約束してくれ」
「う、うん」
健一が余りにも真剣な顔だったので、透も神妙な顔でうなずく。
「あのな。二年一組に陣羽織という変った苗字の女生徒が居るんだが、そいつにだけは近付くな。いや、向こうから近付いてくる可能性があるから絶対に関わるな」
「どして?」
「オレの口からは詳しく言えないんだ。編入したらクラスメイトの誰でもいい。陣羽織先輩についての噂を尋ねるといい。それでヤバさが伝わると思う」
「健ちゃんがそういうなら、あたし関わらないよ」
「ありがとう。後もうひとつ。オレがその陣羽織と会話しているところを仮に見かけたとしても、決して話しかけたりしないように。できれば他人のフリをして欲しい」
「え~なんで?」
「なんででもだ。これはお前のためを思って言ってるんだ。これは本当だぞ」
「その陣羽織さんと健ちゃんってどういう関係なの? 付き合ってるの?」
ベッドの淵に立って、上体を健一の方へ伸ばし、ジト目で糾弾する透。
「違う! 断じて違う! 神に誓って違うと宣言する。とにかくヤバい奴なんだよ」
「ひょっとして健ちゃんのストーカーとか? だったらあたしが……」
「違う。違わなくないかもしれないけど、こればかりは他人を巻き込みたくないんだ」
「あたしは他人じゃないよ!」
ベッドから落ちそうなくらい前のめりになって透が叫ぶ。
「そういう意味で言ったんじゃない。知り合いを巻き込みたくないっていうか、自分で解決したいんだ。とにかくしばらくは我慢してくれ。一週間様子を見て、我慢できなくなったらまずオレに言ってくれ。それまでは陣羽織には絶対に関わるな」
「わ、わかったよ」
しぶしぶ納得する透を見て、健一は胸を撫で下ろした。
「健一~ご飯ができたわよ~。透ちゃんも一緒に食べて行ってね」
「飯か。もうそんな時間か。食べてゆくよな」
「いいの? なんか悪いね」
「遠慮するなよ。昔はいつも一緒に食べてただろ」
「そ、そうだね」
「着替えるから先に下に降りててくれ」
「うんわかった」
透はベッドから起き上がり、お先にと言って部屋を出て行った。
健一は急いで着替えて自分も食事を取りにキッチンに向かった。
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