忘れていたわけじゃ無い

空音ココロ

忘れていたわけじゃ無い

 こんな日は出掛けなければ良かったと後悔する。

 朝起きて空にIの文字のように一直線に遠くまで伸びた白い雲を見た瞬間に陰鬱な気分になっていた。ただの白い雲ではあったが、その雲を見た日に良いことがあった試しがない。経験則ではあったが、まだそう長く生きてはいないけれど身に染みついていた感覚であった。

 ケイがそれでも家を出たのは今日が恋人のアイと会う約束をしていたからだ。


 アイは学校の中で一目置かれる美人だ。

 それ以外に特別なものは持ち合わせていなかったとは思うが、本人がいてもいなくても話題の中心として華があるのだろう。彼女の行動は噂話の種として上級の部類、悪く言えばゴシップのネタとしては大衆の娯楽になる逸材だった。


 こんな日を選んでいるのもそんなゴシップネタに彼女を晒さないように配慮した結果ともいえる。逢瀬というほど隠れては無いが、わざわざこんな日に海に来る人は少ないと思ったからだ。

 人混みに紛れれば気付かれることも無いというのは、お互いに知らない人同士が集まっている時に通じるものだ。

 遊び場の少ないこの街では皆来る場所は固定化されてしまっていた。


「ケイ、ようやく二人きりで会えたね」

「アイ、今日はいつもよりも可愛く見えるよ。そのピアス初めて見たね。似合ってるよ」

「ありがとう、ケイ。あなたなら気付いてくれると思ったわ」


 アイはわざとらしく髪をかき上げて、ピアスが見えるようにこちらに横顔を見せていた。

 さすがに鈍感な僕でも君がそんなアピールをしてくれれば気付くよ。

 正直、似合ってると言ったものの内心では少し苦笑いをしていた。アイが着けているピアスは雪の結晶をモチーフにしているのだろうけど、僕には蜘蛛の巣の形にしか見えなかった。

 それでも心のどこかで似合っていると少し思っている。それは嘘を言っていない、肯定する気持ちを僕の中に芽生えさせていた。だからアイを向く僕の表情は取り繕っていない笑顔を向けることが出来たのだと思う。


 アイにはいろんな噂が飛び交っている。

 それはゴシップで誰かが勝手に言い始めたガセネタだと思っている。ただ本人にそれを聞いたことは無い。無粋なこと、そう思いつつも心の中では全否定することが出来ずにいた。

 多分それが関係していたのだと思う。雪の結晶が蜘蛛の巣に見えたのも、魔性の女というゴシップが脳裏に浮かんだせいだ。

 蜘蛛のように通行帯に蜘蛛の巣を張りめぐらせ、獲物を絡めとり、そして食べる。

 ここで言う食べるとは文字通り「食事」という意味だった。


 全く人聞きが悪い。

 人が人を食べる。よりにもよってそんな噂を彼女に立てるだなんてどんなやつなのだろう。全くあり得ない。それに食べられた人がどこにいるというのか。

 それでもそれを否定しきれない僕も噂を流す奴らと同類なのかもしれない。

 せっかくのデートにも関わらず、並んで歩きながらそんなことを考えてしまっていたのはあの白い雲のせいだ。


 都市伝説と言うほどでもないがこれもゴシップの部類だろう。

 夜の蜘蛛は悪い蜘蛛、朝の蜘蛛は良い蜘蛛。丙午の年には厄災が起きる。

 うまい話には落とし穴がある。生き物の命は大切に、無意味な殺生はするな。

 そんな教訓めいた話だ。さほど気にすることは無い。

 学校での噂話であったのにも関わらず、勝手に想像は膨らんでしまっていた。

 

「ケイ、どうしたの?」

「え? 何かあった?」

「なんだか心ここにあらずって感じ。ケイは私といるの嫌?」

「何言ってるの。僕はアイに会いたくて仕方なかったんだ」

「ちょ、急に恥ずかしいこと言わないでよ。そう言ってくれる割には楽しそうに見えないのは何故?」

「そんなことないさ、アイと一緒にいて少し緊張しちゃってるだけだよ」


 僕の発した言葉で紅潮した顔を見せてくれる。

 それを見た瞬間に僕の中にあったモヤモヤはどこかへ吹き飛んで行ってしまっていた。胸を掴まれたような感覚、身震いが起きそうな程に緊張している。その割に顔はきっと弛緩してだらしのない表情になっているのだろう。


「あ、なんか悪いこと考えてるね」

「え? 悪いこと?」

「そう、イケないこと」

「そんな、僕はただアイが可愛いなって」

「もう、ケイはそうやって私を篭絡させるんだから」

「篭絡させてるのはアイの方だよ。きっと僕はアイの頼みは何も断れない」

「そう? じゃあ私があなたのことを食べたいって言ったらどうする?」


 くるりと回ったアイは僕の前に前かがみになって立っていた。

 上目遣い、両手は後ろに組んで、少し傾けた顔。瞳に光が当たり視線に麗しさがプラスされている。瑞々しい肉厚な唇が僕の琴線に触れて、僕の理性は崩壊寸前だ。

 きっと彼女は分かってやっているに違いない。目を背けてもバッドエンド。このまま目を合わせていてもバッドエンド。

 選択肢は一つしか無いじゃないか。


 両手は隠れてアイは表向き無防備なまま。

 僕はアイが描いたであろう道筋へと真っすぐに進んでいく。。


「ねぇ、食べてもいい?」

「あぁ、僕もアイを食べたい」

「そう、良かったわ」


 気ままなアイに導かれた先、岩礁の影で二人並んで座っていた。

 ここなら誰かに見られることも無く、お互いの体温を感じられる。

 手を重ねて、お互いの肩を寄せ合う。耳をすませば息遣いが聞こえるほどに僕はアイに集中していた。


 僕はアイの蜘蛛の巣に引っかかって逃げることはできない。

 落ちるところまで落ちていく底なしの落とし穴。

 魔性という言葉とセットにして考えると恐ろしく感じるものだろうが、恋という盲目になる病気にかかった僕の前に、そんなゴシップは全てがアイを肯定するためだけにあった。


「ねぇ、ケイは私のどこが好き?」

「どうしたんだい? 僕はアイのすべてが好きだよ」

「ありがとう、でも一つずつ言って欲しいの」


 僕は一つ一つ丁寧に伝えていく。柔らかな肌、透き通る髪、優しい心、笑った表情も、不服そうにしている顔でさえ全てが愛おしいことを。


「ねぇ、聞いて欲しいことがあるの」

「アイ、アイは僕のどこが好き?」


 僕とアイの言葉が重なる。


「ごめん、被っちゃったね。聞いて欲しいこと?」

「ううん、ごめんね。私は、ケイの……」




 いつだってそうだった。

 僕は忘れていたわけじゃ無い。

 こんな雲が出ている日は良いことがあった試しがないんだ。

 それは例に漏れず、今日も同じだった。


 岩礁の影に隠れていたこの場所はまるで誂えたような落とし穴になっていたことに気付く。まったく、今更という言葉はこういう状況に使うのが相応しいのだろう。

 アイだと思っていたは巨大な蜘蛛に姿を変えて僕の上に覆いかぶさっていた。腹に何人もの顔が浮かび上がっており、その中にアイの顔も含まれていた。輝きを放っていたはずの瞳は曇り、焦点を合わせる気はないのか瞳孔がくるくると回っている。

 瑞々しい唇はそのままに僕に語り掛ける。


「聞いて欲しいことがあるの」


 巨大な蜘蛛の背景に光が見えるがそれはとても彼方にあるように思える。

 蜘蛛の尻から一直線に伸ばされた白いそれは真っすぐに伸びてIの字を空に描いていた。



三題噺 お題

「白い雲」「蜘蛛の巣」「落とし穴」

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