第2話 ここにいる理由

七海が榎本とのHKLを始める前、玲奈は翔平のマンションを訪れていた。

「うっ、煙草臭い。

 翔平ちゃん、まさか部屋でタバコ吸っているの?

 翔平ちゃんたら。

 それに、このうるさい音楽、止めるからね。」

玲奈が翔平のマンションの部屋に上がると、まず、どこからかタバコの匂いがしていた。

翔平は、付き合い程度でタバコを吸う以外、自分の家や車の中では絶対にタバコは吸わなかった。

それに床にはウィスキーの空瓶が転がり、昔、好きだったハードロックが鳴り響いていた。

玲奈が音楽を止め、アルコールとタバコの匂いがしている部屋の窓を開け、換気をする。

翔平は部屋の奥のベッドに腰掛け、魂の抜けたようにぼーっとしていた。


「翔平ちゃん、大丈夫?

 ちょっと、シャワーでも浴びてきなさいよ。」

「わかった。」

玲奈の言うことに素直に頷くと、翔平はよろよろと洗面所に消えて行った。

そして、しばらくすると浴室からシャワーを浴びる音が聞えて来た。

それを聞きながら、玲奈は散らかった部屋を見回し、ため息をつくと、てきぱきと片付け始める。

「私、片付けとか面倒なの嫌いなのよね。

 あ、タバコ見つけた。」


翔平は缶ビールの空き缶を灰皿代わりにしてタバコを吸っていた。

「まったくもう。」

玲奈は臭そうに灰皿代わりの空き缶をビニールに入れ、きつく縛り、ゴミ箱の傍に置く。

「この缶、どうやって捨てようかしら…。

 あらあら、ジャックダニエル買ってきて、一人で一本飲んじゃったのかしら。

 どうりで酒臭い訳だわ。

 ほんと、一週間でこのありさま。

 酒だけ飲んで、何も食べていないわね。

 やれやれだわ。」


玲奈は散らかっているお酒の空瓶や洋服を片付け、キッチンの流しにたまっている食器、食器と言ってもコーヒーカップやお酒やビールを飲んだ時に使ったであろうガラスのコップを洗い始めていた。

少しして洗面所のドアが開き、タオルで髪を拭きながら翔平が出てくる。

「少しは、しゃきっとした?」

「ああ、もともとしゃきっとしているって。」

シャワーを浴びて目が覚めたのか、翔平は玲奈を見て微笑む。

「何言っているのよ。

このスラムみたいな部屋の有り様。

 しっかりしなさいよ。

 飲む?」


玲奈は、持ってきた紙袋から、メーカーズマークの酒瓶を出して翔平に見せる。

「お、いいね。

 少し貰おうか。」

「飲みかたは?」

「いつもと同じ。」

「はいはい、ロックね。」

玲奈は食器棚から綺麗に洗ったばかりのガラスのコップを自分の分と2つ出し、氷を入れると、持参したスコッチウィスキーの封を開け、3分に2位注ぐと、一つを翔平に渡した。


「そうそう、七海ちゃん、次のHKLが決まりそうよ。」

そう言いながら玲奈はコップのスコッチウィスキーを一口、口に含んだ。

「そうか…。

 いい人ならいいな。」

翔平は、踏切りがついたような顔をして、渡されたスコッチウィスキーを口に含み、呑み込んだ。

それを見ていた玲奈は、翔平の心の中を推し量るように、翔平の顔を見ていたが、何かを決めたように小さく息を吐いた。


「ねえ、翔平ちゃん。

 お願いがあるんだけど、いいかな。」

「ん?」

翔平は、“お願いがある”という時の玲奈の頼みは、結構たいへんな願いであることを知っていた。

「一人、HKLで翔平ちゃんに面倒見てもらいたい女の子がいるの。」

「え?

 さすがに今は…。」

翔平はそう言って口を濁らし、部屋の中を見回す。

部屋の中には、七海のコップや、ベッドの上には七海のための枕など、まだ、七海のために買った物がたくさん置いてあった。


「そこをなんとかお願い。

 私の知りあいの妹さんなの。

 訳があって、お金が必要なんだって。

 それに、今、適任なのは翔平ちゃんだけなの。

 ね、お願い。」

玲奈は、手に持っていたコップをテーブルに置くと、翔平を拝むように両手を合わせて、頭を下げる。

「おいおい…。」

「おねがーい。

 ね、お兄ちゃん。」

玲奈は、なおも強引に甘えた声を出す。


「…。

 まったく…。

 今は、そんな気になれないが、玲奈の頼みも断れないしな。

 取りあえず、会うだけあってみるか。」

翔平は、妹がいなかったので、玲奈に甘えられると、いつも断り切れなくなっていた。

「やったぁ。

 さすが、翔平お兄ちゃん!」

玲奈も、翔平のそういうところを良く知っていて、“お兄ちゃん”という殺し文句を連発した。


「で、どんな子?」

「うん。

 大学2年生で二十歳になったばかりの娘よ。

 写真を持ってきたのだけど、高校の時の写真。

 ほら、見て。」

玲奈が渡した写真を見て、翔平は驚いた顔をして玲奈を見返す。


写真は、紺のブレザーとグレーのチェックのスカートの学生服を着た中肉中背の女子高生がにっこりと微笑んで写っていた。

翔平が驚いたのは、髪はセミロングのブロンドヘアー、ブロンドと言ってもどちらかというとダークブロンドで、色白、そして印象的なのが、その青い瞳だった。

顔は卵型で笑顔がとても可愛らしく、美人タイプだった。


「可愛いでしょ?

 ハーフちゃんなの。

 お父さんが青い瞳の金髪さん。

 お母さんは美人な日本人。

 お姉さんは黒色の髪で、少しだけ青みがかった黒い瞳。

 お姉さんも美人で、モデル関係の仕事をしているのよ。

 この子は、お父さんの血が色濃く出ているのかしらね。」

呆気にとられたような顔をしている翔平を、玲奈は悪戯っぽく笑った。

「俺、英語得意じゃないんだけど。」

翔平は重い口を開いた。


「何言ってるのよ。

翔平ちゃんだって、少しは英語できるでしょ。

でも、大丈夫よ。

 生まれてから、ずっと日本にいるから、日本語しか喋れないわ。

 家庭も、中の上というところかしら。

 お父さんは英語の教師で、お母さんも普通の会社で社員さん。

 性格も良くて、朗らかよ。」

「でも、そんな子がなんでHKLを?

 何か裏があるな。」

翔平のひと言に玲奈は顔を引き締める。

「さすが、翔平ちゃんね。

 察しがいいわ。」

「おい、誰が聞いても、そう思うだろう。」

翔平は呆れた顔をした。

「実はね…」


それから11月の最初の土曜日に、翔平の家で顔合わせとなった。

通常は、外で会って、お互いが納得して初めて相手の家を訪問するのがHKLの暗黙のルールになっていたが、今回はいきなり翔平の家で、しかも仮契約済みと玲奈から言われていた。

約束の10時きっかりにマンションの玄関のインターフォンが鳴る。

「はい。」

翔平が、返事をすると、丁度、逆光だったせいか、顔は良く判らなかったが、インターフォンのカメラに女性のシルエットが写っていた。

「衛藤です。

 衛藤愛理です。」

インターフォン越しのせいか、くぐもった声で女性は返事をする。

「いま、ロックを開けるから。

そうしたら、中に入って。

エレベーターがあるから、それに乗って5階に上がって来て。

部屋番号は、わかるかな?」

翔平は優しく言うと、女性は手に持ったメモのようなものを見て“はい”といって頷く。

愛理が持っていたメモは、翔平のマンションの住所と地図が書かれていて、玲奈が手渡したものだった。


女性の名前は、衛藤愛理。

七海と同じ女子大学に通う、大学2年生。

中流家庭に育ち、普通であれば、問題ないくらいの額の小遣いをもらっていたので、お金に困ることはないはずだったが、高価な化粧品を買い集めるうちにお金が足りなくなり、何を思ったのか出会い系サイトでパトロンを見つけ、見返りに身体を売ろうとしたところを、様子がおかしいのを姉に見つかり、未遂で事なきを得ていた。

愛理の姉の絵美は、そのことを両親には話さず、愛理を問い詰めたが、愛理は泣いて謝るだけで、本当の理由を言おうとはしなかった。

絵美は、愛理がまた同じことをするのではないかと心配し、友人である玲奈に相談を持ち掛けた次第だった。


「玲奈、愛理のことなんだけど。」

絵美は、玲奈のHKLの事務所になっているマンションの一室で、玲奈と向き合っていた。

「電話で聞いたわ。

 愛理ちゃんが、そんなことしようとするなんて、驚きよね。」

「そうなの。

 姉の私が言うのも何だけで、愛理は昔から明るく、元気でいい娘。

 頭も私より良く、美人で、その割には私と違ってバカが付くくらい真面目で純情なの。」

「まあ、絵美は普通よ。」

玲奈は苦笑いする。


絵美もハーフだったが、隔世遺伝なのか、母親の血が濃かったのか愛理と違って、髪の毛の色は黒色で、瞳は少し青みがかった黒色だった。

しかしそれが返ってエキゾチックさを出し、美人でスタイルの良さからモデル関係の仕事をしていた。


絵美は、謙遜気味に掌を左右に振る。

「それがね、大学に入ってから人が変わっちゃって。」

「…」

玲奈は怪訝そうな顔で話を聞いていた。

「大学に入って夏ごろからかしら、急にお化粧や香水をつけだして。

 あの娘、肌がきれいだし、若いから化粧に必要なんてないのに、いきなり厚化粧をし始めたの。」


「それって、彼氏でもできたんじゃないの?

 それとも、好きなった男の子を振り向かせようにとして、化粧しているとか?」

「そんな、可愛いレベルじゃないのよ。

 まるで壁、黄土色の壁。

 折角の可愛い顔が、能面よ。

それに、黒いカラーコンタクトをして、鼻が曲がるほどきつい香水を振りかけて。」

「カラーコンタクト…。」

「そうなの。

服装も灰色系で目立たないような地味な洋服、それに野球帽のような帽子を被って。

そうそう、黒色のウィッグまで買って被っているのよ。

まるで仮装大会みたい。

家族みんなで似合わないからやめろって言っても取り合わないし。

髪は最初黒に染めようとしたのよ。

ただ、薬剤が合わなかったのか、頭皮が爛れちゃって、それでウィッグにして。

 そんなで、何十万も使って、それじゃ、お小遣いも足りないわよ。

 それと、問題なのは性格。

 昔は明るく、朗らかだったのに、今じゃ、すっかり暗い性格になっちゃって、殆ど、人と話さなく、隠れるようにしているみたいなの。」


「でも、今の話を聞いたら、愛理ちゃん、日本人にでも…」

玲奈は愛理が姿かたちも日本人のまねをしたかったのではと言いかけたが、やはりハーフの姉の手前、言葉を濁した。

「いいわよ、気を使わなくて。

 ほんと、外面だけ、まねしようとしているのかしら」

「愛理ちゃんが、そんなことに…。」

絵美と愛理は姉妹仲が良く、いつも絵美にくっ付いていたので、玲奈も愛理のことを良く知っていた。


絵美は、吐き出すように一気に玲奈に胸の内を打ち明けた。

「この前、やけに思い詰めた顔をしていたから、問い詰めたら、出会い系に登録していたのよ。

 それで、男の人から連絡があって会う約束をしたところだったのよ。」

「危ないわね。」

「ほんと、こっちが泣きたくなっちゃったわよ。

 それで、化粧のこととかいくら問い詰めても、何も言わないし。

 食事も最近では野菜しか食べなくて、肌もガサガサになって不健康そのもの。

出会い系のことは言っていないけど、父や母も、愛理の変貌に頭を痛めているんだけど、まあ、麻疹みたいに、その内、元に戻るんじゃないかって。

私には、そうは思えないし、また、お金欲しさに変なことするんじゃないかって心配で。」

「困ったわね。」


「そうなのよ。

 家なんだけど、父親の関係で12月にヨーロッパに引っ越すことが決まったの。」

「え?

 絵美も?」

玲奈が驚いた顔で絵美に尋ねると絵美は笑って手を振る。

「私、今の仕事が面白いから、当分こっち。

 愛理も見た目外人なんだけど、中身は根っからの日本人なので、日本語以外話せなくて、私が残るって言ったら、一緒に残るって。」

「そう言えば、二人とも外国でも通る名前よね。

 絵美は“エミー”だし、愛理は“アイリーン”って。」

「まあ、父親が一生懸命考えたみたい。

 それでね、今の調子だと、私が会社に行っている時に何をしでかすか。

 また、出会い系サイトなんてやられたらたまらないし、それと、化粧品と香水の匂い。

 香水がきつ過ぎで、ずっと嗅いでいると頭が痛くなるのよ。」

絵美は、眉間に皺を寄せる。


「今の家は?

 広いじゃない。」

「今の家は、処分するのよ。

 二人では広すぎるでしょ。

 不経済だし、維持費も大変。

 マンションを借りるのよ。

 二人だから2LDK。

 狭いから香水の匂いは憂鬱になるわ」

「そうなんだ。

 私にできることは、アルバイトを紹介することくらいだけど。」

「ああ、あの女子大のサークルでしょ?

 私も、アルバイトを勧めたら、それは嫌なんだって。

 あまり人と接したくないんだって。

 出会い系との違いが、私にはわからないけど。」

絵美は、甚だ困ったと言わんばかりの顔をした。


「そうなの…。」

玲奈も絵美の顔を見て真剣になって考え込んだが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。

「ねえ、愛理ちゃん、彼氏はいるの?」

「え?

 うーん、いないと思うよ。

 あの性格だし、それに、今の様子だと。」

「ねえ、翔平ちゃん。

 槇野翔平君って覚えている?」

「え?

 あの翔平さん?

 忘れる訳ないじゃない。

 私のあこがれの人よ。」

絵美は、夢見るような顔をする。

絵美もよく玲奈が連れて歩いていた翔平のことを知っていて、以前は、恋心を抱いていた程だった。

「今ね、私、HKLの代表をやっているの。」

「HKL?」

「うん、そう。

 実はね…」


エントランスのドアが開く音がして、愛理は中に入って行き、インターフォンはそこで切れた。

数分経つと、今度は部屋のドアフォンのチャイムが鳴り、愛理が来たことを知らせる。

「はい。」

翔平はそう言いながら、ドアを開けると、愛理が玄関先に立っていた。

「!?」

(な、なんだぁ?!)

玲奈から追加で言われていた最近の愛理の格好そのもので、髪は黒いウィッグで野球帽を被り、目はカラーコンタクトで黒くし、地肌がわからないくらいの厚化粧、ジーパンに灰色のパーカー姿で、フードを野球帽の上まですっぽりと被り、そして何よりも鼻が馬鹿になる位、身体からは高級な香水のにおいをぷんぷんさせていた。


「は、はじめまして、槇野さん。

 衛藤愛理といいます。」

愛理はフードを脱ぎ、帽子を取りお辞儀をする。

(ふーん。

 礼儀正しい普通の子か。)

翔平は、礼儀正しい愛理をまじまじ見て、その風体とのギャップを感じていた。

「槇野翔平です。

 玄関先ではなんだから、さ、早く上がって。」

翔平はそう言って促すと、リビングの方へ歩いて行く。

愛理は、慌てて靴を脱ぎ、揃えると、急いで翔平の後を追ってリビングに入っていく。


「わぁ」

リビングに入るとその室内の明るさ、そして、一面ガラスのサッシ戸でみなとみらいや横浜港、遠くにベイブリッジが一望できる見晴らしの良さに息を呑んだ。

「す、すごい眺め…」

愛理がぼーとしていると、翔平が声をかける。

「取りあえず荷物を置いて、椅子に座っていて。」

そう言って翔平はリビングのテーブルの椅子を指さし、自分は洗面所に消えて行った。

愛理は言われた通り椅子に腰かけ、しばらく窓の外の風景を眺めていたが、ふと気になって、今度は室内を見わたした。


(うわぁ。

 何もない殺風景なお部屋。

 男の人の一人暮らしってこんなものなのかな。)

リビングの横にはベッドの置いてある部屋、その反対側にはキッチンが並んでいて、正面はリビングと同じようにすべてガラスのサッシ戸になっていて、明るかった。

しかし、室内の装飾は何もなく、七海の居た痕跡は何一つ残っていなかった。

ベッドの置いてある部屋は寝室として使用しているのか、大きなセミダブルベッドが置いてあり、大きな枕が一つ、そして掛布団が整えられて引かれていた。

それ以外はタンス位しか置いてなく、リビングもウォークマン用のステレオセット、テレビと壁際に水槽があり、中には琉金が2匹。

キッチンも調理器具はあったが、食器などは翔平の物1セットしかなかった。


景色の良さと物珍しさも手伝って、愛理はしばらく時間のたつのを忘れ部屋の内外を眺めていると、翔平の入って行った洗面所の方から何かを知らせるようなチャイムが聞え、翔平が出て来た。

「さて、衛藤さん。

 まずは、お風呂に入って。」

「え?

 お風呂?!」

部屋に来て初対面の男性にいきなり『風呂に入れ』と言われ、愛理は耳を疑った。

(い、いきなり、この身体を求めて来るのかしら。)


愛理は姉の絵美からいいアルバイトがあるから玲奈のところに行くように言われ、玲奈からHKLの説明を受けていた。

ただ、説明を受けた時、ハウスキーパー以外に愛人として家主から身体を求められたら応じることと言われ、愛理はショックを隠せなかった。

しかし、出会い系サイトで見ず知らずの男と会うより、相手が玲奈の知りあいの翔平で、翔平のプロフィールと人となりを聞き、印象が良かったこと、玲奈からHKLのきっちりした規則の説明を受け、HKLをやることを決めたのだった。

そして愛理がHKLをやろうと決めた要因は、玲奈のひと言だった。

「ねえ、愛理ちゃん。

 “L”は、愛理ちゃんがこの人とならと思ったら受ければいいし、嫌なら断わっていいのよ。

 今回は翔平によく言っておくから。

 それと、もし、いいなと思ったら、思いっきり恋しなさい。」

(見ず知らずの男の人といきなりお金のために身体の関係を持つよりも、きちんと紹介してもらった方が心強いし、なんかお見合いみたい。)

化粧品などを買うお金が欲しく、そのことだけを考えていた愛理は、今まで男性と付き合ったことが無かったので、お金よりも男性と付き合うという方に興味が沸いていた。


「いきなり…ですか…?」

訝しがる愛理を見て、翔平は小さく息を吐くと、真顔で声のトーンをあげる。

「プロフィールを見てわかっていると思うけど、僕はアレルギー体質、アトピーで化粧品のきつい匂いや粉が駄目なんだ。

 着替え、持って来ているだろう?」

愛理は、緊張した面持ちで、小さく頷く。

「悪いけど、お風呂沸かしたから入って、化粧を落とし、香水のにおいを洗い流して来てくれないか。

 ウィッグも取って、カラーコンタクトも外してくれ。

 それが出来ないのであれば、契約できないからお引き取り願おう。」

躊躇していた愛理だったが、翔平から『契約できない』と聞いて、パニックになりながら、お金が入らなくなるということ、翔平がアレルギー体質で化粧の匂いを受け付けないという正当な理由を聞いて、渋々と従うことにした。

ただ、なんでウィッグやコンタクトが駄目なのかがわからなかった。


「じゃあ、バスルームに案内するからついてきて。」

翔平がそう言うと愛理は頷き、翔平の後を追って洗面所に入って行く。

洗面所にはいるとすぐに広く楽々着替えが出来るスペースに大きな鏡のある洗面台、洗濯機が置いてあり、その奥にバスルームに通じる扉があった。

「これ、フェイスタオルとバスタオルは新品で誰も使ったことのないものを用意したから、良かったら使って」

翔平の指さした方を見ると、真新しい真っ白なフェイスタオルとバスタオルが置いてあった。


「お風呂はここ。

 この時期、シャワーだけだと寒いといけないから、お風呂を沸かしたからね。

 シャンプーや石鹸も自由に使って。

 湯舟には、バスソープが入っているから。」

そう言ってバスルームから出てリビングに戻ろうとする翔平を愛理は呼び止める。

「あの…。

 槇野さんも一緒に入るのではないのですか?」

「え?」

想いもやらぬセリフを聞いて、翔平は面食らった。

「さっきも言ったろ。

 僕は化粧品のきつい匂いが駄目だって。

 だから、化粧を落としてもらって、そこから話を始めよう。

 あと、名字で呼ばなくて名前で、翔平でいいよ。」

そう言って出ようとする翔平を愛理は再び引き留める。


「あの…。

 化粧を落としても、顔を見て笑わないでくださいね。

 それと、ウィッグやコンタクトは、なぜ、ダメなんですか?」

「ん?

 人を見る時は、素のままで見るのが一番だからだよ。

 だから、化粧をとっても笑わないよ。」

翔平は優しい顔で頷くと、それを見た愛理は少し、ほっとした様だった。

「それと、私…。」

愛理は何かを言いかけたが首を左右に振り「いえ、なんでもありません。」と言葉を遮った。

「じゃあ、何か困ったことやわからないことがあったら、声をかけてね。」

そう言って翔平は洗面所から出て行った。


(玲奈さんからハウスキーパーは肉体労働だから着替えを持って行ってねと言われたとおり、着替えを持って来て良かったわ。

香水の匂いのついた服はどうしようかしら。

あとでビニール袋でも借りて、仕舞った方が良いかしら。

そう考えながら裸になった愛理は、翔平が用意したフェイスタオルを手に取る。

(本当に新しいタオル。

 それに洗ってあるのか、いい匂い)

フェイスタオルとバスタオルの匂いを嗅いで愛理は思った。


浴室に入ると、その広さに愛理は目を丸くした。

(家の浴室の2倍はあるわ。

 浴槽なんて、足が延ばせる)

愛理が浴槽の蓋を取ると、湯気とともにバスソープのいい香りが鼻をくすぐった。

(わぁ、なんていい香りなんだろう。

 きつくなく、ほのかに香ってくる。

 この香り、私好きだわ。

 そう言えば、部屋中、また槇野さんからもいい香りが…)

30分程経って、愛理は、翔平に言われた通り、化粧を落とし、身体を良く洗い浴室から出てきた。


そして、洗面所のドアを少しだけ開けて、翔平に声をかける。

「し、翔平さん。

 翔平さん。」

「なに?

 どうした?」

愛理の声に気が付いた翔平は、洗面所に近づき、愛理に声をかける。

「すみません。

 ドライヤーをお借りしてよろしいですか?」

「もちろん、いいよ。

 ブラシや櫛も自由に使ってね。」

「はい。」


それから、ドライヤーで髪を乾かしている音が聞え、程なくして愛理が洗面所から出て来た。服装はジーパンにティシャツ、その上に長袖のブラウスを羽織ったカジュアルな格好だった。

「翔平さん…」

洗面所から出て来た愛理は、その場でうつむいたまま立ち尽くしていた。

「どうしたの?」

翔平は優しい声で話しかける。

「すっぴんでも笑わない約束ですよ。

 お願い。」

髪はウィッグを外し、ブロンドのセミロングになっていた。

「ああ、約束するよ。」

「それに肌が荒れていて…。

 気味悪がらないでくださいね。」

心なしか愛理の声は震えていた。

「わかった。」

翔平は限りなく優しい声を出すと、愛理はゆっくりと顔を上げ、眼を開いた。


瞳は、高校時代の写真と同様に綺麗な青い瞳で、あどけなさが残る整った顔立ちをしていた。

しかし、肌は荒れ、特に右の頬は直径3㎝くらい真っ赤に痣のようになっていた。

また、写真と違い、暗く生気のない顔をしていて、痛々しいくらいだった。

「のどが乾いたろう。

 まずは、冷たいお茶でも飲んで。」

翔平は驚きを顔に出さず、優しい顔で愛理をテーブルの椅子の座らせ、キッチンから声をかける。

「すみません。

 いただきます。」

愛理は翔平から冷たいお茶の入った来客用の花柄のコップを受取ると、美味しそうに飲み干した。

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