第4章 霜月

第1話 『常識』という名の洗脳

11月の最初の土曜日。

朝の9時5分前。

横浜駅から京浜東北線で東京方面に一つ戻った駅が最寄り駅の、とあるマンションの一室の前で、一人の女性がドアフォンを押す。

「はい。」

インターフォンからは、神経質そうな男の声が聞える。

「あの、私、西山です。」

「ああ、わかっている。」

“カチャ”とドアの鍵が開く音がした。

ドアの前に立っていた女性は、七海だった。

七海は緊張した面持ちでドアの前に立っていた。


2週間前。

七海は翔平とのHKLの契約解除を玲奈に電話で申し入れていた。

そして、新たなHKLの家主を探すために、玲奈の事務所を訪れていた。

「ねえ、七海ちゃん。

 翔平と何かあったの?

 何か嫌なことされたのなら文句を言うから私に言って。」

玲奈が心配そうな顔をして七海に話しかける。


「いいえ、翔平さんには良くして頂き、嫌なことなんか一切されていません。」

「じゃあ、なんで契約解除を?

 今なら、まだ平気よ。

 私が言ってあげるから。」

すでに翔平には七海から契約の解除の申し入れがあり、約束から契約を解除したと玲奈が通告していた

玲奈は七海と知り合ってから、その素直で優しい性格、可愛らしい容姿にすっかりと惚れ込み、また、玲奈自身、兄妹は兄だけだったので、妹が欲しいと思っていたことから、七海を妹のように可愛く思っていたのだった。


「理由はなに?」

玲奈の再度の問いかけに、七海は寂しそうな顔をして、首を横に振るだけだった。

「玲奈さん、訳は勘弁してください。

 私が決めたことで、翔平さんには一切落ち度も問題もありません。」

「そうなの…。」

玲奈は理由を聞き出したかったが、七海の決心したような顔を見て、聞き出すのは無理だと諦めた。


「玲奈さん。

 その上で申し訳ないのですが、HKLは続けたいので、誰か紹介して頂けますか?」

「う、うん。

 そのPCに、現在HKLを募集中の家主の自己紹介が入っているから、自由に見ていいわよ。

 でも、最近登録した家主さん、七海ちゃんに勧められる人はいないわよ。」

七海は、少し落胆したような顔をして見せた。


「そうですか…

 お母ちゃん、だいぶ精神的にも肉体的にも元気になって来てパートの仕事も順調に復帰したのですが、私がバイトを辞めると、きっと、また精神的に追い込まれてしまう気がして。

 今度、また、そうなったらどうなるかわかりませんし、怖いのでHKLは続けさせてもらいたくて。」

「それなら、何もHKLではなくて、普通のバイトにすればいいのに。」

玲奈は眉間に皺を寄せた。

玲奈としては、七海が可愛くて、良く知っている翔平以外の家主に紹介したくはなかった。


「HK(ハウスキーパー)だけなら、口利きしてあげるわよ。」

大学のサークルとして定着してきているハウスキーパーのアルバイトは、もともと玲奈が発案したものだったので、現在のサークルの顧問として外部からサポートしていた。

そのため、玲奈の影響力は強く、七海を入れるのは造作ないことだった。

「ありがとうございます。

でも、学業優先で土日だけとなると、他のバイトだと、HKLのように高額の収入はのぞめませんし。」

「でも、本当にいいの?

HKLのLで、翔平以外の家主と身体を交えるのよ?」

玲奈は、セックスという言葉を使うのを少しためらい、言葉に重みがあるような古い言い回しをした。


“翔平”の名前を聞き、一瞬、七海は寂しそうな顔をしたように見えたが、すぐに頷いて見せた。

「わかったわ。

 じゃあ、自己紹介のファイルを見せてあげる。

 だけど、今あるのは、さっきも言ったけど、あまりお勧めできない人ばかりよ」

玲奈は小さく息を吐くと、パソコンのHKLのアイコンをクリックし、パスワードを入力し、七海の方に向けた。


玲奈は、もともとHKLを広げる気はなく、玲奈の知っている男女のお見合いのようなつもりでHKLを始めていた。

なかなか出会いの場がない家主に、女性を紹介し、仮想の愛人関係を体験、かつ、あとで“こんなはずではなかったのに”と言うことが起きないように、ハウスキーパーをさせることで女性には家主の生活観を体験、家主には理想と現実との差の認識、それでうまく行くようならば、そのまま本物の恋人、そして結婚という幸せを手に入れさせることを最終的な目的と考えていた。

なので、推薦できる男女は、玲奈自身が納得できる男女のみをHKLに登録させていた。


しかし、最近ではどこから漏れたのか、社会的に地位の高い人間から是非にでもと紹介され、登録する家主が増えてきていた。

玲奈は、色々な人間と仕事柄接することが多く、人を見る目は養われていたので、当然、HKLの登録前に男性本人と面接は行うが、余程の理由がない限り紹介者の面子もあるので、玲奈自身が気乗りしなくても登録せざるを得ない男性ばかりだった。

また、女性の方も収入面の高さから、どこからか漏れ、玲奈に頼って来る女性が増え、だんだんと出会い系サイトのような色合いが強くなり始め、本来のHKLの目的から離れていくような気がして玲奈の頭痛のタネになっていた。


数日後、再び玲奈の下に訪れ、HKLのファイルを見ていた七海は、あるファイルで眼を止め、玲奈に話しかける。

「玲奈さん、この人。」

「え?

 良さそうな人がいたの?」

七海は見ていたパソコンを玲奈の方に向けた。

七海の見せたファイルの写真は、翔平とは似ても似つかない、鼈甲の焦げ茶色のメガネをした小太りの真面目そうな男が写っていた。


「榎本加須美、40歳。

 え?

 40歳?」

21歳の七海とは19歳も離れている男性で、玲奈は思わず七海を見るが、七海は黙って頷く。

「会社は…、一流企業ね。

 その会社の部長?

 その年齢で部長だと出世頭ね。

 趣味は仕事。

 希望は、提示した時間割り通りに動いてくれる女性?

 クラッシック音楽に、接待でゴルフ…。

 性癖は、自己評価で普通…。」


玲奈は、榎本と面接した時のことを思い出していた。

「あ、あの人か。

 七海ちゃん、この人、すごく神経質そうな人で、物腰は柔らかかったけど、典型的なイエスマンのような感じだったわ。

 上の人や、お客さんにはぺこぺこするけど、部下や下請けには厳しく当たりそうな感じがしていたわ。

 まあ、私の感想だけど。

 あまり、お勧めじゃないわよ。」

玲奈は顔を曇らせていった。


「でも、一流企業の部長さんですよね。

 収入も多そうだし、年上だし。

それに、ちゃんとしていて、真面目そうな人だし。

 言うことをきちんと聞いていれば、普通ですよね。」

玲奈には七海の言った「普通」の意味が分からなかったが、何か胸騒ぎを覚えた。

「是非、一度、会わせていただけますか?」

「七海ちゃん…。」

七海の真剣な眼差しを見て、玲奈は渋々頷いた。


数日後、七海と榎本の顔合わせに珍しく玲奈も同席した。

顔合わせでは榎本は始終にこやかな顔で接し、丁寧な言葉遣い、細やかな気遣いを見せ、緊張していた七海をほっとさせた。

しかし、玲奈には、丁寧な言葉遣いの裏に何かある気がしたのと、ウェイトレスが、榎本に故意にではなくたまたま偶然にぶつかった時、ひたすら謝るウェイトレスを何も言わずに冷たい目で見降ろしていたのを見て確信に変わっていた。

(この人、裏表がある性格だわ。

 表の顔は、優しく親切だけど、この手の人は裏に回るとろくでもないわ。)

その後、玲奈は七海に考え直すように注意をしたが、紳士的な榎本の外面を、すっかり良い人だと信じ込んだ七海は、玲奈の忠告を一笑に伏せた。

「七海ちゃん…。」

玲奈は、それ以上のことは言えなかった。


次の顔合わせは、玲奈は同席せずに七海と榎本の二人きりだった。

場所も前回と同様に横浜駅近くの喫茶店だった。

「じゃあ、西山さん。

 契約してくれると言ことでいいんだね?」

一通り、話が済んで、榎本が切り出すと、七海は、緊張した顔で頷いて見せる。

「そんなに、緊張しなくてもいいだろう。」

そう言って榎本は笑って見せた。

「で、先ほども言ったけど、僕は仕事柄、時間に少々五月蠅いんだ。」

榎本は、それまでと違って、顔は笑っていたけど、目は真剣だった。


「え?」

たじろぐ七海を榎本は笑いながら付け加える。

「うるさいと言っても、ちゃんと守ってくれれば、問題ないから。

 一応、契約は毎週土曜日。

 朝9時から、夜の8時まで。

 必ず、10分前には来て、9時から動けるように準備してください。

 そして、その日の予定は、その時に僕から伝えるから。

 何も大変なことはない。

 掃除洗濯などがメインになるから。」

「食事は、どうしますか?

 好き嫌いを教えていただければ。」


榎本は、食事の話を切り出した七海に対し、五月蠅いと言わんばかりにじろりと見る。

「食事は、栄養士がきちんと管理した献立で、朝昼晩と届けてもらっているから心配することはない。

 西山さんは、届いた食事を並べてくれればいいです。

 そして、食べ終わったものを片付けてくれるだけでいい。

 それと、日曜日は、毎週のように接待ゴルフだとか、予定が詰まっているから、用事を日曜日にずれこませないように注意してください。」

「はい。」

七海は掃除と洗濯、それに食事は配膳だけだと聞いて、楽かなと思っていた。


「あ、それじゃ、あの…」

七海は、“L”はどうするのかと聞こうとした。

「ああ、“L”ね。

 それも、僕の方から言うから、その時に応じてくれればいい。

 毎週土曜日に、応じられるように、きちんと体調管理はお願いします。」

「は、はい。」

七海は、何となく機械的な様な気がして、少し嫌な気がした。

「あと、お金だけど、毎週土曜日1回ずつ日払いで。

 1日につき1万5千円でいいよな?

 あ、ごめん。

 1万5千円でいいですよね?」

一瞬、榎本の言葉遣いが変わったのを、七海は金額に気をとられ聞き逃していた。


(1万5千円。

 月最低でも4は土曜日があるから、6万円かぁ。

 でも、バイトの日当で1万5千円の高額のバイトはないし、日曜日はHKのバイトをやれば、つき10万円に手が届くわ。

 今までより、5万円も減るけど、お母ちゃんが本格的にパートを再開できれば、大丈夫ね)

七海は、前回、榎本から週一日、土曜日のみと言われ金額も聞いていたので、その後、玲奈に日曜日にHKのバイトを紹介してくれるように頼んでいた。


「月換算で6万から7万5千円。

 高額なので、約束の時間帯を超えても、その分払えないから、時間内できっちりと終わらせてください。」

「はい。」

駄目押しのように榎本に言われ、七海は小さく頷く。

(そうよね。

 普通に考えたら、月に6,7万の出費だから、たいへんよね。

 翔平さんの方がお金持ち過ぎたのね)

七海はふと翔平のことを思い出したが、急いで忘れようと、榎本に見られ来用に小さく首を振った。


「じゃあ、今度の土曜日から。

 くれぐれも時間に遅れないように、お願いします。」

そう言うと、榎本はテーブルの上の伝票を掴むと、七海に背を向け一人でレジの方に向かった。

七海は慌てて後を追いかけようとしたが、榎本は振り向き手を上げ、七海を制した。

「僕はこれから用事があるから、ここで。

 西山さんはゆっくりして行ってください。」

そう言うと榎本は、二度と七海の方を振り返ることなく、さっさとレジで会計をし、店を出て行った。

(翔平さんは、いつも私の傍がいいって、一緒に居たのに。

 最初の顔合わせの時も、改札まで送ってくれたのに。)

七海は、漠然と不安を感じながら、その後ろ姿を見送った。


10分前に来るようにと言われた七海は、初めての場所だったので、少し道に戸惑い、それでも9時5分前に榎本のマンションにたどり着いた。

ドアを開け、七海を迎い入れた榎本は、顔はにこやかだったが、目は笑っていなかった。

「さあ、中に入って。」

榎本のマンションは、少し年数がたっていたが、外見は豪華だった。

マンションは10階建てで、榎本の部屋は3階の北東に面した2LDK+Sの間取りだった。

北東に面しているせいか、部屋の中は思ったよりも薄暗く、古ぼけた印象だった。


「スリッパは?」

「え?」

榎本にいきなりスリッパと聞かれ、七海は驚いた。

「なに?

 自分のスリッパを持ってこなかったの?

 素足や靴を履いていた靴下で部屋の中を歩くと、汚れるでしょ?

 それ、家政婦の常識だよ。」

「え?」

七海には寝耳に水の話だった。

(翔平さんの家では、特に何も言われていなかったのに…)


困惑気な顔をする七海を見て、榎本は眉間に皺を寄せる。

「困るよね。

 仕方ないな、今日は、特別に家のスリッパを貸すから、靴を脱いだらそれを履いて。」

「す、すみません。」

“常識”と言う言葉が七海の耳に突き刺さり、七海は小さくなって謝った。

榎本は、どこからかスリッパを出してきて七海の前に放りだす。

そのスリッパは、旅館や病院等でよく見かける、茶色のビニール製のスリッパだった。

七海は、足元に投げられたスリッパを、手で揃え、靴を脱いで、履き替える。


「ところで、ここに来たのは9時ギリギリだったよね。

 10分前に来て、9時から働けるように用意をしてくださいと言ったはずだけど。」

榎本は厳しい目つきでジロリと七海を睨みつける。

七海は、榎本のニコニコした笑顔からの豹変ぶりに、心臓を摑まれる思いがした。

「ごめんなさい。

 地理に不慣れだったので、迷ってしまい。」

「言い訳はいいよ。

 初めての場所であれば、迷わないように下見をするとか、それを考慮して早めに来るとかするのが普通でしょ。」

「は、はい…。」

「まあ、遅れたものは仕方ない。

 今度からはちゃんとしてください。」

「はい。」

榎本に言われ、七海は約束が守れなかったという罪悪感に囚われていた。


「じゃあ、早く着替えて。」

「え?

 着替え?」

七海には、全く何のことだかわからなかった。

「おいおい、そこまで常識知らずだったのかよ。

 外から入って来た埃だらけの洋服で、この僕の部屋を掃除するつもりだったのか?」

榎本の口調はがらりと変わり、厳しく棘のある口調に変わり、顔は怒りで顔に赤みが差していた。

「ひっ」

七海は、いきなり怒鳴られ、その場で棒立ちとなる。


「どの世界でも、家政婦は最初に仕事着に着替えるだろうが。

それは、外の埃を持ち込まないようにするのと、家事で動きやすい格好になるためだろ。

 それなのに、その恰好はなんだ。

 ジーパンにちゃらちゃらしたブラウスで家事が出来るのか。

 ええ?」

七海は何時ものジーパンだったが、初めてということで、持っている中で一番いいレースのついたブラウスを着ていた。

「呆れたね。

 それで、お金を貰おうというのか?

 ええ?」

榎本に矢継ぎ早になじられ、七海はただただ恐縮するばかりだった。


その時すでに、七海の中には翔平のことも、事前に何も言われていないのに文句を言われる理不尽さも、一切、頭に浮かんでこなかった。

そして、自分はなんて常識がないのかと、自分を責め始めていた。

「す、すみません。

 今度から、きちんと持ってきます。」

そう答えるのがやっとだった。

「まったく。

 こんな“常識知らず”を紹介するのか。

 あの女も、常識知らずか。

 今度、責任者に文句を言わないとな。」

榎本の矛先が玲奈に向いて、七海は玲奈にまで迷惑がかかると思うと、ますます恐縮していった。

それが榎本の人を操る操縦術であることを七海は全く気が付かず、その術中にはまっていた。


榎本は、部下や下請け業者を自分の言いなりに使えるように、飴と鞭、特に恫喝を交えながら、説教を長時間繰り返し、相手の平常心を奪い取り、気が付くと、自分が悪かったと思わせ、服従させていく術に長けていた。

「まあ、いいや。」

榎本の文句が一段落し、七海はほっとしたのもつかの間、すぐに榎本から指示を受ける。

「今日の予定だけど、まずは、洗濯からやってくれ。

 洗濯機を回している間に、ワイシャツをクリーニングに持って行って、帰りに出来上がっているワイシャツを持ってくること。」

そこまで言うと、榎本は、ぼーっと話を聞いている七海を睨みつける。


「おい、メモを取らなくていいのか?

 僕の言ったこと、全部暗記できるのか?

 そんなに頭がいいなら、いいけど。

 え?!」

「は、はい。

 え?

 メモ…。」

七海に再び動揺が走る。

(メモ帳は、確かバッグに入っているわ。

 ペンもあった。)

七海は、慌ててリュックからノートとボールペンを取り出す。

「そんな大きなノート使って。

 家政婦なら普通はエプロンのポケットに入るくらいの大きさのメモ帳を使うだろ。

いちいち、そんな大きなノートを出して、書いたり見たりするのか。」

榎本の叱責が再び七海を襲う。


「す、すみません」

七海は半泣きになりながら、榎本いうことが正しく、自分の常識のなさに泣きたいくらい恥ずかしくなっていた。

そして、お気に入りのノートを一枚破り、それを小さく追って手帳代わりにする。

「まったく、こんなことも教えなくちゃいけないか。

 歳はいくつだっけ?」

「はい、21です。」

「かぁー、二十歳越えてもそれかよ。

 大学3年だろ?

 それじゃ、就活もうまく行かないぜ。」

「す、すみません。」

七海は、ただただ謝るだけだった。


「クリーニング屋は、行きつけが決まっている。

 ここから駅に向かって10分位のところにある“白服社”だ。

 ここに来るときに通っただろ?」

「え?

 気が付きませんでした…。」

「おい、ほんとうか?

 家政婦をやるんだろ?

 この家のまわりにどんな店があるのか、事前にリサーチして、家主の言うことにすぐに応えるのが、常識だろ。」

「す、すみません。

 注意不足でした。」

「スマートフォン、持っているだろ?

 それで今行った店を検索して、クリーニング物を出しに行ってくれ。」

「はい…。」

「洗濯機が終わるまでに戻ってきてから、すぐに部屋の掃除。

 11時半に昼ご飯が届くから、それまでに掃除と朝の食器の片付け。

 お店の食器でも、きちんと洗って返すのが常識。

 届けに来た配達員から昼食の分を受け取った後、朝の食器を渡すように。

 それは、夜も同じ。

 午後は、昼食の片付け。

その後は、会社の服装のチェック。

背広が汚れていないか。

染みが付いていたら染み抜きで綺麗にする。

ほころびがあったら、補修する。

 革靴が5足あるから、その手入れ。

 革靴くらい、磨いたことあるよな?」

「あ、ありません…。」

「かぁー、ほんとかよ。

 就活の時に、まさか、ジーパンにスニーカーで行くつもりか?

 スーツに革靴だろうが。

 革靴の磨き方を練習しておくのが常識だろう。」


榎本の操縦術では、相手がカチンとくること、特に身内の悪口は言わないことが鉄則で、“親から教わらなかったのか”など、相手が不快に感じ反撃に出るようなことは言わずに、とことん本人をなじるのが手腕だった。

「その分じゃ、裁縫なんてやったことないんじゃない?」

「い、いえ、裁縫は出来ます。」

「どうせ、ボタン付けくらいだろう。」

「…」

“そんなことはない”と言い返そうとしたが、タイミングを逸し、七海は黙ってしまった。

それも榎本の操縦術のひとつで、相手に反論を言わせないタイミングで話しを進めていく、それによって次の話が矢継ぎ早に来るので、榎本の話を咀嚼することが出来ずに鵜呑みすることで、どんどんと榎本の言いなりになって行く、そういう術を心得ていたのだった。

「染み抜きなんてやったことないのじゃないか?」

「染み抜き…」

七海は頭の中が白くなってきた。

「染み抜きセットがあるから、説明書を良く読め。

 日本語、読めるんだろ?」

七海は小さく頷く。

「まあ、いい。

 染みが付いていたら声をかけてくれ。

 明日は、接待ゴルフでたいへんなんだよ。

 ゆっくり休ませてくれよ。

 そのために、大枚叩いて来てもらっているんだから。

 さあ、早く、洗濯機を回してクリーニング屋に行って。

 終わるまでには、戻って来いよ。」

「は、はい。」


七海が洗濯機の置いてある洗面所に入って行くと、小型の全自動洗濯機と、その上に乾燥機が置いてあった。

翔平の家にある無用に大きな洗濯機ではなく、一人暮らし用のサイズのものだった。

洗濯機の蓋を開けると、むぁっと男の臭い匂いが漂う。

洗濯機の中は一週間分あるのか、シャツやパンツ、靴下などが山のようになっていた。

七海がスイッチを入れ、洗剤を投入するとおおよその洗濯時間が表示される。

(40分。

 ここから10分のところって言ってたわね。

 行って帰って20分。

 20分残るから大丈夫)

「ほら、ワイシャツはそこの籠に入っているから、バッグに入れて持って行って。」

ワイシャツも1週間分で5枚、洗濯籠の中に入っていた。


榎本は、自宅で洗濯するものは洗濯機、クリーニングに出すものは洗濯籠の中に入れていた。

七海は言われた通り、ワイシャツをボストンバックのような肩から下げるバッグに入れて、榎本のマンションを出る。

出てすぐにスマートフォンで、指定されたクリーニング屋の位置を会員券の住所を頼りに検索し、場所と道順をチェックする。

そのクリーニング店は駅のすぐ近くで、七海の脚ではゆうに15分以上かかるところにあった。

しかも、そのクリーニング店に行くまでに、2,3軒、クリーニング店があり、“なんでここではだめなの”と七海を憂鬱にさせた。

やっとたどり着くと、そのクリーニング店は、人でごった返していた。

(すごい、こんなに混んでいるの…)

見ると、土曜日は10時までに持ち込むと2割引きになると大々的に宣伝の垂れ幕があり、皆、それをめがけて押し寄せていたのだった。


七海がその列に並んだのは、10時5分前。

しかし、いくら待てども、なかなか七海の番にならずに、やっと、受付にたどり着いた時は、10時10分だった。

店は、店員が2人しかおらず、押し寄せる客をさばききれず、七海がクリーニングを出し、

前回出してあったものを受取るまでに、5分以上かかっていた。

(え!?

 お店に来て、もう、20分も経っている。

 どうしよう、急がないと洗濯機が終わっちゃう。)

七海は店で渡されたワイシャツをクリーニングの袋から出し、バッグに詰め込むと、時計を見ながら小走りで榎本のマンションに戻った。


「遅い。

 どこで油を売ってたのか。

 洗濯機はもう、終わっているぞ。」

戻って来て、開口一番、榎本の叱責が飛ぶ。

「す、すみません。

 お店が混んでいたもので」

「だから、リサーチ不足なんだよ。

 その店が土曜日にセールやっているとか事前にわかっていないと。

 大方、行って帰って2,30分だし、10分もあれば余裕でクリーニング物の出し入れができるだろうと思って、だらだら行ったんだろう。」

「そ、そんな…。」

七海はそう言いながら、道を確認した時、確かに榎本が指摘した通り時間に余裕があると安心したことを思い出していた。


「で、出来上がったクリーニング物は?

 ワイシャツは?」

榎本は、バックしか持っていない七海をじろりと睨みつける。

「あ、できあがったワイシャツならこの中に…。」

そう言いながら、七海はバッグを開けてクリーニングされたワイシャツを取り出す。

「お、おい。

 何を考えているんだよ。

 そんなバッグに入れたら、皺皺になるだろうが。」

榎本の剣幕に、七海の顔は見る見る曇って行く。


「なんで、ワイシャツをクリーニングに出していると思っているんだ。

 ほら、行って見ろ!」

「え?

 クリーニングで汚れを落とすため…。」

「他には!?」

「…」

押し黙って考えている七海を見て、榎本は顔を真っ赤にする。


「皴を伸ばすためだろうが。

 僕は、常に社内外で上司や部下、それにユーザーに観られているんだよ。

それが、よれよれのワイシャツを着ていたら、恥ずかしくて仕事に差し障るだろうが。

だから、きちんと皺のないワイシャツにするためにクリーニングに出しているんだ。

それなに、バッグに詰めたら皺くちゃになるだろう。

ほら、見て見ろ。」

榎本は、バッグから出したワイシャツを七海の手から受け取ると、眺めて、そして、七海の目の前に突き出す。

当然七海の見えていないところで、わざとワイシャツに皺をつけている。


「どうしてくれる?

 もし、これでだらしない奴だと思われて商談がうまく行かなかったら、どうしてくれる?

 僕は、何億、何十億の商談を毎日のようにやっているんだよ。

 ノルマが達成できなかったら、どう責任取ってくれるのか?

 代わりに商談をまとめてくれるのか?

 ええ?

 何とか言えよ。」

榎本の剣幕に、七海はただただ、“すみません”というしかなかった。


それから10分以上、七海は立ったまま、身じろぎも許されず、ひたすら榎本の小言を聞いていた。

小言から解放され、七海は泣きべそをかきながら、洗濯機から洗濯ものを取り出し、ベランダに出ようとした。

「おい。

 何やっているんだ?」

榎本は、また、険しい顔で七海に近づく。

「洗濯ものを干そうと…。」

「本当に、常識がないな。

 マンションでベランダに洗濯物なんて出さないんだよ。

 景観を損ねるから出さないのがお約束で常識。

 それに外に出すと排気ガスとか、汚染物質が洗濯物に付くだろう。

 そんなおぞましい汚染された服を僕に着せるのか?

 ええ?

 一流企業の部長職の僕の健康を損ねて、どうするつもりだ。

 僕は、社員が8千人以上いる一流会社で将来を嘱望されて部長になった、いわゆるエリートなんだよ。

 8千人の生活を面倒見ていくため、身を粉にして働いているんだ。

 僕がいないと8千人が生活に困ることになるんだよ。

 その僕を病気にさせる気か?」

「は、はい。」


「なにが“はい”だぁ?

 僕の健康を損ねるつもりなのか?」

「い、いえ、そんなことはありません。

 すみません、気が付きませんでした。」

「本当に常識がないな。

 乾燥機があるだろ?

 おもちゃでも、遊びで買ったわけでもないんだよ。

 洗濯したものを乾燥させるための機械なんだよ。

 わかる?

 ええ?」

「はい。」


「返事ばかりはいい。

 ほら、もう昼食の配達が来る時間になるだろう。

 乾燥機回して、朝の食器を片付けろ。

 掃除は、午後一だな。

 なあ、頼むよ。

 僕は明日、大事なお客様と接待ゴルフがあるんだよ。

 だから、今日はゆっくりしたいんだ。

 じゃあ、頼むよ。」

「は…い…。」

榎本は、リビングの椅子に座って雑誌を読み始める。

午前中の大半は、榎本の小言で過ぎていった。

七海は、まるでロボットのように言われたことをやり始めた。

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