第4話 猜疑心

JRの駅で降り、マンションに向かって歩いて行くと、翔平は何か違和感が、誰かに後ろから付けられている気がした。

(やれやれ。

 でっも、俺の方に来たのなら、七海の方は大丈夫だな…)

翔平は、坂道を登りながら、いつもと違う小道に入って行った。

その坂道は、坂の途中に立っている住宅に通じるため、細い道が縦横無尽に張り巡らされ、そこに住んでいる人間でなければ、一歩踏み入れると迷ってしまうほどだった。

翔平が折れた道はその先の行き止まりにある小さな公園に通じている道で、公園は昼間と違い、小さな街灯が一つついているだけで薄暗かった。


その公園の真ん中で、翔平は脚を止めて振り返る。

「…」

無言で来た道を見ていると、暗闇から小柄な男が翔平の後を追うように公園に入って来る。

男は七海の父親の克己だった。

「ちぇ、やっぱり気づいてやがったか。

 まあ、いいや。」

克己はそう言うとポケットに両手を突っ込んだまま、肩を怒らせながら歩いて翔平に近づいてくる。

「おまえ、さっきは、よくも娘の前で恥をかかせてくれたよな。

 しかも、娘だけじゃなく大勢の目の前で良くやってくれたよなぁ。

 ええ度胸しとるやんけ。

 われ!」

最後は、脅すように大きな声を出す。

しかし、翔平は眉ひとつ動かくことなく克己を冷ややかな目で見降ろしていた。


克己は、初め翔平が克己の恫喝で肝を冷やし、何も言えなくなっているものと思っていたが、近づき、下から見上げるように睨みつけても、翔平の顔色は変わらず無表情で見おろし続けていたので、胸騒ぎを覚えていた。

(なんだ、こいつ。

 全然、ビビっていないのか?

 そんなことあるか。

 今まで、俺の恫喝にビビらなかった奴はいなかったぞ)

最後は自己誇張気味だったが、普通のサラリーマンは克己の脅しに、大抵、言うことを聞いてお金を渡したりしていた。


翔平に対しても、脅して怖がらせ、金を巻き上げようと考えていたのだが、翔平は全く克己を恐れておらず、逆に克己に対し無言の圧力をかけてきたので、克己は顔に汗を浮かべはじめていた。

「て、てめえ。

 お、俺がひと声かければ、怖い兄ちゃんたちが集まり、お前なんか、横浜港に沈めることだって簡単なんだぞ。」

そう言いながら、克己は息が上がり始めていた。

その言葉を無視するように、翔平は一歩、克己の方に踏み出す。

「な、なんだ、てめえ。

 俺とやろうというのか?

 てめえ、ただじゃすまないからな。」

克己はそう言いながら、一歩、後ずさりする。

また、一歩、翔平は踏みだし、克己と一発触発の距離に近づいた時、遠くで女性の叫び声がした。


「お巡りさん、あそこ!

 喧嘩している!!」

「なに?

 どこだ?」

「ほら、あそこ。」

そういう声と、がしゃがしゃと何か金属のようなものがぶつかり合う音とともに、二人の警察官が、翔平と克己の方に速足で近づいてくるのが見えた。

「ち、お前、顔をよく覚えたからな。」

捨て台詞を言う克己に向かって、翔平も小声で「俺も覚えた」と低く重い声で言う。

克己はそれを聞くと、二度と翔平の方を振り向くことなく警察官の方に歩いて行く。


「おい、お前。

 ちょっと話を聞かせてもらおう。」

警察官の一人が克己の方に向かって職務質問をしようと克己の肩に手を置こうとしたが、克己はその手を振りほどく。

「何もしてねぇよ。

 ただ、道を聞いただけだよ。」

「そんなことあるか。

 ちょっと来い。」

「いやだなぁ。

 勘弁してくださいよ。」

克己は急に猫なで声になり、善人面の笑顔を見せる。


もう一人の警察官は翔平の方に近づき、礼儀正しく、「何かあったのか?」と尋ねたてきた。

「何もないです。

 あの人の言う通り、道を尋ねられただけです。」

翔平は、笑顔で答えると、警察官は渋々と引き下がると、克己と押し問答をしている警察官に手を振って何でもないと合図を送った。

手を振られた警察官は、怪訝な顔をしたが「行っていい」と克己を解放すると、解放された克己は、警察官に頭を下げながら足早に去っていった。

警察官たちも、翔平に会釈をすると、その場を立ち去っていく。


「さてと。

 玲奈か、警官を呼んだのは?」

「うふふ、ご名答!」

そう言いながら暗がりから玲奈が出てくる。

「呼んだというか、近くに巡回に来ていたから引っ張って来たのよ。

 そうでなければ、危なかったでしょ?」

「え?」

「あいつが、よ」

「…」

玲奈は翔平に近づき、まじまじと翔平の顔を見る。


「まったく、久々に見たわよ。

 翔平の戦闘モード。

 10代の時、お兄ちゃんとやんちゃしていた時の顔。

 あんなのをケガさせたら、翔平がたいへんでしょ?

 普通の社会人なんだからね。」

「まあな。」

翔平はもともと腕には自信があり、10代後半では、玲奈の兄とつるんで、喧嘩を売ってくる相手を逆に完膚なきまでに返り討ちにしていた。

玲奈も、高校生の時は人目につき、いろいろな男が寄って来たので、どこか買い物に行く時など、よく翔平を用心棒代わりに連れて歩いていたので、その頃の翔平を良く知っていた。


「ところで、あれは誰?

 知っている人?」

「今日、知ったのだけど、七海のお父さんだそうだ。」

「え?

 七海ちゃんの?」

あまりのことで玲奈は絶句してしまった。

あんなにやさしくいい娘の七海の父が、確かに問題があって七海の母親と離婚し、七海の下から去っていったと聞いていたが、あんなチンピラ風情だったとは、思いもよらなかった。


「い、意外ね…。

 でも、なんで絡まれたの?」

不思議そうに尋ねる玲奈に翔平は横浜駅の連絡通路で会ったことを手短に説明した。

「ふーん、そんなことがあったんだ。

 七海ちゃん、ショックを受けていたんじゃない?」

「そうだな…。

 ところで、玲奈はどうしんたんだ?」

「え?

 ええ、ちょっと翔平に相談したいことがあって、マンションに行く途中だったの。」

「お前、事前に連絡をよこさないで、今晩遅かったらどうしていたんだ?」

「ん?

 そうしたら、翔平の部屋の前で寝て待っているつもり。」

さらりと言ってのける玲奈に、翔平は半分呆れた顔をした。


「まあ、いいや。

 話って、HKLのことか?

 七海のこと?」

「半分当たりで、半分外れ。

 特に、後者は外れよ。」

「まあ、いいや。

 ともかく、寄って行くだろ?」

「ほーい。

 そうそう、お兄ちゃんが、今日は非番だって家にいるから、翔平の家に車で迎えに来いって言ったらさ、そしたら、歩きで来るって。」

「あちゃー。

 酒かぁ。

 家にあったっけな…。」

翔平と玲奈は仲の良い兄妹のように寄り添い、翔平のマンションに向かって行った。


その二人を遠くからじっと見つめている目が合った。

それは、七海だった。

七海は、翔平と別れた後、克己のことが気になって、発車間際の相鉄線を飛び降り、急いで翔平の後を追ったが、翔平の乗った横須賀線は、既に発車したあとで、次の電車まで10分以上、ホームで待ってから次の電車で追いかけてきていた。

七海が翔平に追い付いた時は、すでに公園で翔平と克己が対峙しているところで、一歩踏み出そうとした時、玲奈の警官を呼ぶ声が聞え、その場で、すぐに暗がりに身を隠し、様子を窺っていた。

(やっぱり、父ちゃん、翔平さんを脅そうとしている。

 でも、誰かがお巡りさんを呼んでくれたから大丈夫そう)


七海は自分が出て行くと、また、翔平に迷惑がかかると思い、その場で隠れ、じっと成り行きを見守っていた。

そして、警官が間に入り、克己がすごすごと引き上げていくのを見て、安堵のため息を漏らした時、その目に玲奈の姿が飛び込んで来た。

(え?

 玲奈さん?

 何でこんな時間に?

 しかも、翔平さんのマンションの近くで…。

 玲奈さんの家、根岸線だっていっていたのに。)

七海は、突然現れた玲奈を驚愕の目で見ていた。


七海のいるところからは、翔平たちの声は聞こえず、何やら楽しそうに二人が喋っているのをただ呆然と見つめていた。

そして、翔平と玲奈が翔平のマンションに向かって歩いて行く後姿を見送っていた。

(玲奈さん、なんで翔平さんのマンションに?

 翔平さんも、何だか楽しそう…。

 まさか、翔平さんに“恋をしてはいけない”と言ったのは玲奈さんが恋人だから?

 なら、私は?

 HKLで一緒に居る私は?

 玲奈さんは大丈夫なの?

 それとも、二人で私のことをからかっている?

 …

 ううん、翔平さんはそんなことする人じゃない。

 玲奈さんだって、優しくていい人。

 じゃあ、なぜ?)

七海は、考えれば考えるほど訳が分からなくなり、後ずさりをすると翔平たちと反対方向の坂を下って行った。


七海は、考えこみながらも、ふと克己に会ったら大変だと、横須賀線は使わず、駅の近くのバス停から横浜駅行きのバスに乗った。

バスだと、電車よりかなり遠回りで、時間はかかるが、克己に会うことだけは避けたかった。

バスは、横浜方面行だったせいか、空いていて、七海の他には10名くらいしか乗っておらず、七海は歩道よりの窓側の席に座り、ぼんやりと外を見ていた。

バスが動き出し、駅の改札口のあるところを通り過ぎようとした時、改札口の近くにあるコンビニの店頭で、しゃがみ込んでカップ酒を飲みながら、タバコを吸っている克己が見えた。

克己は、怒っていたのか、眉間に皺を寄せ、苦々しそうな顔をし、通行人を睨みつけていた。

通行人は、そんな克己にかかわらないように、遠巻きにして足早に通り過ぎていく。

「!?」

七海は反射的に窓から自分の顔が見えないように首をすくめて、小さくなってやり過ごした。


七海が家に帰ったのは結局夜の9時を回ったころだった。

「あんた、一体何しとったん?

 あら?

 大丈夫?

 なんか顔色悪いよ?」

七海を出迎えた良子は、七海の顔を見て心配そうに話しかけた。

「うん、ちょっとね…」

七海は何を良子に話そうか迷っていたが、翔平のことは良子にも言っていなかったし、ましてはHKLというバイトのことなんか絶対に言えなかった。


「ともかく、中に入りなさい。」

七海の普通じゃない態度を見て良子は、七海を家の中に入れ、居間に座らせた。

そして、七海の正面に座ると、七海の手を取って、ぎゅっと握りしめる。

「どうしたか、母ちゃんに行ってごらん。」

真剣な顔で七海を心配している良子の顔を見て、七海は小さく息を吐くと、ゆっくりと話し始めた。


「実はね。

 今日、帰りに横浜駅で、お父ちゃんに偶然出会ったの。」

「え?

 あいつに?」

「うん。」

七海は、駅で克己に出会ったこと、お茶を飲もうと腕を掴んで、引っ張って行かされそうになったこと、そして知り合いの人に助けられたことを話した。

翔平のことは、バイト先で知り合った人と説明した。

最初は見知らぬ人に助けられたと説明しようと思ったが、翔平を“見知らぬ人”扱いしたくなかった。


「よかったね。

 引っ張って行かれたら、何をされるか分かったもんやないからね。」

「そうなの。

 やけにお金にこだわっていて、学費はどうしたとか、生活費はどうしているのかって、根掘り葉掘り聞こうとしてたの。」

「やっぱり、尚美さんの言うように、お金に困ってあちらこちらでたかろうとしとるのね。

 どうも、怖いところからお金を借りているみたいなのよ。

 関わったら、たいへんな目に遭うわ。

 あんた、この家のこと言っとれへん?」

良子が心配そうに尋ねる。


「あ、当たり前じゃない。

 でも…」

「でも?」

七海の考え込んでいる様子を見て、良子は不安を隠せなかった。

「うん。

 学生証を落とした時、父ちゃんに拾われて、まじまじ見られていたわ。

 学生証には、家の住所が書いてあったから…。

 もしかしたら…。」

七海も不安げな顔をした。


「まあ、それは大丈夫ね。」

良子は少しほっとした顔をした。

「え?

 なんで?」

今度は七海が不思議そうな顔をして良子を見る。

「あいつ、ここら辺に土地勘無いだろうし、それに、漢字が読めへんから。

 まあ、知っとる人の名前の漢字くらいかしら、読めるのは。」

「でも、それって、10年も前のことじゃ?」

「そんなチンピラみたいなことやっている奴に向学心なんてないわよ。」

良子は一笑にふせる。


「せやけど、しばらくは用心したほうがええわね。

 なるべく、横浜駅には近づかへんこと。

 バイトに行く時は十分に注意して。

 そうや、逆方向に行って、そこから東戸塚行きのバスがあるから、東戸塚から横浜に行ったらええ。」

「そんな。

 お金かかっちゃうよ。

 ともかく、十分に注意するね。」

七海は良子と話していて、父親のことは気を付けるに越したことがないが、あまり気にすることはないとほっとしていた。


「で、七海ぃ。

 その知り合いの男性って?

 バイトで知り合ったの?

 年上?

 カッコええ人?」

良子の興味は父親から、バイトで知り合ったという男性、翔平に移っていた。

「え?

 いやね。

 そんな人やないし。

 カッコようて優しくて…。」

「うんうん、それで?」

良子は身を乗り出すようにして七海の次の言葉を期待して待っている。

「でも、彼女がいるから…。

 残念でした。」

七海の頭の中には翔平と仲良さげに歩く玲奈の後姿が浮かんでいた。


「なにいっとるの。

 彼女がおるくらい、なにさ。

 そんなええ人なら、奪い取っちゃいなさいよ。」

「おかあちゃん、何言っているのよ。」

奪い取れと言う良子のセリフに七海は目を丸くした。

「七海は、最近、特に綺麗になったのは、その人のせいね。

 大丈夫。

 母ちゃんが言うのは手前味噌だけど、七海は可愛いし、誰よりもべっぴんさんよ。

 自信持ちなさいよ。

 そうすれば、絶対に、あんたの方になびくって。」

「かあちゃん…。」

七海は良子に元気づけられ、頭の中の霧が晴れてきたようだった。

(そうだわ。

 私は、おかあちゃんと翔平さんの笑顔を見るために、頑張るんだから。

 玲奈さんだって、翔平さんと昔から兄妹のような関係だったって言ってたし、今日も、何か用事でたまたま会いに来ただけよね。

 余計なこと、考えるのをやめた!)


「お母ちゃんと話をしていたら、お腹空いちゃった。」

「そうそう、ご飯まだやったわね。

 すぐにご飯にしましょう。

 今日は、スーパーでコロッケが安かったから、コロッケよ。」

「もしかして、クリームコロッケなんてあんの?」

「ええ、たまには奮発して、カニクリームコロッケよ。」

「やったぁ。」

七海は、大げさに喜んで、良子に抱きついた。

「七海は、まだまだ子供だね。」

良子は、七海の頭を愛おしそうに撫でていた。


「そう言えば、もう10月ね。

朝晩と冷えてきたし、ぼちぼち、お鍋のいい季節かしらね。」

「お鍋?

 賛成!

 じゃあ、白菜鍋にしよう。」

「ええわね。

 ねえ、10月は旧暦で、なんて言うか知っている?」

「え?

 神無月ちゃう?」

「そうよ。

 今月は、全国の神様が出雲大社に集まるから、神様、お留守だそうや。」

「せやけど、皆、普段通り、神社に行って神様にお願い事したりしとるけど、おらへんのであれば、お願い事は無駄になるのかしらね。」

「せやな。

 守ってくれる神様もおらへんかも知れへんから、七海も十分注意したってな。」

「わかっとるわ。」

七海は良子が克己のことを言っているのだろうと思って聞いていた。

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