第3話 父と娘
週の半ばになると、決まって七海は翔平のマンションを訪れる。
学校が終わってから午後の早い時間なので、当然、翔平は会社に行っていて不在だった。
マンションを訪れる目的は、翔平の部屋の掃除と、食料品のチェック。
しかし、掃除と言っても、週末に七海が綺麗に掃除して、平日、一人暮らしの翔平は、意外にも綺麗好きだったので部屋はいつも整理整頓されていて、掃除するところはなかった。
なので、七海は部屋の換気と布団をなおすことくらいで、あとは足りなくなった食料品の買い出しと、翔平のための夕飯のおかずづくりが主な仕事だった。
それと、あとは学校の勉強や翔平のパソコンを借りての調べ物をすること。
七海の家ではパソコンは高価な品で買うことが出来なかった。
例え、買ったとしても通信手段がないので、結局調べ物はスマートフォンを使って調べることになるが、スマートフォンではやはり画面が小さいのと、すぐに重量オーバーで動きが遅くなるので使い物にならなくなる。
大学3年にもなると、授業の調べ物をインターネットで検索することが多くなり、動きの悪いスマートフォンを見てため息をついている七海に、翔平は自分のノートパソコンを自由に使っていいと言って、七海のためにノートパソコンをリビングに置いていた。
七海は翔平から平日マンションに来てもいいようにとマンションの鍵を預かっていた上に、部屋やパソコンを自由に使っていいと言われていたので、週に1,2日、多い時は週3日と翔平のマンションを訪れ、料理を作ったり、大学の勉強をしたりしていた。
七海にとっては、自分の部屋がもう一つ、しかも、静かで好きなことが出来る空間が出来たので嬉しくて仕方なかったが、翔平に信用されていること、マンションの鍵を渡されていることが何よりも嬉しかった。
ただし、時間的に翔平が帰る前には自分の家に帰っていたので、七海は翔平に会うことは出来なかったが、七海の作った夕飯を食べた後、美味しかったという翔平のメールを読むだけで満足だった。
「さて、今日は豚バラとキャベツの炒めたもの。
厚揚げ豆腐の煮もの。
それと、レタスやトマトのサラダにお新香、デザートはネーブルオレンジ。
我ながら完璧だわ。」
七海はそうお言いながら料理を盛りつけ、ラップで包むとそれらを冷蔵庫に仕舞う。
「あとは、翔平さんに“ご飯あります”メールを送れば完了。
調べ物も全部できたし、今日はパーフェクトね。」
七海はそう言うとお菓子箱の中からクッキーを取り出そうと蓋を開けると、珍しいお菓子が入っていた。
「なんだろう?
なになに、“ちんすこう”?
プレーンとショコラ?
じゃあ、プレーンの方を頂いちゃおう。」
お菓子箱は、翔平が七海のために作った箱で、七海の好きなクッキーやお菓子が入っていた。
たいていは土日の買い物の時に仕入れるのだが、どこから見つけて来るのか、たまに地方の名産品のような美味しい、そして珍しいお菓子が入っていて、七海を喜ばせていた。
「うわぁ、甘くておいしい!
え?
沖縄県のお菓子?
翔平さん、いつ沖縄何て言ったんだろう…」
翔平はよく、駅の構内の特産品売り場で美味しそうなお菓子を見つけると、七海のために買っていた。
「翔平さん、ご馳走さまでした。
わ、たいへん。
早く家に帰らなくっちゃ。」
時間はいつの間にか夜の6時30分を指していた。
七海の家の夕飯は、いつも7時30分を決まっていたので、それまでに帰らないと良子が悲しむので、用事がない時は必ずその時間までに家に帰り、良子と一緒にご飯を食べるのを日課にしていた。
七海は、コーヒーを飲んだ自分のコップを洗い、パソコンの電源を落とし、授業で使う本やノートをリュックに仕舞い、食べたお菓子の包み紙をゴミ箱に入れたりとテキパキと片づけを行い、部屋の電気を消して外に出ようとした。
その時、バシャバシャと水が跳ねる音が聞えた。
「あら?
何かしら…」
七海が部屋の中を見わたすと、いつもはぷかぷかと浮いていて静かな金魚が、水槽の中をせわしなく泳ぎまくっていた。
「どうしたの?」
七海は、怪訝そうな顔で金魚を見たが、それ以上は何もできず、電気を消して、部屋を出て行った。
(どうしたんだろう。
あんなに動きまくっている金魚を見たのは初めて。
まるで、私に何かを伝えようとしていたみたい…。
でも、そんなことないわよね)
七海は自分の発想が突拍子もないことだと思い、苦笑いしながら急な坂道を駅に向かって降りていった。
坂を下りていくとJRの駅があり、七海はいつもその駅から横浜駅に一つ戻り、横浜駅から今度は相鉄線に乗り換える。
相鉄線の駅を降りると、川沿いに自転車を走らせ自分のアパートへ。
時間的には、ドアツードアで30~40分位だった。
その日、七海は乗り換えのため横浜駅で横須賀線を降り、JRの改札を抜け、相鉄線の改札のある方へと歩いていた。
時間は夜の7時。
会社帰りの人で込み合っていた。
その人ゴミの中を縫うように、七海は相鉄線の改札に向かって足早に進んでいた。
(すっかり遅くなっちゃった。
お母ちゃんには電話したからいいけれど、ご飯待っているって言っていたから早く帰らなくっちゃ。
でも帰宅ラッシュで凄い人ゴミ。
あっ、PASMO、チャージしなくちゃ。)
七海が、定期券や学生証、財布などが入っているポシェットに気を取られていると、前から来た男とぶつかり、ポシェットの中身を通路にばらまいてしまった。
「痛ぇえなぁ。
どこに眼をつけとんじゃ、われ。」
「ひっ!」
いきなり大声で怒鳴りつけられた七海は身をすくませた。
「ちっ、学生か。」
男は年のころは50代で短髪に白い毛がちらほらと混じり、体形は小柄で七海よりは少し背が高く、どちらかというとやせ型、派手な柄シャツを着て、浅黒い顔、目だけぎょろぎょろしているどこから見てもまともな仕事をしていないチンピラのような風体をしていた。
男は、ジーパンに水色のジャンパーを羽織った七海の姿を見て、お金を脅し取れないと踏んだのか、舌打ちをしてその場を去ろうとした。
七海は呪縛が取れたように、通路にばらまいてしまったポシェットの中身を急いで拾い始める。
「ん?」
男は、足元に落ちている七海の学生証に気が付き、何気なく拾って、名前と写真を見ると、表情を変えた。
「ななみ…、七海か?」
男はいいところで会ったと言わんばかりに、顔を緩め、先ほどの剣幕とことなり猫なで声をだして七海に話しかけた。
「え?」
七海は一瞬誰なのか、なぜ、自分の名前を言っているのかわからなかった。
「七海。
覚えていないか?
お父ちゃんだよ。
お前の父ちゃんの克己だよ。」
「え?
お父ちゃん…?」
あまりのことで七海は訝しがるように克己の顔を見る。
その顔は、確かに昔の父の面影があった。
「懐かしいなぁ。
元気でやってるのか?
へぇ、大学生か。」
克己はそう言いながら七海の学生証をまじまじと見る。
「か、返して!」
七海は慌てて克己から学生証を奪い取るように取り戻した。
「なんだ、そんなに邪険にすることないじゃないか。
大学って金がかかるんだよな?
随分羽振りがよさそうだな。」
克己は何かを思いついたらしく、ニヤニヤ笑いながら七海に近づく。
七海は数日前に母良子から聞いたことを思い出していた。
(父ちゃん、遊ぶ金に困って危ないところからお金を借りているそうだよ。
妹の尚美さんのところに金の工面にきたんだって。
会うことはないと思うけど、あんたも気をつけなさいよ)
その会うことがないと思っていた人物が目の前に立っている。
七海は本能的に後ずさりをするが、克己は右手を伸ばし、七海の左手首を握って離さなかった。
「なあ、ちょっと時間あるだろ?
そこらで、コーシーでも飲みながら話をしようや。
母ちゃん、どうしているか聞きたいし。
そうだ、母ちゃんは再婚したのか?」
七海は首を横に振る。
「女手一つで、お前を大学になんて入れられないだろうよ。
お金、どうしたのか、父ちゃんに教えてくれないか?」
「大学は、奨学金で行っているの。
だから、うちは貧乏なの。
早く帰らないとお母ちゃんが待っているから、手を放して!」
七海は大声を出して、克己の手を振りほどこうとした。
「そんな連れないこと言うなよ。
折角、十年ぶりに会ったんじゃないか。
な、コーシーでも飲んで行こうぜ。」
克己は、七海の手首をきつく握り、連れて行こうとする。
「手が痛い!
放して!」
七海は痛がりながら、懸命に克己の手を振り解こうとする。
通行人が、その騒ぎに克己に何かを言おうと近づこうとしたが、克己は凄みをきかせた声で近づいてこようとする通行人を制する。
「なんや?
親子の会話ちゅーのに、口挟むんか?
われ、いい覚悟してんな」
克己が脅しをかけると、近づこうとした通行人はすごすごと明後日の方を向いて足早に離れていく。
「いやだって。
放して。」
尚も抵抗する七海に、克己はカチンときたのか、大声で七海を怒鳴りつける。
「せっかく、父ちゃんが誘っているんだ。
大人しくついてこんか、ぼけっ。」
その時、七海の手首をつかんでいる克己の手首を通行人の一人が掴むと、力強く締め上げた。
「あ、てててて…。
て、てめえ、なにすんじゃい!」
克己は余程締め付けられている手首が痛かったのか、大げさに痛がり、七海の手を離す。
「しょ、翔平さん…?」
克己の手首をつかんで締め上げた通行人は翔平だった。
「往来の真ん中で、女の子に乱暴を働くのは、感心しないな。」
翔平は七海に背中を向けたまま、いつもより低い声で克己に話しかける。
「なんや、われ。
かっこつけとんやないかぁ。」
克己は、無茶苦茶な関西弁のようなセリフで、かつ、下から覗き込むように翔平を睨みつける。
普通の人間だったら、それで縮み上がるような効果があったかのしれないが、翔平には、全く効果が無かった。
「例え、娘であれ、嫌がっているんだ。
やめておけ。」
翔平は無表情で克己を見下ろす。
「なんだ、てめえ…。」
尚も、翔平に脅しをかけようとした克己の目に、翔平の無表情で冷たい目線が突き刺さる。
克己は、背筋に冷たい刃物を当てられたような悪寒が走り、声が急に小さくなると、翔平から一度目を離し、そして気力を振り絞るようにして翔平を睨みつける。
「ちっ、てめえ、顔覚えたからな。
おぼえていろよ。
七海、今度またな。」
と捨て台詞を吐くと、翔平と七海に背を向けて、人込みの中に消えて行った。
「翔平さん…?」
克己が見えなくなってから、七海は小声で翔平の名前を呼ぶ。
「ん?
七海、大丈夫か?」
振り向いた翔平の顔はいつもの優しい笑顔だった。
「ごめんなさい。
嫌な思いをさせてしまって。
本当にごめんなさい。」
七海は泣きそうな顔をして翔平に頭を下げる。
「別にいいよ、大丈夫。
それより、今の奴、本当に?」
七海は翔平の問いかけに、更に泣きそうな顔をする。
「はい…。
父です。」
(翔平さんに、あの人を見られた…。
きっと、軽蔑する)
七海は、別れた父だとしても、実の父親、しかしチンピラのようだったので、恥ずかしさから胸が張り裂ける想いだった
「そうか。
でも、父親似じゃなくて、よかったな。」
「え?」
七海は翔平の言っている意味が分からず、聞き直した。
「あ、失礼だったかな。
いや、顔がまるっきり似てなくてさ。」
七海と克己は、親子なのにほとんど顔は似ていなかった。
生れた時から、隔世遺伝で美形だった七海の祖父に面影が似ていると言われていた。
克己は父である七海の祖父と似ておらず、小さいことから親戚中に馬鹿にされ、また、子供嫌いだったが、間違いで生まれて来て、かつ祖父に似ていると言われていた七海を嫌っていた。
「いえ、そんなことは…。
私、おじいちゃん似なんですって。
叔母さんも祖父の面影があって、美人なんですよ。」
「へぇ。
お爺さん似で美人とは、何か微妙な感じがするよな。」
「た、確かに…。」
七海は翔平の意見に何となく頷く。
「さあ、ともかく行こう。」
「え?」
翔平は、そう言うと相鉄線の改札口の方向に歩き始める。
その後を七海はうつむき気味について行く。
そして、そっと翔平の背広の裾を掴んで軽く引っ張る。
「ん?」
「翔平さん。
私のこと…軽蔑しましたか?」
七海は翔平にだけ聞えるような小声で囁く。
「なんで?」
「だって、あんな父親がいて…。」
七海は再び泣きそうになる。
「何言っているんだ。
父親は父親、七海は七海。
全く違う人間だろ?」
「え?」
「なんで、七海を軽蔑するんだ?
七海は七海だろ?」
「ほんとう?
ほんとうに、そう思ってくれるんですか?」
「あほ!」
そう言って翔平は七海の手を軽く握る。
七海は嬉しくなり、その手をしっかり握り返すと、二人は手をつないで改札口に歩いて行く。
「翔平さん。
今日は早いのですね?」
「何言っている。
時間を見た?」
七海は時計を見ると7時を回っていた。
「最近、仕事が落ち着いて、7時から8時の間に横浜駅を通るんだよ。」
七海は、今日は自分が遅くなったことを思い出した。
「七海、途中まで送って行こうか?」
「え?
いえ、一人で大丈夫です。
それに、翔平さん、会社で疲れているのではないですか?」
「そんなことない。
大丈夫だよ。」
七海は翔平の話に、一瞬、心が揺れたが、思い直した。
(早く家に帰って、私の作った夕飯を食べてもらわなくっちゃ。
口に合うかな。
豆板醤や甜面醤で味付けしたのだけど、甘かったかなぁ…。)
「ともかく大丈夫です。
駅に着いたら、後は自転車ですから。
夕飯作ってありますので、翔平さんは真っすぐに帰って、食べてくださいね。」
七海はにっこりと笑って見せた。
翔平も、先ほどの克己の態度であれば、七海の後を追うことはないかと思った。
「わかった。
じゃあ、改札口まで送って行こう。
ならば、いいかな?」
「はい。」
七海は嬉しそうに返事をした。
(翔平さん、いつもと変わりない。
よかったぁ。)
七海の素直な感想だった。
そして、相鉄線の改札口で、七海と翔平は小さく手を振り合って別れ、七海はそのまま、相鉄線の車内に乗り込んでいった。
翔平は、七海が電車に乗るのを見届けると、踵替えして、JRの改札の方に歩いて行った。
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