第2話 不幸の足音

七海を見送り部屋に戻ると翔平のスマートフォンがメールの着信を知らせる。

メールの送り主は玲奈だった。

「なに、今晩は中華街で会おうって?!

 店は、「大珍楼」か。

 一日に2回も中華とはな…」

翔平は小さくため息をついた。


翔平のマンションを出た七海は電車を乗り継ぎ、真っ直ぐに家のある相鉄線の駅を降りて駐輪場に向かっていた。

途中、スーパーの店先で100円ケーキの店が出ているのに目が留まった。

(100円ケーキか。

 どんなのがあるかな?)

ケーキと100円につられ、七海はその店に引き寄せられた。


店は、七海と同じように値段とケーキにつられた女性客で込み合っていて、ケーキの種類や量も少なくなっていた。

それでも、ショートケーキやチョコレートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、ブルーベリーレアチーズケーキなどが残っていた。

(今日は、お金も入ったし、奮発して買っちゃおう)

七海は翔平との別れ際に、翔平から来週も楽しみに待っていると聞いてご機嫌だった。

そして、ショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブランケーキとレアチーズケーキを一つずつ購入し、鼻歌を歌いながら自転車で自分のアパートに帰った。


「ただいまー!」

玄関のドアを開けると、部屋の奥から「おかえり」と母親の良子が出迎えに出てくる。

「駅のスーパーの前で100円ケーキ売ってたから、買って来たよ。

 食べようね。」

七海はケーキの箱を良子に見せる。

「まあ、いいわね。

 いただきましょう。

 ん?」

良子は何かを思い立ったらしく、七海の傍に寄ると、しきりに七海の匂いを嗅いでいた。


「ちょっと、お母ちゃん。

 何しているのよ。」

七海は怪訝そうな顔をして良子に文句を言う。

「いや、なにね。

 下の階の悦ちゃんがね、最近、七海からええ匂いがするって言うのよ。

 それに、女っぽくなって体の線も柔らかくなったって。

 絶対に彼氏ができたって言うのよ。」

良子は、なおも七海の匂いを嗅ぎながら説明をする。


「もう、よしてよ。

 それに、彼氏なんていないわよ。」

「ふーん。

 でも、ほんまにええ匂いがするわ。」

「え?

 どんな匂い?」

七海は、もしかして翔平の匂いがするのではと、気になった。


良子は、納得したように匂いを嗅ぐのをやめ、今度は、まじまじと七海の全身を眺める。

「もう、変なことばっかりして。

 で、どんな匂いがするのよ。」

「せやな。

 強いて言えば、めっさええ匂いがする石鹸の匂いっていうところかしら。

 それに、それだけやのうて、男の人の匂いもするわよ。」

「え?」

七海は、翔平の匂いを言っているのかと、一瞬、どきっとした。


(確かに今日はシャワーを浴びてこなかったし、翔平さんの匂いが…)

そう思っただけで七海は体の芯が熱くなるのを感じた。

「あれ?

 図星やった?」

「おかあちゃん!!」

揶揄う顔をしている良子に七海は怒った振りをする。

「はいはい、ごめんなさいね。

 ともかく、早く家の中に上がりなさい。」

(でも、確かに体の線も女っぽくなったかしら。

 それに、前に比べてすごく明るくなって。

 だれかいい人でもできたのね。)

母親の勘は、するどかった。


「バイト、疲れたでしょ?

 お風呂、沸かしといたから先に入って、それから、ご飯にしましょう。」

「はーい。」

七海は、良子の言われ、部屋に荷物を置くと、風呂に入った。

七海の家の風呂は狭く、正方形に近い湯舟で、足など伸ばしてはいることは出来きなかった。

洗い場も狭く、子供の頃は良子と入ったりしたが、中学生になるころは身体の成長に反比例するように狭くなり、別々で入るようになった。


(いつか、翔平さんの家みたいな大きなお風呂にお母ちゃんを入れてあげたいな。)

そんなことを考えながら、湯舟から出て脱衣所で身体を拭いていると、脱いだ洋服から翔平の家、どちらかというと翔平の家の入浴剤のいい香りが漂ってくるのを感じた。

(あ、これだ。

 お母ちゃんたちが言っている、いい匂いって。

 確かに、マンションにいるとすぐに匂いに慣れ、感じなくなるけど、私の大好きな、本当に良い匂い。)

脱いだ洋服を拾い上げ、七海は暫くそのまま顔を埋めていた。


夕飯は、焼き鳥と蒸かしたジャガイモ、それにトマトとお新香と質素な献立だった。

蒸かしジャガイモと言っても、ジャガイモをアルミホイルにくるんでトースターで温めるものだったが、蒸かしたように熱く中まで火が通っていて、それにマヨネーズと一味唐辛子をたっぷりかけて食べるのが七海流の美味しい食べ方だった。

焼き鳥も近所のスーパーで割引の札が付いたもので、家のガスコンロでさっと炙ったものだった。

それでもいつも七海は良子の出すおかずを喜んで食べていた。


「そう言えば、昨日、尚美さんから電話があったのよ。」

「え?

 尚美さんて、あの尚美さん?」

「そうよ。」

尚美とは、良子の別れた亭主、七海の実の父親の妹だった。

「電話かけて来るなんて、珍しいわね。」

「そうよ。

 もう、何年も話もしていなのにね。」

「で、なんだって?」

七海は、熱々のジャガイモを少しずつ齧りながら良子に尋ねる。


「それがね、つい数日前に、あの人が尋ねてきたんだって。」

「え?

 あの人って、おとう…。」

「そうよ、あんたの父ちゃん。」

七海の父親は、七海を邪魔もの扱いをして、いつも冷たい目で見ていたので、七海には父親にいい思い出がまるでなく、それどころか、いつも良子を泣かしている嫌な人間としか思い出が無かった。

なので、小学生の時、良子と離婚して家を出て行ってから、一度も父親を恋しいとか、会いたいという感情は一切沸いてこなかった。


「それが、どうしたの?」

七海は嫌な予感がした。

「なんでもね、尚美さんにお金の工面をしに来たらしいの。

 尚美さんが話を聞いたら、付き合っていた人と別れて、お金に困っているんですって。

 なんでも、定職についていなくて、日雇いさんをやっているみたい。

 で、稼いだお金を酒とギャンブルにつぎ込んでいるみたいよ。」

「前と同じじゃない?

 全く学習していないのね。

 あの時だって、ギャンブルと女に家のお金を持ち出して大変だったじゃない。」

「まったく、その通りみたい。

 それで、尚美さん、少しだけお金を渡して、ちゃんとした生活しなさいっていったら、“うるせえ、ばばあ”って言って、お金持って出て行ったようよ。」

良子は眉間に皺を寄せ、あからさまに嫌な顔をした。


「尚美さんの家って、確か東京の世田谷っていってたっけ?」

「そう。

 それで、うちらの話が出て、どうしているかって聞かれたから、つい、横浜の方にいるって口を滑らしちゃったんだって。

 だから電話してくれたみたい。」

「ええー!」

七海は驚いて大声をあげる。

「じゃあ、ここにも?」

「ううん。

 尚美さん、ここの住所や細かいことは言わなくて、でも、横浜駅の近くだって言ってしまったそうよ。

 だから、ここまではたどり着かないと思うけど。

 しばらくは用心したほうが良いわね。」

「そうね…。」

会うことは、まずないだろうと思いつつ、もし会ってしまったらどうしようかと、考えると考えるほど気が重くなってくるのを七海は痛切に感じていた。



翔平は、その晩、玲奈と待ち合わせた、中華街の「大珍楼」の個室にいた。

「今日は悪かったわ。

 電話した時、まだ、七海ちゃんがいる時間だったでしょう。」

翔平はビールを、玲奈は、ザラメを入れたコップに紹興酒を並々注ぎ、飲んでいた。

「ちょうど、お昼を食べ終わって、山下公園を散歩していた時だ。

 電話は玲奈からだと言ったら、ほっとした顔をしていたな。」

「まあ、可愛い。」


ウェイターが、エビチリや小籠包、北京ダック等、玲奈が注文した品を次々と運んで来る。

「あ、ウェイターさん、これもお願いね。」

玲奈はニコニコしながら、メニューの2万円以上するフカヒレの姿煮を指さして注文する。

「おいおい、凄くないか?」

翔平は、さすがに一品何万円もする料理に引き気味だった。

「大丈夫。

 今日はお兄ちゃんと翔平のおごりだから。」

「ちょっと待った。

 あいつはいいとしても、俺はそんなに…」


“そんなにお金を持っていない”と言いかけた翔平を玲奈が制した。

「高給取りが何言っているのよ。

 高級マンションに住んで、毎月HKLに15万も払っている人が。」

玲奈は笑いながら、紹興酒のお代りを作っていた。

「まあ、確かにお金は無くなるわね。

 でも、その代わり七海ちゃん、可愛いでしょ?」

「ああ、そうだな。」


「あっ。

 お兄ちゃん来る前に、その話を済ませちゃいましょ。」

玲奈はそう言うと、作った紹興酒を一口飲むと、グラスを横に置いた。

「で、どうなの?

 その後は、問題はない?」

「ああ、特には。」

「でも、ビックリしちゃったわよ。

 8月の終わりに、いきなりHKLの契約を解除したいなんて言ってくるのだもの。」

「…」


翔平は8月末に、一度玲奈に七海とのHKLの契約を解消したいと申し出ていた。

理由は、七海がHKLの領域を超えた想いを、翔平に寄せて来たのが顕著に見えて来たからだった。

しかし、玲奈から、それ以外に問題がないのなら、七海の家の家計の状態を考え、せめて、七海が大学を卒業するまで続けてやって欲しいと翔平を説得し、翔平は、それならば七海にやんわりとHKLだということを言いきかせるようにという条件で続けていた。

当然、そのことは七海には内緒だった。


「で、七海には言ってくれているのかな?」

「それが…。

 ごめん。

 あの笑顔を見ると言い辛くて。

 いい顔になったし、明るく、生き生きとしてさ。

 私、ああいう妹が欲しかったんだ。」

嬉しそうな玲奈の顔を見て、翔平は呆れた顔をした。


「おいおい。

 それでも、HKLのとりまとめか?」

「そうよ。

 良い娘たちが楽しく生き生きと仕事が出来るのが私の仕事よ。

 翔平ちゃんもまんざらじゃないのでしょ?

 まるで、新婚カップルのように七海ちゃんの物が部屋の中、所狭しと置いてあって。」

「玲奈」

「ご、ごめんなさい」

玲奈は、真面目な顔つきの翔平を見て、素直に言い過ぎたことを詫びた。


「また、機会があれば“やんわり”と諭していくから、このままで、ね。」

「…」

「翔平ちゃん。

それに、まだ、自分の正体を言っていないのでしょ?」

「玲奈!」

翔平は怒気を孕んだ声で玲奈の言葉を遮る。

「ごめん」

玲奈は余計なことを言ったと小さくなって謝る。


翔平は玲奈の兄と小学校来の親友で、常につるんでいたため、必然的にその中に玲奈も加わるようになり、翔平は玲奈を実の妹のように可愛がり、玲奈は実の兄と仲がいい上に、自分を可愛がってくれる翔平を兄と同じように慕っていて、「私には二人のお兄ちゃんがいるの」と言いふらすほどだった。

なので、玲奈は何でも遠慮なく翔平と話をするし、翔平に怒られると素直に謝っていた。


「さ、もうすぐ、あいつが来るんだろ?」

“あいつ”とは、玲奈の兄のことだった。

「うん。

 今日は非番と言っていたのに、急に呼び出されて。

 でも、ここに来る前に、終わったからすぐに合流するって連絡あったわ。

 だから、もうすぐ、ここに来るはずよ。」

「わかった。

 特に問題ないから、HKLは今月も続けるということで、この話は終わりでいいかな?」

「うん。

 じゃあ、お兄ちゃんが来るまで、飲んでよ。」

「たく」


翔平の笑顔に玲奈は金縛りから解けたように元気になり、紹興酒を飲み始めた。

「しかし、玲奈も飲むようになったよな。」

「当たり前でしょ。

 化け物のような兄に、いくら飲んでも変らないニヒルな兄に挟まれれば。」

「ニヒルな兄?」

翔平は自分のことかと自分を指さしながら尋ねる。

「そうよ。

 でも、最近は身体から若い女の子の匂いがぷんぷんしてさ。」

玲奈の軽口も戻っていた。


「誰が、若い女の子の匂いをぷんぷんさせているって?」

そう言いながら、翔平たちがいる個室に黒っぽい背広に白のワイシャツ、背広に合わせたのか黒っぽいネクタイをした一人の男が入って来た。

歳は翔平と同じくらいで、浅黒い精悍な顔、身長では翔平よりも小さかったが、体つきは翔平より一回り大きかった。

「よ、おまたせ。」

男は翔平の方に手を上げ、白い歯をこぼした。

「おう」

翔平も手を上げて答える。


男は玲奈の兄だった。

「お兄ちゃん、随分と早かったじゃない。」

「早いといけないのか?

 それにしても、豪華だな。」

男はテーブルの上の料理を見て、笑みを漏らす。

「そんなことないけど…。」

玲奈はあからさまに不満顔をしていた。

「ああ、玲奈はさっきフカヒレの姿煮まで注文したんだよ。

 きっと、お前に食われる前に、食べたかったんだろ。」

「え?

玲奈、そうなのか?」

「だって、お兄ちゃんの食欲は、バカが付くぐらいじゃない。

 全部食べられちゃうわよ」

「おいおい、バカが付くとはなんだ?」

「いいわよ。

 今日はお兄ちゃんたちのおごりね」

玲奈と、その兄とのやり取りを聞きながら、翔平は何かを考えているかのように、黙ってビールを飲んでいた。

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