第3章 神無月
第1話 嫉妬の芽生え
10月の、とある晴れた日曜日。
山下公園を氷川丸から人形の家に向かって二人の男女が歩いて行く。
お互いに腕を絡め、楽しそうに会話する二人。
誰から見ても幸せいっぱいのカップルの様だった。
「だけど、あの店のラーメンとチャーハンは美味かったな。」
男の方が口を開く。
「翔平さん、ごめんなさい。
折角中華街に入ったのに、小さなお店で。」
「七海が謝ることはないよ。
立派な店構えと高価なメニューだけが上手い店と言う訳じゃないのだから。
現に今日行った店、普通の町の中華屋みたいだったけど、上手かったよ。」
(うっ、普通の町の中華屋…。
やっぱり、翔平さん、根に持っているのかしら…)
七海が翔平の言ったことをどうとっていいのか、計りかねていると、コツンの翔平の拳が優しく七海の頭に触れた。
「え?」
「何か、また面倒くさいこと考えていないか?
十分美味しくて満足しているよ。」
翔平の笑顔を見て七海は安心したように「はい」と返事をして頷く。
翔平と七海は、日曜日、昼をたまには中華街で食べようと言う話になって、翔平の車で山下公園に来て、そのまま駐車場に車を預けると、公園を散歩しながら中華街に向かった。
そして中華街の大門をくぐり、少し行ったところに「大珍楼」という大きく立派な店構えで、以下にも高級そうな店に翔平は入ろうとした。
「翔平さん、待って。
そんなにすごい店じゃなくて、普通のお店にしましょう。」
七海の家は、七海がHKLで受け取って来るお金で家賃や光熱費、それに母親の薬代と全てがカバーできる訳ではなく母親の預金を少しずつ削って生活していたが、母親の具合も良くなり、前のように働きに出られるようになると、やっとつつましやかだが普通の生活が送れるようになっていた。
一方、七海は、毎月お金を出している翔平の懐具合も気になって仕方なかった。
いくら高給取りだと言っても、高価なマンションに住み、月々HKLとして七海に15万の大金を渡している翔平を七海は大丈夫なのだろうかと気になって仕方がなかった。
現に、翔平は七海にHKLのお金を渡すと生活費以外はほとんど残らなかった。
しかし、もともとお金がかかる遊びをしないのと、高価な趣味を持ち合わせていなかったので、普通に生活はできていた。
しかも、七海がスーパーで安い食材や安い雑貨を買い漁るので、量は多いが金額はぐっと押さえられ、また、最近では、レンジで温めれば食べられるように、平日用に料理を作り冷凍したり、平日ちょくちょくと翔平がいない時にマンションを訪れ料理を作り置いて行くので翔平は外食や弁当を買うことなく、家で美味しいおかずが食べられるので満足するとともに自然と節約が出来ていた。
「え?
大丈夫だよ。
今日くらい。」
「いいえ、そんな高そうなお店じゃなくても、ああいうお店の方が美味しくお腹いっぱい食べれますって」
七海が指差す方向には「小華楼」と書かれた大衆向けの中華料理店があった。
七海にとっては、そのお店は、高校入学や卒業等、イベントがあるときに母親にいつも連れられて来た特別思い入れのある店だった。
「そっかぁ。
七海がそう言うなら、わかった、そうしよう。」
七海の真剣な目を見て、翔平は特に高級な中華料理にこだわらなかったので七海の言うことに従うことにした。
その店は、コンクリートの床に丸いドーナツ型の3脚の椅子、古ぼけたテーブルと、町の何処にでもある中華料理屋の様だったが、家族連れの客でにぎわっていた。
二人が入ると、たまたま、テーブルが一つ空き、二人は待たされずに席に通された。
翔平は、店の中が珍しかったのかきょろきょろと見回していた。
「翔平さん、何にしますか?
おすすめは、海鮮ラーメンと約豚チャーハンです。
翔平さん?」
七海がメニューをテーブルの上に広げ、キョロキョロしている翔平に話しかける。
店の中は、中華の飾りや写真が壁一面に飾られていてお店の活気を象徴していた。
「あ、ごめん、ごめん。
つい、いろいろなものが飾って合って、面白いなって。」
「翔平さんたら。」
七海が面白そうに微笑む。
「で、お勧めは海鮮ラーメンに焼き豚チャーハンだっけ?」
翔平は七海が開いたメニューを見る。
海鮮ラーメンは1、300円で、ホタテやエビ、それにイカなどと野菜をふんだんに盛り付けている写真があった。
「ここのラーメンは、メニューの通りの量で出てくるんですよ。
それに味もピカ一。
海鮮ラーメンは白湯スープの塩味で、すごく美味しいの。
焼き豚チャーハンは、二人前からで、入っている焼き豚が柔らかくてとても美味しいですよ。」
七海は目を輝かせながら説明する。
「わかった。
じゃあ、その二つと…。
麻婆豆腐食べる?」
翔平が七海に尋ねると、七海は嬉しそうに頷く。
「あと、ニンニクの芽と牛肉の炒めたやつ…。
それに…」
「翔平さん。結構量あるので、一旦それくらいにしてはどうですか?」
七海は苦笑いをしながら、メニューを両手で覆い隠す。
「わかった、そうするよ。」
七海の言うことにはいつも翔平は素直に頷き、自分の話をきちんと聞いてくれる翔平を七海は大好きだった。
注文し、出てきた料理は確かにメニューと寸分の狂いもないほどの量で、かつ、熱々の湯気が立ち昇り、二人の食欲を掻き立てる。
また、調味料もコショウやラー油の他に、山椒や豆板醤、七味唐辛子と種類豊富に置かれていた。
二人は思い思いに調味料を足し、どれが美味いのと楽しそうに話しながら料理を平らげていった。
二人の歩く左手には、水上バスの乗り口があった。
水上バスは、横浜駅東口から横浜港に面した観光スポットを海上から観ながら、山下公園まで運航している海上交通線だった。
「翔平さん、水上バス、乗ったことありますか?」
七海は着いたばかりの水上バスから降りて来た乗客を見ながら翔平に話しかける。
「いや。
あることは知っていたけど、ほら、いつも車で移動だから乗ったことないよ。」
「えー、勿体ない。
海の上から“みなとみらい”や“赤レンガ倉庫”とか、横浜の観光スポットがよく見えますよ。」
「七海は、何回乗ったの?」
「1~2回です…。」
偉そうに言う割に、回数を乗っていなかったので、七海の語尾は自然と小さくなる。
「でも、面白そうだね。
今度、横浜駅の乗り口の駐車場に車を停めて、水上バスに乗ってみようか?」
「はい!」
七海は翔平と水上バスに乗る約束をして大満足だった。
その時、横で翔平のスマートフォンから電話を知らせる着信音が鳴り出す。
「誰だろう。」
翔平はスマートフォンに映し出された電話の相手を見て、徐に通話ボタンを押し、話し始める。
「もしもし?」
(…)
「ああ、そうだけど。
どうしたの?」
(……)
七海はその横で、翔平が誰と話しているのか気になっていた。
(話しっぷりだと、会社関係ではなさそうね。
親しい人?
女性かしら?)
「え?
今晩?
いいけど。」
(……)
「あいつも来る?」
(……)
「わかった。
じゃあ、場所と時間が決まったら、LINEしてくれ。」
(……)
翔平は通話を止めスマートフォンをポケットに入れると、七海の視線に気が付いた。
「翔平さん、今の方は?」
(あ、私、何を聞いているんだろう。
何か嫉妬しているように思われるかしら。
重たい女と思われたらいやだな…)
思わず翔平に相手のことを尋ねたことに、七海は恥ずかしくなっていた。
「え?
ああ、電話の相手か。
ほら、玲奈だよ。」
「え?
玲奈さん?」
「ああ。
今晩、HKLの状況とか、会って聞きたいんだって。
ほら、例の定期的な聞き取りだよ。」
玲奈は月に一度、必ずHKLのペアの両方と別々の面談し、状況を確認し、どちらかが望めばHKLのペアの解消を通告したりしていた。
「あの定期面談ですか…。」
七海は、翔平が自分をどう思っているのか、不安になっていた。
不安げな顔をしている七海を見て、翔平は笑い飛ばす。
「当然、継続だよ。
七海が嫌じゃなければ、だけど…。
どう?」
「私が嫌だなんて、とんでもない。
是非…。」
七海はムキになって答え“是非”と言ったところで顔が熱くなり、言葉に詰まった。
「それは、よかった。」
翔平は人懐っこい笑顔で、七海の腰に手を回し、自分の方に抱き寄せると、そのまま、歩き始める。
七海は恥ずかしそうに両手を顔の前で合わせ、でも、嬉しそうに翔平と並んで歩き始めた。
二人は山下公園で散歩を楽しみマンションに戻ったのは4時頃だった。
二人はベッドに腰掛けていた。
「翔平さん。
今日は、夕飯、本当に要らないの?」
七海が心配そうな顔で尋ねる。
「ああ。
今夜は玲奈と、その兄貴と3人で夕飯。
と言っても、お酒がメインだけどね。
でも、大丈夫。
しっかり食べるから。」
「そうですか…。」
七海は翔平に夕飯を作ってあげられず、少し寂しそうな顔をした。
「どうしたの?」
翔平は気になって尋ねる。
「え?
いいえ、何でもないです。
そう言えば、翔平さんは、玲奈さんのお兄さんと親友なんですって?」
「玲奈から聞いたのか。
そうだな、物心ついた時、それは嘘だな。
小学校の入学式で滅茶滅茶喧嘩して、それから仲良くなったんだ。
気が付いたら、小、中、高と一緒で、どこ行くのもつるんでいたな。」
「ええー!
小学校の入学式で喧嘩したんですか?
なんで?」
七海は、驚いた顔をした。
「理由?
そうだな、今でいう、“眼を飛ばした”ってやつかな。
取っ組み合いの本格的な喧嘩でさ。
うちの親やむこうの親はどうしたと思う?」
「それは、当然、止めたのではないですか?」
「いや、その逆。
“負けるんじゃない、やっつけろ”だってさ。」
「と、止めなかったのですか?」
七海は、呆気にとられた顔をする。
「そうだよ。
結局、先生が数人で止めに来て、その後、両方の親を含めて先生から説教された。」
「ご両親揃ってですか…。」
「ああ、そのおかげで、それからは家同士、仲良しさ。」
「すごい……。」
七海は何て言っていいのかわからなかった。
「それより七海。
夕飯作らなくて良くなったから、時間があるんじゃないか?」
翔平は、七海の方に身体を乗り出すと、そっと首筋に顔を埋める。
七海は恥ずかしそうに身体をもじもじとくねらせる。
「ええ……。
でも、ちょっと…。
その…、おトイレに行ってきます。」
「おっと、失礼。」
翔平が、そう言って七海から離れると、七海はそそくさとベッドから立ち上がってトイレに入って行った。
七海は戻ってくると、また翔平の隣にちょこんと腰掛ける。
翔平は、今度は大胆に七海の腰に手を回し、自分の方に抱き寄せる。
「しょ、翔平さん…。
今日は外に行って、埃っぽいし、汗をかいていますよ…。」
「だから何?」
「も、もう…」
翔平はやさしく七海を抱きしめ、その唇を自分の唇でふさぐ。
七海も翔平の背中に手を回し、翔平を求める。
二人の幸せな時間を、水槽の中の金魚二匹、水槽の真ん中あたりに浮かんだまま、じっと見ていた。
「七海、七海。
もう起きないと。
5時半だよ。」
翔平の声に七海は目を醒ます。
「もう、そんな時間ですか?」
「ああ、早くシャワーを浴びておいで。」
七海は、そっと自分の二の腕の匂いを嗅いでみる。
身体からはほのかな石鹸の香りがし、さっぱりした気分だった。
「翔平さん…。
また、私を綺麗にしてくれたんでしょ?
私、今日はこのままでいいです。」
七海はベッドの上で上半身を起き上がらせ、身体に掛っていた毛布を口元まで引き上げると、翔平の方を向いて微笑む。
翔平は、いつも七海とセックスをしたあと、失神する様に眠り込む七海の身体を石鹸を溶いたお湯を浸けたタオルで七海の身体をくまなく拭いていた。
一度、七海が“なぜ、拭いてくれるのか”と尋ねたことがあった。
その答えは、七海の身体中、翔平の体液が付いて、七海が目を醒ますと気持ち悪いだろうと思ってということだった。
七海としては、相手が翔平なら、特に気にしていなかったが、自分が眠り込んだ後、また、夢うつつで拭いてもらっている時の感触が気持ちいいので、つい、翔平に甘えていた。
それに、自分にそこまでしてくれる翔平が好きでたまらなかった。
「まったく、もう。
それなら、今度は寝ている七海を風呂に連れて行って、ゴシゴシ洗ってやろうか。」
「でも、それでも寝ているかも。」
「そうだな。
きっとそうだろう。」
「えー、私そんなに鈍くないですよー。」
七海は、ふくれた顔を見せると、翔平は七海の傍に来て、七海の額にキスをする。
「さあ、支度しなさい。」
やさしく囁く翔平に、七海は嬉しそうに「はーい。」と答えるとタオルケットを身体に巻くようにして、洋服を持ってバスルームに入って行った。
「はい、じゃあ、これ。
今月分ね。」
七海が着替え終わって、帰る支度をしていると、翔平が茶色の封筒を七海の方に差し出す。
「あ…。」
七海は、もの悲しそうな何とも言えない顔で、その封筒を受け取る。
封筒の中は、HKLの今月分のお金が入っていた。
七海は、最初はそのお金が目当てだったが、今では翔平が目当てに変わってきていた。
(そうだ。
私はHKLだった。
翔平さんの本当の恋人じゃないんだ。)
契約金を受取るときが、七海にとって現実に戻される時で、0時を回ったシンデレラの気分になり、心の中が寂しさでいっぱいになるときだった。
「間違いがないか、確認しなさい。」
翔平の言葉が七海の心にとどめを刺す。
「はい…。」
七海は嫌々をするようなそぶりを見せるが、翔平の目を見て、観念したように封筒の中の一万円札を数える。
「ちゃんとあります。」
数え終わると、七海はそそくさと一万円札の束を封筒に戻し、封筒をリュックの中に仕舞う。
「じゃあ、翔平さん。
今日は、これで…。」
玄関で靴を履き終わると、七海は翔平の方を向いて、作り笑いを浮かべる。
「ああ、気を付けてね。」
「はい、じゃあ。」
そう言って七海が翔平に背を向けた時、後ろから翔平が声をかける。
「また、来週な。
楽しみに待っているから。」
その一言に七海は気分が明るくなった気になり、翔平の方を振り向くと、今度は作り笑いではなく、本物の笑顔を見せ、そして背筋を伸ばして、玄関の外に出て行った。
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