第2話 まぁ、いいか

土曜日、朝からお日様が容赦なく照り付け、午前10時だというのに、気温は30度を超えていた。

さすがに七海も心臓破りの坂を上り切る頃には、汗だくになっていた。

(やだわ、汗臭くないかしら。)

気にしつつも、七海は翔平のマンションに向かっていたが、いつものような軽い足取りではなく、その日は少し微妙な気持だった。


(セーラー服か。

 見るだけ?

 すまないわよね…)

七海は翔平と肌を交えるのは、全く抵抗はなくなっていたが、また、セーラー服が丸めて脱ぎ捨てられている状況を想像し、複雑な気持ちになっていた。

そんなもやもやを胸に秘め、いつしか翔平の部屋の前にたどり着いていた。


七海は、ドアフォンを鳴らすと、すぐに「はい。」と翔平の声がして、ドアが開いた。

七海には、心なしかいつもより翔平が元気な気がして仕方なかった。

(やっぱり、翔平さん、期待している…)

しかし、ドアが開き、部屋からエアコンの涼しい風が七海の身体を包むと、少し落ち着いて来た。

「外は暑かっただろ?

 今日は、最高気温35度の予報だし、もう、そとは30度越えているんだって。」

翔平は手招きして、七海を玄関の内側に招き入れると、玄関のドアを閉めた。

「ともかく、中に入って。

 少し涼まないと、熱中症になるぞ。」

「はーい。」

いつものように自分のことを心配してくれる翔平に七海は心が和むのを感じた。

(セーラー服は、まあ、その時はその時だわ。

 今は、お仕事、お仕事)


七海がリビングに入ると、いつものようにノギザカの曲が流れ、部屋は十分に冷えていた。

その涼しさは暑がりの七海には、生き返るようだった。

「七海、ともかく座って。

 冷たいお茶がいいか?

 それとも、コーヒー?

 ジュース?」

「あ、翔平さん、気にしないで。

 私が自分でやります。

 その前に、汗をかいたので洗面所、お借りしますね。」

「ああ、いいよ。

 僕ので良ければTシャツに着替えたら?」

七海は翔平の言葉に、少し考えた。


今日の服装は水色のチェック柄で襟付きのブラウスにGパンだったが、これから掃除とか家事で汗をかくことを想像して、涼しいTシャツを翔平に借りることを選んだ。

「翔平さん、いいんですか?

 Tシャツをお借りし…。」

七海が翔平に向かって話しかけると、目の前がいきなり暗くなった。

「きゃっ。」

暗くなった原因は翔平のTシャツで、七海が悩んでいた時にすでにTシャツを出して来ていて、七海の答えと同時に七海の頭にかかるように優しく投げていた。


Tシャツは洗濯石鹸の匂いの他に、ほのかに翔平の匂いがした。

「それ、洗ってあるから大丈夫だよ。」

七海は、頭にかぶさった翔平のTシャツを取ると、広げてみた。

Tシャツは男女どちらでもいいような、白地に胸のところに、青い碇のマークが刺繍されていた。

しかし、驚いたのはその大きさだった。

男物の上に、上背がある翔平の服なので、七海がいつも着ているTシャツの2倍近くあるように感じた。


(着れるかしら)

そう思いながらも、Tシャツを小脇に抱え、「借りますね」と翔平に挨拶をすると七海はバスルームにある洗面所に入って行った。

暫くしてバスルームのドアから出て来た七海は、Tシャツの丈が七海の膝近くまであり、肩は少し落ち、襟もゆるそうだった。

「やっぱり、大きいか。」

「そのようで…。」

「七海用にTシャツを買って来ますか。」

そう言って腰を上げようとする翔平を七海は手を振って制した。


「翔平さん、大丈夫です。

 Tシャツ、大きいけれど、ゆったりしていて風通しが良く、涼しいから、これで十分です。

 それより、私の汗が…。」

自分の汗がTシャツにしみこんで、翔平が嫌じゃないかを七海は心配していた。

「大丈夫。

 そんなこと気にしていたら、Tシャツ渡していないだろ?」

 それに、七海は良い匂いだし。」

「翔平さん!!」

そう言って七海は顔を赤らめ、恥ずかしがった。


それから翔平に進められ冷蔵庫から冷たい緑茶の瓶を出し、翔平の分と自分の分でコップを二つ。

そこに冷たい緑茶を注ぎ、翔平に渡すと、七海も自分の手元のコップに入っている緑茶を喉が渇いていたせいか、美味しそうにごくごくと飲み干した。

「ふぅ、ご馳走さまでした。

 おかげさまで生き返りました。」

元気になった七海の顔を見て翔平は思わず微笑んだ。


「さてと、まずは掃除機ですね。」

「えー、暑いから、パスでいいよ。」

掃除機をかける時、エアコンを止めて窓を全開にするので、一気に熱い空気が入って来るのを翔平は嫌がった。

「何を言っているんですか。

 いくら綺麗に片付いている部屋でも、週に一度くらいはお掃除しないと、虫が湧きますよ。

 まあ、暑いから、手短にやりますね。」

「はい、はい。」

腕まくりをする七海を止める手立ては、翔平には持ち合わせていなかった。


「あ、翔平さん。

 洗濯物は…」

洗濯物はどこと言いかけて、すでにベランダに干されている洗濯物を見て、七海は翔平を睨みつける。

「またぁ。

 私の仕事ですっていつも言っているのに。」

「だって、うら若き乙女に、おじさんのパンツを洗わせるわけにはいかないでしょ。」

翔平は笑いながら弁解をする。

「そんなことありません。

それに翔平さんは、おじさんではありません!!」

きっぱりと言い切る七海に、翔平は「あっ、そう」と息を呑んだ。


それから、七海はエアコンを消し、窓を全開に開ける。

いきなり熱風が部屋の涼しさを奪い取って行く中、七海は手慣れた手つきで、はたきをかけ、掃除機で掃除を始める。

着ているTシャツの胸元が広いせいか、七海が掃除機で前のめりになると、Tシャツの隙間から胸の下着がよく見えた。

(まあ、役得ということで。

 でも、俺って結構変態かなぁ)

翔平は、そう思いながらちらちらと七海の方を見ていた。

「掃除終り!」

しばらくすると、掃除機の音が鳴りやみ、七海の声が聞えて来た。


「じゃあ、早速、エアコンを付けよう。」

待っていましたと言わんばかりに翔平がエアコンのリモコンを手に取ると、それを見た七海が制する。

「翔平さん、まだ、掃除機の埃が待っているわ。

 もう少し喚起してから…。」

そういう七海の顔を窓の外から飛び込んできた熱風が襲う。

「エアコン…、点けましょう…。」

七海が降参したように言うと、翔平は笑いながらエアコンのスィッチを入れ、窓を閉める。

エアコンからは直ぐに冷たい空気が流れ出て、二人をほっとさせる。


「七海、汗だくじゃないか?

 よかったらシャワーを浴びてさっぱりしたら?」

「え?

 ええ…、どうしようかな…。」

七海は確かに汗をかいて、本当ならシャワーを浴びさせてもらいたかったが、着替えのことを考えていた。

(下着の替えは持って来ているし、1セットならここにも置いてあるけど、問題は上に着る服ね。

朝着て来た服は、汗で湿っているし、ここに置いてあるのはワンピースと、夜用のスェットとパジャマくらいだし。

 ワンピースを着ても、お昼ご飯を作ったりして汚すと嫌だし、どうしよう…。)

七海は頭を悩ましていた。

見かねて翔平が声をかける。


「着替えか?」

七海は、黙って頷く。

「また、俺ので良ければ、ブラウスかTシャツを取りあえず着たらどうかな?」

「え?

 ええん?

 あ、いいんですか?」

七海は大きくてゆったりとして、翔平の匂いがするブラウスが着れると思うと、思わず顔をほころばせた。

「Tシャツの次は、ブラウスでどうかな?」

そう言いながら翔平はタンスから白と黒の格子模様の長袖のブラウスを取り出した。


「長袖だけど、折ればいいよな。」

「はい。

 でも、本当に…。」

「ええで!」

七海に最後まで言わせずに翔平はわざと関西弁で返事をすると、七海は嬉しそうな顔をして「おおきに」と返事をした。


「ついでに、着て来た服とか洗濯機で洗濯したら?

 外は暑いし、風もあるから十分乾くよ。」

「はい、そうします!」

七海は、自分の下着が入っているバッグと翔平から渡された男物のブラウスを持ってバスルームに入り、着ていた下着や洋服を洗濯ネットに入れると、洗濯機に入れ、スイッチを押した。

そして、自分は裸になって浴室に入りシャワーを浴び始める。


七海は汗が流せるのと、汗で濡れた洋服を洗えるので、思わずご機嫌で鼻歌を歌っていた。

髪から足の先まで洗って、さっぱりした七海は、翔平のブラウスに袖を通す。

丈は、先ほどのTシャツよりは短かったがそれでも膝上くらいまであり、袖は両手がそのまま隠れるくらいに長かった。

(さすがに男の人の服ね。

 “だぼだぼ”だぁ)

七海は洗面所の鏡で、翔平の服を着た自分の姿を見て笑い出した。

それから、袖を肘くらいまで折り畳み、髪を乾かすとバスルームから出た。


リビングは、エアコンで涼しく快適で、BGMに女性グループの歌が流れていたが、翔平の姿は見えず、静かだった。

「翔平さん…?」

七海がリビングを見わたすと、リビングの壁際に置いてあるソファアに座って、翔平は

顔を斜めにして目を閉じ、寝息を立てていた。

七海は翔平の前に回り込むと、両脚を抱え込んでしゃがみ込み、翔平と同じよう方向に小首をかしげ翔平の寝顔を覗き込んだ。

(お仕事疲れかな。

 仕事忙しいって言っていたもんね。

 せめて土日は、美味しいものを食べて、ゆっくりしてもらわないと。)

七海は優しい瞳で翔平の顔を眺めていた。


静かな時が流れ、七海は飽きもせずに翔平の顔を眺めていた。

その静寂を破ったのは、洗濯機の終了ブザーだった。

いきなり、“ビービー”とブザーが鳴り、声高らかに洗濯が終わったことを告げられ、七海と翔平は飛び起きた。

(しまった。

 バスルームのドアを開けっぱなしにしていた。

 翔平さん、起きちゃうかな)

後悔先に立たずで、目の前で翔平は大きく伸びをする。


「あれ?

 転寝しちゃったか。

 七海は、シャワー浴びたかな?」

眠そうな目をこすりながら翔平は七海の姿を眺めると、Tシャツの時と同じように七海には大きくぶかぶかで袖を折っていたが、その恰好が妙に可愛く映った。

「翔平さん。

 ごめんなさい。

 バスルームのドアを閉めておけば、洗濯機のブザーで起きなかったのに…」

「何言っているんだよ。

 ちょっと気持ちよくなっていただけだよ。

 それより、もう、お昼近いだろ。

 昼ご飯、どうする?」


翔平は暗に外食を誘っていたが、普段外食が多い翔平に、七海は手作りの食事を作って食べさせたかった。

「大丈夫。

 私作ります。

 その前に。」

七海はそう言うとバスルームに戻り、洗濯機から洗濯物を取り出すと、洗濯籠に入れて持ってきた。

「翔平さん、輪っか、半分借りますね。」

七海は、そう言ってベランダに出て、翔平の下着が干してある洗濯リングの空いているところに自分の下着を吊るし、ブラウスやTシャツは洗濯用のハンガーにかけ物干しに吊るし、部屋の中に戻って来る。


「これで良し、と。

 外は、物凄く暑いですよ。

 これなら、一気に乾いちゃいますね。」

「そんな、暑いんだ。

 でも、東京の暑さに比べれば、ここはまだ気持ちがいいよ。」

「え?

 翔平さん、東京で暮らしたことあるんですか?」

七海は初耳だった。

「ああ、東京の23区の生れで、社会人になるまで、そこで育ったんだよ。」

「へぇ、じゃあ、東京もんだぁ。」

七海は可笑しそうに言ったが、ふと母親のセリフを思い出していた。


「東京の男に、魂を売ったらいけへん。」

七海の母親は、生まれも育ちも関西だったが、七海たちを捨てた父親は東京出身だったので、口癖の様だった。

「でも、母さん。

 今住んでいるの東京だよ。」

「馬鹿おっしゃい、ここは横浜よ。

 東京とは似ても似つかへんよ。」

「そうかしら」

七海にとっては、横浜も東京も同じ関東で変わらないと思っていた。


引っ越してきたころは、関西弁を笑われて嫌な思いをしたことはあったが、いまでは、どうでもいいことだった。

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