第4話 帰り道は遠回り

週半ばになると、七海は学校帰りに翔平のマンションに立ち寄ることが多かった。

七海の大学は、相鉄線沿いで、横浜方面とは逆で大きな動物園の近くにあり、自宅からは翔平のマンションとは正反対の方向にあった。


七海は一人暮らしの翔平のために、週半ばに様子を見に行けるように、授業は午前を中心として組み立て、午後になるべく時間を空けるようにしていた。


翔平とのHKLの契約は、土日のみだったのだが、週末に買い込んだ食料が1週間もつか、独り暮らしに不自由していないか、七海は翔平が気になって仕方なく、押しつけがましいと思われるのを覚悟で翔平に申し出た。


翔平としては、やはり契約外のことなので最初は渋ったが、七海の「ただ冷蔵庫の中をチェックするだけ」という熱意に負けて了承し、そのついでに翔平は、自分がいない時は、七海の好きに部屋を使っていいと伝えたていた。


翔平のマンションはオートロックに電子錠、それに管理人が常駐していて、セキュリティはきちんとしていたが、七海は、翔平からマンションのスペアキーを預かっていたので、マンション、そして翔平の部屋にも自由に入ることが許されていた。


平日の午後、翔平は会社で夜まで仕事をしているので七海と会うことはなかったが、七海は翔平の部屋の窓を開け、部屋の換気と片付け、それが済むと冷蔵庫の中を確認し、足りなさそうな食材の買い出しに出かける。


その日、入道雲のような白い雲と、その間から青空が覗く、晴天とは言えないが晴れた良い天気で、七海がいつものように翔平の部屋の玄関を開けて部屋の中に入ると、部屋の中は、やはりこざっぱりと片付いていて、窓は厚手のカーテンが開きレースのカーテン越しに差し込む陽の光で部屋の隅々まで明るかった。


七海はリビングの椅子の上に背中に背負っていたリュックを置くと、窓を開け、室内の空気の換気をしたが、翔平の部屋は、ほのかだがオーデコロンのような良い香りがしていて、七海は換気するのが少し勿体ないと感じる。


一度、七海は翔平に何のオーデコロンを使っているか尋ねたことがあったが,翔平は笑って「オーデコロンなんか持っていない。石鹸の香りじゃないか。」と言われたことを思い出した。

(石鹸だけじゃないわよね。

じゃあ、この匂いって翔平さんの香り?

 男の人でも、いい香りのする人いるんだ)


七海の知っている男の匂いは、整髪料の臭いがきつかったり、煙草臭かったり、きつい匂いの香水というイメージがあったので、全く違う翔平のような七海が傍に居たくなるような香りがする男性は初めてだった。


「タバコは吸わないんですか?」

七海は、部屋に灰皿がないことに気が付き、尋ねたことがあった。


「え?

 タバコ?

 吸っているよ、日に1~2本。」

「ええー!?

 それなら吸わない方がええのに。」

七海はなぜ吸うのか不思議だった。


「うーん。

 まだ、先輩や上司の人がタバコを吸う人が多くて。

 会社では、分煙で喫煙所が違うフロアーに設けられているんだ。」

「知っています。

 知り合いの大学では、校庭の一角に温室のような小屋が立っていて、煙草を吸う人は皆その中に。

 まるで人間の燻製のよう。」


七海の大学は女子大だったが、喫煙する女子や教授や学校関係者多く、校庭の片隅にガラス張りの温室のような小屋があり、喫煙は皆そこでしていたので、多いとタバコの煙でガラス戸が白く濁るほどだった。

タバコを吸う習慣がない七海は、その喫煙所を遠巻きに眺め、通り過ぎるだけだった。


「燻製か。

 確かにタバコの煙で燻るから当たっているか。

 それで、会社の喫煙室で、上司や先輩が仕事の話をして、いつの間にかいろいろなことがその中で決まったりするんだよ。

 だから、勝手に決められないように一緒に入って行くんだよ。」

「じゃあ、吸わなくてもついて行くだけでもいいんじゃないですか?」

七海は疑問を爆発させる。


「タバコって吸っていないと最初の一本だけで目眩がしてさ。

 くらくらしたら話に入って行けないだろ?

 だから、体を慣らすのに、朝、会社に行く途中で1本吸うんだよ。」

「なんか大変ですね…。」

七海はそこまでしなければいけない翔平が可哀想に思えた。


ふと、そんな会話を思い出しながら、七海は窓際で大きく背伸びをした。

(そう言えば、玄関横の部屋の窓を開ければ、もっと風が通っていいのに…。)

翔平の部屋は、玄関を入るとすぐ右手に部屋のドアがあった。


そのドアの先に部屋があるが、翔平が仕事で使っているからと、七海の立ち入りを厳禁にした部屋があった。

最初は訝しんだ七海だが、その内、どうでも良くなり、言いつけを守っているうちに部屋の存在も忘れるほどだった。


七海はリビングの横の洋室にあるセミダブルのベッドの掛け布団を、一度持ち上げ、そっとふんわりと敷き直した。


ベッドは、翔平が一応直しているのだが、翔平のために布団をふかふかにしておきたかった。

(今度、天気が良かったら布団を干してあげないと。

 今まで、いつもどうしていたんだろう?)

ポンポンと掛布団を軽く叩きながら七海は思った。


それからキッチンに入ったが、朝食で使った食器は綺麗に洗われ、水切り籠に並んでいた。

七海は、水切り籠に入っている食器をひとつひとつ丁寧に布きんで拭くと食器棚に仕舞った。


(さて、冷蔵庫の中はどうなっているかな?)

食器を拭き終わると、冷蔵庫を開けて覗き込む。

冷蔵庫は大きく、翔平一人なら1週間分の食料を収納するにはお釣りがくるほどの大きさだった。


(なんだろう?

 炭酸水の瓶が沢山…、まあ、いいか。

それよりも食パンに牛乳、それに卵が少ないかな。

 あとフルーツも…。)

フルーツは、七海も大好きで、この前、買い込んだのをつい食べ過ぎてしまったことを思い出し、ばつが悪そうに言葉を濁した。


冷蔵庫の扉を閉めると室内を見渡してみた。

(翔平さんたら、本当に綺麗好きなのね。

 一人暮らしの男性の部屋っていったら、洗濯物や食べかす、雑誌が散乱しているイメージなんやけど。

 あ、そうそう、浴室は?)

七海は、開かずの間のはす向かいにあるドアを開けた。


そこはバスルームで入り口は行って直ぐに4畳半ほどの広さの洗面所兼脱衣所が出迎える。

広く大きな鏡のついた化粧台と洗濯機が置いてあり、そこで着替えたりするのも十分すぎる広さがあった。


また、奥の扉を開けると浴室で、洗面所と同じくらいの広さで明るさを調節できる調光機能付きの照明器具と大きな湯舟は、大人がゆっくりと足を伸ばせるほどの広さとジャグジー機能が付いていた。


七海がバスルームの中に入ると、中は既に乾いていてシャンプーやリンスもきちんと並んで置かれていた。

シャンプーとリンスは、翔平用に1セット、それと七海用に1セット、当初、七海は旅行用の小さなセットを持ってこようとしたが、翔平の勧めもあって、使ってみたかったシャンプーリンスのセットを翔平に買ってもらい使っていた。


そして七海は翔平のシャンプーとリンスを持ち上げ、中身の量を確認する。

毎週土曜日の掃除の際に、必ず確認し、少なければ買い足しているのだが、確認するのが癖になったようだった。


干されているボディタオルの皺を伸ばすと、七海はバスルームから出てリビングに戻った。


(本当に、ここからの眺めは大好き。)

レースのカーテンを通してだが、部屋からは正面にみなとみらいが一望でき、ランドマークタワーやよこはまコスモワールドの大観覧車、ベイブリッジなどがよく見え、それらは夜になるとライトアップされ、昼間とは全く違った風景を見せていた。

七海は、昼間の眺め夜の眺めも、どちらも好きだった。


「?!」

ふと七海は視線を感じ、振り向いた。

視線の主は金魚で、窓とは反対の壁際にあるサイドボードの上の水槽の中の住人だった。

種類は琉金で、愛嬌のあるふっくらした体とひらひらとした長い尻尾が特徴で、紅白の模様だった。


最初は翔平がビオトープのつもりで買った水槽に、七海が寂しいからと目についた熱帯魚の店で琉金を2匹買って水槽に放したのが始まりだった。


その2匹の琉金が、まるで立ち泳ぎをしているようにヒレを動かし、その場にとどまり、尾びれをクジャクのように広げ、まるで何か話しかけるようにじっと七海を見ていた。

「あはは、堪忍、堪忍。

あなたたちのこと忘れとったたわけやないのよ。

お詫びにおやつをあげよう。」


七海は金魚に微笑みながら話しかけ、水槽の横の餌の蓋を開けると、少しだけ水槽の中に入れた。

餌は浮遊性がある餌で粒状だが、水面に浮き、金魚たちはそれを見ると、まるでエレベーターに乗っているようにそのまま上に浮かび、餌をつまんでいた。


「今度の土曜日に水を変えてあげようね。」

七海がそう話しかけると、それに答えるかのように金魚は“ぱしゃ”と胸鰭で水音を立てた。

それから、七海は戸締りをしてリビングのテーブルの上に置いてある白い封筒を持つと、部屋から出て行った。


七海の向かった先はマンションのある小高い山を下ったところにある商店街だった。

そこは、大型スーパーから離れた昔ながらの食料品や雑貨、衣料品、床屋や美容院といった店の数も多い大きな商店街で、近くにある大型スーパーといっても車で行かなくてはならない距離だったので、商店街は地元の住民でかなりの盛況だった。

七海は商店街の中を“キョロキョロ”と物色しながら歩き、パン屋で食パン、スーパーで牛乳や玉子といった冷蔵庫の中で少なくなった食品を買い足していた。


会計はテーブルの上から持ってきた封筒に入っている一万円札を使い、お釣りとレシートを封筒に戻す。

そのお金は、翔平が平日に七海が買い物をするときのためのお金だった。


翔平は、自分のために七海が買うものについては、すべて負担すると言い、この日のように七海が一人で買い物をする時も、ここから出すようにと1万円札の入った封筒が置いてあり、七海はそこから支払いをし、しかも、買い物した際は、ご褒美に千円までおやつに使っていいと言われていた。


「小学生じゃないんだから。」

七海はそう言って断ったが、翔平から「美味しそうなものがあったら、僕の分も買っておいてくれ」と言われ、ならばと首を縦に振ってしまった。


(あ、あのシュークリーム、美味しそう。

 それに20%オフじゃない。)

七海はスーパーの日配品が置いてある冷蔵棚の一角にあるお菓子コーナーを覗き込むと、そこには、普通の食品大手のシュークリームが20%オフのシールを張られ置かれていた。

(翔平さんは、こんな庶民的なメーカーのシュークリームなんて食べないかしら。

 でも、この抹茶のシュークリームも美味しそうだし、チョコレートのシュークリームも、生クリームも捨てがたいし、どないしょうかしら。)

七海はシュークリームの棚の前で2、3分考え込んだあげく、生クリームのシュークリームとチョコレートのシュークリームを手に取った。


(あとは…。)

店内を物色して歩くうちに、野菜コーナーでプチトマトとカットレタスが目についた。

七海は、プチトマトと袋詰めのカットレタスを一袋手に取ると、スーパー籠に入れ、最後に、本日の特売品と札のついているグレープフルーツのルビーを2玉籠に入れ、レジに向かった。

買い物を済ませ翔平のマンションに戻る頃には、午後の4時を回っていた。

(まったく、ここからの眺めはすごくいいんだけど、買い物や通勤の時に、ちょっとした登山になるから不便よね。

 途中の急坂、途中に休憩用のベンチが置いてあるし、手すりがしっかり着いているけど、雪の日なんてきっと昇れないよ。)


 七海は冷蔵庫に買ってきたパンや牛乳、卵を仕舞うと、カットレタスとミニトマト、そしてグレープフルーツを持ってキッチンにいき、流しの下からステンレスのボールを取り出し、立てかけてある“まな板”を取り出した。

そして、食器棚から深めの皿を2つ取り出し、カットレタスを半分ほど取り出し、皿に盛り、その上にへたを取り水洗いしたミニトマトを綺麗に飾り付けた。


「一丁、あがり。

 一人暮らしだと野菜が不足するもんね。」

部屋の中に一人だったので、七海は独り言のように声を出す。

七海は、翔平のためにサラダを盛りつけ、ラップをかけると冷蔵庫に仕舞った。


「さてと、このグレープフルーツはどうしようかな。

 真ん中から真二つに気って食べるのが普通みたいだけど、それだと食べた気が…。

 我家の方式で行こう!」

七海はそう言いながらグレープフルーツの皮を手で剥き出し、そして一房ごとに中の渋皮を綺麗に剥いてボールに入れていった。

そして1玉剥き終わると、深皿に移し、ラップをかけて冷蔵庫に、残った1玉はそのまま野野菜室にしまい込んだ。


「これでよしと。

 翔平さん、グレープフルーツ好きだから。

 さあ、片付けして終わりにしましょう。

 えへへへ、ちょっと味見。」

七海はボールの中に残ったグレープフルーツを頬張って、「甘くて、美味し~い。」と思わず微笑んだ。


それから調理器具を片づけると、買ってきたシュークリームの生クリームの方を冷蔵庫から取り出し、リビングの椅子に腰かけ、スマートフォンを一生懸命いじり始めた。


そして、「ふぅ」とため息をつくと、スマートフォンをテーブルに置いて、シュークリームの袋を開け、中のシュークリームをニコニコしながら頬張った。

二口目を頬張ったところでテーブルの上においたスマートフォンが光り七海に何かメッセージが届いたことを伝える。


「え?

 ほんま?」

七海はシュークリームをテーブルに置くと慌ててスマートフォンを手に取った。

メッセージの相手は、予想した通り、翔平だった。


七海はシュークリームを食べ始める前に翔平に、買い物をしたこと、サラダを作って冷蔵庫に仕舞ってあること、翔平の分のシュークリームを冷蔵庫に入れてあることなどをメッセージとして送っていたのだった。


しかし、時間的に翔平はまだ仕事中のはずなので、返信はもっと遅くにだろうと高を括っていたので、急な返信に思わず驚いてしまっていた。


翔平からの返信は『サンキュー』という一文ににっこり笑った絵が添えられた短いものだったが、七海には嬉しかった。


(でも、今の時間て、まだ仕事中じゃない?)

そう思いながら七海は『今、何しているの?』と送ってみた。

すると間髪入れずに返信が届き、内容を見た七海は吹き出してしまった。

その内容は『会議中』という一言に泣き顔の絵がついていた。


(もう、会議中にSNSなんてしとってええのかしら…。)

七海はそう思いながらも、『がんばってくださいね』と再びメッセージを書き込むと、すぐに『おう!』という返事か返って来た。

それ以上は、さずがに会議中でまずいだろうと、七海はスマートフォンを置いて窓の外の景色を眺めながらシュークリームの残りを口にしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る