第3話 シンデレラ

七海は、翔平のマンションを出ると、真っ直ぐに近くのJRの駅に向かった。

それから駅前でバスに乗ると、相鉄線沿線にある大型スーパー近くの停留所で降り、スーパーに入って行った。

七海は、ぼろぼろになった母親のパジャマを買うつもりだった。


HKLを始めてから、まだ3か月だが、七海が生活費としてHKLで稼いだお金を家に入れるようになってから、生活に少し余裕が出来き、母親の調子も日増しに良くなってきた。


当初、土曜日の午前からその日は大抵外泊で日曜日の夜まで家に帰ってこなく、しかも高額のお金を家に入れるようになった娘を何の仕事をしているのかと心配していた母親だったが、七海は大手の有名会社のビルで泊まり込みの警備員のアルバイトをしていると嘘をついていた。


警備と聞き、母親の良子は、七海が風俗店でバイトをしているのではないと胸をなでおろしたが、すぐに警備と言うことで暴漢にあったらと違った心配をし始める。

七海は、そんな良子に笑いながら、大勢いるし、皆親切で、設備もしっかりしているから大丈夫、それに、女子用の宿泊施設もきちんと備わっているので、危ないことはないと付け加えた。

それに、大手の会社なので、アルバイト料が高額だと説明していた。


良子は七海の笑顔と、帰ってきても疲れ切った顔をせず、逆に鼻歌を歌うほど元気で帰って来るので、全くと言っていいほど安心し切っていた。


良子は、七海を高校卒業させるまではと、七海が中学・高校に通っている間、朝から夜遅くまでパートの事務と掃除婦の掛け持ちで働いていた。

しかし、高校卒業して七海が社会人として勤めれば、親の務めは終わり、自分だけで細々と暮らせるくらいに仕事を抑え、身体が少しは楽になるのではと思っていただけに、七海が大学に進学すると聞いて、喜びはしたが、心の中は、次は大学を卒業する4年後まで頑張らなければということが知らず知らずのうちに重荷になっていた。


一度は七海が、高校卒業し社会人になると思い弛んだ心は、再び大学を卒業させるまでは頑張らなければという気持ちにきりかわった反面、まだ身を粉にして働かなければならないという絶望感、悲壮感の負の感情を燃え上がらせ、いつしか笑みを忘れ、無表情で言葉も発しなくなるほど良子は静かに心を病んでいった。


大学2年になったある日、七海が母親の異変に気が付いた時は既に遅く、症状はかなり深刻な状態だった。


医者に通う傍ら、母親が自分の老後と七海の結婚資金のためにと貯蓄していたお金では、あっという間に生活費が不足することは明白だったので、七海はHKLを始めた。

そして、七海からHKLで稼いだバイト料が入り、生活に少し余裕が出たせいか、今では、普通に会話ができ、笑みも零れるほどに回復し、また、長年働いていたパート先の好意から、フルタイムとはいかないが夕方近くまでの事務のパートを再開できるようになっていた。


七海は大型スーパーで良子のパジャマを買うと、相鉄線で横浜方面に戻り、最寄り駅で降りると自転車で家まで戻った。

七海の家は相鉄線の駅から、川伝いに自転車で15分程の距離にある築20年の木造2階建てアパートで、その上の階の端にある2Kの間取りの一室だった。


七海はアパートの敷地の中に自転車を止めると荷台からスーパーで買ったパジャマや食料品の入った袋を持つと、2階に上がる階段に向かって歩き始める。


(あ~あ、翔平さんのマンションとは大違いね。)

新築で広く綺麗な翔平のマンションと比べると、自分の住んでいるアパートは月と鼈ほどかけ離れていて、翔平のマンションで夢のような時間を過ごしていた七海が現実に戻る瞬間だった。


アパートの前には川が流れていて、昔と比べるとそれでも綺麗になったが、依然、生活排水が流れ込んでいる川で、風に乗ってどぶの匂いが鼻についた。

(昔、引っ越してきたてだった小さな頃、学校でよく“どぶ川の匂いがする”ってからかわれたっけ。

 あの頃は泣きそうだったな。)

ふと、七海は昔のことを思い出した。


七海の母が父親と離婚したのは、七海が小学生の時。

離婚の数年前から、父親と母親は顔を合わせれば言い合いをして、ぷいと家から出て行く父親、部屋で泣き崩れる母親を長いこと見て来た。

七海の父親は七海が小さい頃から七海に愛情を示さず、常に邪魔扱いをしていたので七海は物心ついた時から父親を何とも思っていなかったが、母親が泣くのを見るにつれて、父親のことが嫌いになっていた。。


ぱったりと父親が帰ってこなくなってから半月ほど経ったある日、七海が小学校から帰って来ると母親が薄笑いを浮かべ、荷造りを終わらせて七海を待っていた。

「お母さん、どないしてん?

 どこぞにいくの?」

「うん、違うお家に行くのよ。」

「お父さんは?」

「お父さん…。

 あの人はもうおらへんわ。

 これからは、お母さんと二人やけどいいわよね?」

良子は七海の反応を心配そうに問いかける。

「うん。

 お母さんと一緒なら、お父さんなんていらへん。」

七海は、心の底から嬉しそうな顔をした。

そして、大阪を離れ、良子の知りあいの伝手で、横浜のアパートに移り住んだ。

七海が小学校4年の時だった。

それから、このアパートで母娘二人、肩を寄せ合って生きて来たのだった。


七海が階段の手すりに手を掛けようとした時、“ガチャ”と階段の近くの部屋のドアが開き、部屋の中の明るい光が七海を照らし、灯りの中から初老の女性が顔を出した。

「七海ちゃん、お帰り。

 自転車の音がしたから、“七海ちゃんかな?”って思ってさ。

 やっぱり七海ちゃんだったわ。」

「おばちゃん、ただいま。」

七海に話しかけた女性は、七海たちがアパートに越してきた時から住んでいる住人の一人で、一人暮らしのせいか、七海のことを実の子供のように可愛がっていた。


アパートの住人は、出入りが少なく、ほとんどが七海たちと同じ時にアパートに越して来た人間ばかりで、しかも、身寄りもなく家族のいないものばかりだったのでアパート中が一つの家族のように七海たちに接していた。


「今日も、アルバイト?

 あら?

 今日は違うのかしら。

 もしかして、七海ちゃん、彼氏ができた?」

「え?」

七海は女性が何を急に言い始めたのか、訳が分からなかった。

「だって、ご機嫌そうだし、それに、キスマーク?」

女性はそう言いながら、自分の右の首筋に指をあてて七海に見せた。


それを見た瞬間、七海は思い当たることがあった。

(確か、そこは翔平さんに…)

七海は、思い出し顔が熱くなるのを覚えたが、努めて冷静な振りをして、空いている方の手を横に振った。

「い、いやね、おばさん。

 彼氏なんていまへんし、ましてはキスマークなんて。

 これ、虫刺されですって。

 さっき、急に痒くなって掻いちゃったから、ほんで赤くなったんやで。」

七海は、普段は標準語だが、驚いたり焦ったりすると、自然と昔の関西弁が出てきていた。


「そうなんだ。

 でも、七海ちゃん、綺麗になったんだから、彼氏の一人や二人がいてもおかしくない年頃よ。」

女性は眩しいものを見るように七海を見つめた。


「もう、おばさんたら、お世辞が上手いんだから。

 まだ、興味ないし、それにそんな暇や余裕はないですって。

 それより、お母さん、どうでしたか?」

女性は良子の病気のことと七海がアルバイトで土日に家を空けることを知っていたので、ちょくちょく様子を見ていた。

「お母さん、大丈夫よ。

 昨晩は、私の部屋で一緒にご飯を食べてお話して…。」


七海は一通り母親の話を聞いた後、女性に深々とお辞儀をすると自分の家に戻った。

ドアノブに手を掛けると、鍵が閉まっていたので、自分の鍵でドアを開けて玄関に入った。

「ただいまー!」

返事はなかったが、代わりに浴室の方からお湯を流す音が聞えていた。

(お母さん、お風呂か)

七海は部屋に上がるとキッチンの横の浴室のドアの外から「ただいま」と声をかけた。

すると、七海の声が聞えたのか「七海かい?お帰り」と良子の声が聞えた。

七海は、「うん」と答えると自分の部屋に入った。


七海の部屋は和室の4畳半。

中に入ると、すでに雨戸が閉められていて中は真っ暗だった。

手探りで電気のスイッチを探し、スイッチを入れると、昔ながらの吊ってある丸い蛍光灯の照明器具の電気が点き部屋を照らした。


七海は下の階で女性に言われたキスマークのことを思い出し、慌てて手鏡を探し、首筋を見た。

確かに右の首筋の下の方、襟に隠れるか隠れないかのところが確かに赤くなっていた。

(おばさん、よくあの暗がりで気が付いたわね)

七海の服装は襟付きの白のブラウスで、襟で見えないところのはずだが、荷物を右手で持っていたせいか右肩が落ち、そのせいで襟がずれキスマークが見えていたのだった。

母親に見られ余計な詮索をされるのが嫌だったので、バッグから絆創膏を取り出すと、キスマークを隠すように上から貼った。

(翔平さん…)


翔平は、よく七海の首につけ根、胸や腋、太ももの内側などにキスマークを残すことがあった。

ただ、何日も残るような大きなものではなく、お風呂で温めれば消えて行く程度なので、七海は気にしていなかった。

それよりも、翔平にキスマークを付けられた時にされていたことを思い出すと、下半身が熱くなるのを感じた。

(いやだ、私ったら…)

鏡に映った自分の顔がほんのり上気し、赤くなっているのが見えた。

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